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パリ・東京雑感|西洋医学の盲点をあばくシャーマンの遺産|松浦茂長

西洋医学の盲点をあばくシャーマンの遺産
Strange Powers of the Trance on the Brain

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

蓼科高原鹿山

聞き慣れたCDを山の中の家に持って行ってかけると東京とは違って聞こえる。山や森を眺め、小鳥の声を聞いて暮らすのだから、感覚が変化するのは当たり前だと、軽く考えていたが、違いの原因はもっと深いところにあるのかも知れない。
東京に帰ると、妙にのんびりしてしまう。脳か精神のどこかが眠り込んでしまったようなフラットな感じ。あの違いは何だ?
そんなことを考えていたところに、ヒントを与えてくれそうな記事が見つかった。『ルモンド』によると、パリ大学でシャーマンの脳と精神をテーマに「トランス状態と意識変容」の国際講座が始まったというのである。

 

ブリヤート人シャーマン(シベリア)

大きなスピーカーから電子音が出ると、一人の女性は馬にまたがり、果てしない草原を疾走する。もう一人の女性は、海に潜り、クジラの「涙」を聞く。別の女性は、死んだ父親と祖父の顔をかいま見たため、顔を引きつらせる。逞しい男性が、密林の奥で、ゴリラのように腕を振る。石になろうが、風になろうが、木になろうが、動物になろうが、トランスの世界は自由自在だ。
でも、霊に憑かれたシャーマンの非現実的な言動が、どうして最先端の医学研究の対象になるのだろう?この講座への参加は、専門家に限定したのだそうだが、ヨーロッパ、アメリカから、神経学、心理学、精神医学などの研究者と医者の申し込みが殺到した。講座を担当するビオワ教授によると、これは社会が変わったしるしだそうだ。
伝統的な医学は患者に外から働きかけるだけだったが、いまようやく、人間の内部に心身を整える力が備わっていることに目覚めた。したがってこれからの医者は、患者自身の中から隠れた治癒の力を引き出してやるのが大切な仕事になるのだという。東洋の医学は1000年の昔からそんなことは知っていたと思うけれど……
ともあれ、意識変容の第一人者リエージュ大学(ベルギー)のスティーブン・ローレイズ教授に語ってもらおう。

トランスは精神のもつ可能性を示す良い例です。言い換えれば、患者自身が健康を取り戻す能力を備えているということです。私たち科学者にとって、何と大きな挑戦でしょう!意識とは何か?思考とは何か?感情とは何か?と問い続けてきた私達にとって、トランスは脳の働き方の理解を深めるためのまたとないテーマなのです。
まず、トランス状態の脳の地図をつくり、催眠術やメディテーション中の脳についてやったのと同じ科学的厳密さで分析しなければなりません。これらはまだ医学教育の項目に含まれていませんが、すでにリエージュ大学病院では、1万人の患者が、全身麻酔なしで手術を受けたのです!中世的な医学教育の体系をひっくりかえさなければいけません。

フランス人シャーマン、コリーヌ・ソンブランさん

それにしても、シャーマンとは縁のないフランスでシャーマン研究が始まったのはなぜだろう。一人のユニークな女性の物語がある。
1999年、失恋して落ち込んだ作曲家・カンヌの音楽学校長コリーヌ・ソンブランさんは、ロンドンに移住し、BBCの民族音楽のポストにつく。モンゴルの神秘というテーマの番組を企画し、シャーマンの儀礼の録音に取りかかるが、共産主義時代に迫害されたシャーマンは警戒心が強く、なかなか録音を許してくれない。数日掛けて説得し、ようやくシャーマンの一人が、ユルタ(テント)の中で内密の儀礼をやってくれた。ところが、とんでもないことに……

太鼓が鳴り始めると、コリーヌさんの体が震え始め、けだものの鼻が生え、けだものの手足、けだものの爪が生えてきた。彼女はオオカミになったのだ。オオカミの吠え声を上げ、シャーマンを襲い、太鼓を奪い取った。
儀礼が終わり、恥ずかしさと困惑でいたたまれないコリーヌさんに向かってシャーマンは、「あなたには、他人を治癒し他人に奉仕するため、精霊に選ばれたしるしの賜物があるのです。ここにとどまってシャーマンの儀礼を学ぶしか、あなたの生きる道はない。選択の自由はありません。こばめば、あなたは不幸になる。これまであなたが経験した苦しみとは比べものにならない地獄の苦しみですよ。」とのご託宣。
コリーヌさんは憤慨し、「いかさま師の脅しに負けてなるものか」と、帰国する。
ところが、精霊の力に抗しがたかったのか、好奇心が不信に勝ったのか、また彼女はモンゴルに行き、結局8年間、水道も電気もないユルタの中の集団生活に耐え、シャーマンの教育を受けた。
コリーヌさんのシャーマン体験は、8年間耐え忍ぶ値打ちのある素敵なもののようだ。

トランス状態に入ると、世界が大きくなります。ある夜、私は宇宙全体と融合した感じ、自分が宇宙によって満たされた感じになりました。見えるものと見えないものの境界が崩れ去る。私の体は溶解する。「私」は全体の中に溶けてなくなりましたが、同時にかつて経験したことのない「不滅」の感覚が現れました。

