伶倫楽遊 伶楽舎雅楽コンサートno.38 王昭君をめぐって|齋藤俊夫
伶倫楽遊 伶楽舎雅楽コンサートno.38 王昭君をめぐって
REIGAKUSHA Gagaku Concert no.38 “Oshokun”
2021年12月17日 なかのZERO小ホール
2021/12/17 Nakano ZERO Small Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by Ayane Shindo
<曲目> →foreign language
舞楽 貴徳 急
管絃 平調音取、王昭君
伊左治 直:『明妃曲』(委嘱初演)
芝 祐靖:『組曲 呼韓邪單于(こかんやぜんう)―王昭君悲話―』
<演奏>
伶楽舎
王昭君(おうしょうくん)とは、前漢の時代に後宮から選ばれて匈奴の王・呼韓邪單于(こかんやぜんう)に嫁がされた美女。今回はその王昭君にちなんでの古典舞楽、管絃、現代雅楽、そして古典雅楽様式による現代雅楽組曲が並べられた。
舞楽『貴徳急(きとくのきゅう)』、ある程度は雅楽、舞楽に接してきた筆者であるが、やはりこの舞楽というものは――正直に言わせてもらえば――奇妙で不思議な〈踊り〉である、いや、踊りというジャンルに当てはめることができるものなのだろうか。
高麗笛4人の音高が微妙にズレてヘテロフォニックな効果をあげるのが強く印象づけられる雅楽をバックに、ごくごくゆっくりと舞人が舞う。勇壮とも、ユーモラスとも言えるその舞は、一分の隙も見いだせないが、しかし筆者の知る〈踊り〉とは全く違う。舞人の全てのポーズが〈彫像〉と形容できるほどに美しく、全く無駄、余計なものがないが、その彫像化した舞人からは肉体性・運動性が剥奪されている。一般的な〈踊り〉という肉体と運動の芸術とは全く異なるものが〈舞楽〉なのではないか、と筆者には感じられた。
管絃『平調音取 王昭君』、プログラムによるとマイナーな作品らしいが、(筆者が雅楽に慣れていないせいかもしれないが)素晴らしい音楽、あるいは音響世界にいざなわれた。
笙の垂直に立ち上る音響をバックに、篳篥、龍笛、箏、琵琶がアンサンブルを成し、協奏的にそれぞれの楽器がソロ的な役割も担う。楽想の変化やフレーズの動きは極めてゆっくりなのだが、鞨鼓の連打や太鼓の重低音が規則的に入ることで、伸縮する管絃の時間と一定の打楽器群の時間という二重の時間が共存して流れてゆく。短い曲ながら、こちらの耳と心を完全に奪っていった。
このところ活躍目覚ましい伊左治直の現代雅楽『名妃曲(めいひきょく)』、ソリストとして琵琶奏者が中央に位置し、その左右に箏、笙、篳篥、龍笛が2グループに分かれる。琵琶奏者だけは見た所中国のものらしき服を着ている。この琵琶ソリストが王昭君の役であろう、と筆者は推測した。
しかし、この小編成のアンサンブル&ソリストが雅楽楽器を使って新しい現代音楽を作るのに成功していたか、というと、疑問を持たざるを得ない。「雅楽」の新作というよりは、雅楽の楽器を使って西洋(現代)音楽のイディオムに従って作曲したかのようで、各楽器が旋律的フレーズをそれぞれ奏でるのだが、古典雅楽のあの匂い立ち昇るような華やかな音響を獲得出来ておらず、率直に言って貧弱に聴こえてしまった。やはり雅楽というそれだけで飛び抜けた個性のある楽器編成、そして歴史のあるものの新作は難しい、との思いを改めさせられた。
後半は故芝祐靖作曲、古典雅楽様式による雅楽組曲『呼韓邪單于―王昭君悲話―』、
後宮での不遇、見知らぬ匈奴の王に嫁がされる不運、呼韓邪單于との愛情、匈奴への旅、呼韓邪單于との死別、異郷での憂い、死後仙境に至って安らぎを得る、という王昭君の物語を雅楽の組曲で描いた現代雅楽組曲、全曲で約1時間かかる大作である。各曲に「壱越調々子(いちこつちょうのちょうし)」「前奏曲 仙境楽(せんきょうらく)」「王昭君閑唱(かんしょう)す」「呼韓邪單于の入朝」「王昭君と呼韓邪の邂逅(めぐりあい)」「元帝後悔す」「匈奴への旅」「異郷憂心、王昭君絶唱」「王昭君仙境の霊唱」「終曲 仙境楽」という題が付されている。
「王昭君閑唱す」で、王昭君の歌を客演の下野戸亜弓が日本の古く渋い歌唱法(箏歌であろうか、細かくはわからない)で歌うのが実にしみじみと心に沁みる。呼韓邪單于の主題は太鼓・鉦鼓・鞨鼓の拍打ちの上に全楽器による合奏で力強く、騎馬民族の王に相応しい音楽。芝祐靖の解釈では王昭君は呼韓邪單于のたくましさに惹かれ合い相思相愛の仲になったらしいが、なるほど、これは惚れる。しかし呼韓邪單于は王昭君と結ばれて数年で没し、王昭君は異郷で寂しく亡くなる。彼女の絶唱と、死後、魂が仙境に至っての、さびているが、ノスタルジアをかきたてる霊唱を下野戸が歌い上げるのもまたをかし。終曲「仙境楽」は全楽器による絢爛たるまぶしいほどの音が鳴り響き、次第に音が静寂に落ちていき、了。
しかし、古典雅楽の書法で書かれたこの『呼韓邪單于』、上記のように物語的構造と音楽はマッチしていたのだが、それゆえに雅楽の古典曲とは音楽的な〈何か〉が異なり、筆者はどこかに違和感を覚えたのも確かなのである。キッチュ、というものではないだろう。だが、雅楽で物語を描くという挑戦は、確かに有意義なことだとは思うが、古典雅楽の絶対音楽的世界、物語を拒絶する純粋性を損なってしまったのではないだろうか。
挑戦に挑戦を重ねた素晴らしい企画だったとは思う。だが、「これからの雅楽」を探求する上での重い問題もまた明らかとなった演奏会であった。
(2022/1/15)
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<Pieces>
Kitoku kyu
Oshokun
Isaji Sunao “Meihi kyoku”
Shiba Sukeyasu “Kokan‘ya zen‘u (Huhanye Chanyu)-The tragedy of O Shokun (Wang Zhaojun)”
<Performer>
Reigakusha