これは宗教的神秘体験としてはごくありふれた感覚だが、コリーヌさんは宗教を信じないし、神秘家にもなりたくない。誰にでも備わった能力として、理解したかった。そこで医者・科学者行脚が始まる。さいわい「太鼓の音を聞くとオオカミになる」というコリーヌさんの症状を真剣に聞いてくれる精神科医に出会い、カナダのアルバータ病院研究センターのピエール・フロル=アンリ教授に紹介された。
こうして世界で初めてトランスの脳の研究が始まり、まずシャーマンの脳に異常はない、健康な脳であることが確認された。そして、トランス状態になると、脳の活動にはっきりした変化が現れる。人間の脳は通常、分析的理解をつかさどる左脳が支配的だが、トランスになると感覚的・直感的理解をつかさどる右脳が支配的になることが分かった。頭脳活動の指揮者が交代するわけだ。

コリーヌさんの奮闘で、ヨーロッパにもかなりの人数の「シャーマン」が生まれた。儀礼抜き、宗教色抜きの疑似シャーマンではあるが、それでも病気の治療師としては本物に負けない力量を発揮できるらしい。
――開業医カサール氏の医院で開かれているトランスの研究会に、腰に麻痺がある研究者トレル氏が杖をついてやって来て、つらいので横になっていた。ところが音が出て8分後、呼吸が速まり、まるで天井からロープで引き揚げられるように、何度も身を起こした。この間、トレル氏は全く痛みを感じないばかりか、力が10倍も増したように感じた。
――44歳のセブリーヌさんは進行性の肺ガンで、化学療法を受けていた。トランスの講習会に参加したとき、彼女は精神的にすさんだ状態で、怒りの衝動を抱えていた。最初のトランス体験で、何かが彼女の中で還流するのを感じ、喜びがわき上がってきた。10ヶ月間彼女は笑いを失っていたのに、その晩両親に電話すると、「以前のお前に戻った!」と驚きの声をあげた。トランスを続けた結果セブリーヌさんは「人生に新しい展望が開けました。私の中に頼れるものが出来たので、自分の人生を直視できるようになりました」と言う。
――ターミナルケア医ケースマン氏は、トランスのおかげで終末期の患者との関係がどれほど豊かになったか、言葉では表現できないほどだという。「今の私は、患者の状態を推しはかるのではなく、患者が亡くなるとき、その方との濃密なつながりをじかに感じるのです。そのおかげで、亡くなる方によりそうための最もふさわしい動作、言葉、方針が直感的に分かるようになりました。終末のときをどう迎えるかには実に沢山のことが掛かってきます。もちろんそれは身体の苦痛だけではありません……。医者とは診断して薬を出す人にすぎないのなら、いずれロボットに取って代わられます。もし医学とは、患者の体と心の全体を診るものだとすると、人類の遺産のひとつであるトランスは、大きな助けになるでしょう。」

新実徳英さんの家付近からの眺め

最初の疑問に戻ろう。太鼓の音がトランスを引き起こすのだから、音楽とシャーマニズムには深い因縁があるはずだ。
蓼科の鹿山村の隣人に作曲家の新実徳英さんがいらっしゃる。『焰の螺旋』という謎めいたタイトルのオーケストラ曲のCDを頂いたとき、この曲をはじめいくつかの曲は、「山で暮らさないと生まれなかった」と言って、新実さんにとって特別な意味のある体験を聞かせてくれた。

夕日が沈む前、黄金に耀く山々を眺めているうち、風景の中に自分が溶け込んでしまいました。自分という意識がなくなった。はっと我に返った瞬間、自分はなかった、と思いました。
脳は自分を閉ざすものだけれど、風景と一体になったとき、開かれたのです。

大自然と合一する恩寵の瞬間が、創作に新たな息吹を与えたのだ。
新実さんの純粋経験は、「自分が宇宙によって満たされた感じ」を語ったコリーヌさんのトランス体験と深いところでつながっているではないか?

シャーマンの訓練を受けたひとの証言でもう一つ特徴的なのが、「喜び」だ。何ヶ月も笑えなかったガン患者に、喜びがこみ上げてくる。一時のはしゃぎではなく、存在の深みから湧き上がってくる喜びである。
音楽を聞くときも、日常生活の楽しさ・面白さとは異次元の厳粛な喜びが伝わってくることがないだろうか?静かな感動だが、永遠を予感させる確かさが、厳粛な歓喜の目印だ。ベートーヴェンの田園交響曲、とくに嵐の後の平和なシーンに、だれしもそんな喜びを感じるのではないか?

ブルックナーの交響曲は、宗教的エクスタシーを音響に移し替えたように聞こえるが、そこに爆発的歓喜が生まれる演奏もあるし、悲劇的壮大さに徹する演奏もある。息が詰まるほどの歓喜のブルックナーを聞かせてくれるベームは、宇宙との合一を知る大シャーマンなのでは?

宇宙・自然に融合して自我意識を失い、さらには他者と言葉を介さずにじかに通じ合う――これこそ健康的な生ではないか?自然から遮断された都会に暮らし、自我の殻に立てこもって他者とのつながりが希薄になりがちな私たちは、心身とも半病人なのかもしれない。近代人が軽蔑したシャーマンの遺産の中に、人間本来の健康を回復してくれる知恵が伝えられていた?山の生活を続けると、いくぶんシャーマン的脳機能が刺激され、直感受容のボルテージが上がる?多分、ここら辺に聞き慣れたCDが山では違って聞こえる理由がありそうだ。

(2021/12/15)