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評論|西村朗 考・覚書(16)ヘテロフォニー(Ⅲ)|丘山万里子

西村朗 考・覚書(16) ヘテロフォニー(Ⅲ)『2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー』( 1987)
Notes on Akira Nishimura (16) HETEROPHONY Ⅲ

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

『雅歌Ⅰ〜Ⅳ』の四部作を西村は以下のように位置付けている(カッコ内は筆者)。
《雅歌Ⅰ》ヘテロフォニーの具象(旋律的ヘテロ)
《雅歌Ⅱ》ヘテロフォニーの抽象(ユニゾン的ヘテロ)
《雅歌Ⅲ》ヘテロフォニーの概念化(音列使用によるずれヘテロ)
《雅歌Ⅳ》ドローン上のヘテロフォニー(ドローン上ヘテロ)
ここでヘテロフォニー技法の確立を目指した彼は、同時に日本交響楽財団によるオーケストラ委嘱作に向けての構想を練っていた。自分のヘテロフォニーを思う存分に示してみたいという欲求のもと、生まれたのが『2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー』(1987)で、これが彼のヘテロフォニスト宣言となる。その原形は10年前に書かれた77年初演の『ピアノ協奏曲』(79年『ピアノ協奏曲“紅蓮”』に改訂)にあるが、「曲頭からの約8分間、ピアノはトレモロにより単旋律を紡ぎ出し、オーケストラの響きを誘発・誘導する。後半は爆発的な動きの連続。賛否あったが、これがデビュー作となった。」(1)
筆者の手元にあるのは77年の原典版だが(改訂版は不明とか)、いかんせん縮小サイズで40ページ(演奏ほぼ20分)、楽節[A]~[T]に及ぶスコアを丹念に読むのは難しく、画像で拡大しても不明瞭ゆえ大雑把に全体像を思い描く他ない。

独奏pf開始部分

とにかく冒頭は弦管による音の帯で、hを基音とした持続(vcはc~オクターブ上のf間の上下グリッサンドの波)に打のパルス、これにファゴットなどがcis,e,f,fisといった響きでのドローンとトレモロをまとわせる。あれこれ動いたのち、独奏pfが入るのは6ページ[C]の終盤で基音のh(p)のトレモロ。やはり管弦がうねりつつ添い、やがてcへ上行で一息。ついでlamentabileの指示でh~c~es~d~gis~a~gisとなだらかな旋律を2声でずらしながら紡いでゆく。オーケストラを牽引誘導するのはやはりpfと言えよう。大きく曲面が変化するのは28ページ[O]からでpfが6連符アルペッジョの上行下行など忙しなく羽ばたき、総勢でのクライマックスとなる。[S]終盤ティパニの刻みの上でのトレモロ2声e,g〜h,cisへ順次下降するpfソロののち、[T]コーダを総奏半音下降強奏で締めくくる。改訂版ではこれを全体に引き締めたそうだが、原版の方が原発想を生々しく伝え『2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー』の「祖形的原光景感」が感じられるのではないか、とのことであった。(2)
筆者はここで松村禎三『ピアノ協奏曲第1番』(73)でのcisを基音としたドローン(松村オスティナート)や御詠歌旋律を思わずにいられない。5年後の『ピアノ協奏曲第2番』(78)もまた本作と相似する。むろん西村はこれらを知っていたろうが、松村ドローンと西村ヘテロフォニーとの相違もなかなか興味深いところだ。
ちなみにタイトル「紅蓮」とは紅色の蓮の花のことで、仏教の紅蓮地獄に由来、猛火の炎の色を表すことに留意したい。「祖形的原光景」とは紅蓮の炎なのか?西村はその後、『紅蓮Ⅱ』(尺八と箏のための二重協奏曲/84)(3)を書いており、この「炎」のイメージは例えば室内オペラ『絵師』(芥川龍之介『地獄変』より/99)での炎、さらには『紫苑物語』のうつろ姫と藤内を滅ぼす炎へと連なる西村世界の一つのキーワードと言えよう。

さて本題の『2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー』は全3楽章構成で第2、第3楽章は続けて演奏される。こちらは『紅蓮』と異なり最初から管打低音fユニゾンで、pfが強烈に響き立つ。f~g、f~e~f~asとアジア風旋律が何やら美女の流し目的な引力。一句につきディナミークは(p<f)だからそんな気分になるのだろうか。筆者はつい、『雅歌Ⅱ』での周囲を振り回すごときソプラノの怪しくも妖しい動きを思い、いやそれより、ピアノ作品2作目の『トリトローぺ』(三つの旋律系/78)導入部単音トレモロc~des~c~f~e~des~c~e~des、3度上がっての同型トレモロ、そして終尾におけるais~h~ais~es~d~h~ais~d~hのトレモロそのものだな、と振り返る。(第11回)
ピアノを2台としたのは響きのスケールと持続の拡大のためで、その効果はてきめんだ。2台ピアノ採用については、先んじて『波うつ鏡』(85)があり、こちらもdef密集3度連打を導入に同音音域内でのトレモロ、メロディー、アルペッジョの流れの中で響の鏡の波動を創出する手法。むろん87年『雅歌Ⅱ、Ⅲ』『八手のための舞曲』でも2台pfでの響きを追求、扱いも同一路線だから、やはりこの時点での集大成と言えようか。

本人のCD解説によれば

2台のピアノはイメージとしてはオーケストラの中心に位置し、全体音響とその流れの発振源となる。激しく振動するピアノの強靭な響きの輪の中から、大管弦楽の響きがヘテロフォニックにたち昇ってくる、というのが作曲にあたっての原イメージ、原光景としてあった。ピアノ1台ではそのような響きの豊かさと持続力は得られないと思い、2台とした。(4)

弦の堆積とpfによる色調の変化

pfトレモロと管打の線的ヘテロフォニーは54小節で一区切り、そこに弦が静かに姿を現すがすぐに掻き消え、再びfトレモロが流れる。弦がaの堆積で動き出すのは72小節からで、pfもオクターブ下のaを響かせ全体の色調がふうっと変化する。その後、f,c ついでa,e空5度トレモロ(ff)が鳴る。この空5度の強奏連打ドローンもこの楽章の大きな推進力となるが、要所で入るアルパ、チューブラーベル、ヴィブラフォン他のグリッサンドの撒く幻想、時折鋭く上空で囀るピッコロなど、一つの響きの河の流れが少しずつ蛇行しながら表情を変え(とりわけpfトレモロの位置どりの変化により陰ったり明るんだり)、雲や光、かすめる鳥影、揺れる藻草などの情景が眼前に広がってゆくのである。筆者は松村の『ピアノ協奏曲第2番』の追い立てるような打音とすっと身を潜めるその直情的呼吸がたまらなく好きだが、こちらは絡み合う旋律性がある種のなまめかしさを含み、pf低音などが鳴る瞬間、思わずぞくっとするのである。175小節から入るティンパニ連打(というかティンパニの上にモンキー・タンバリンをのせて打ち、振動でジングルを鳴らす、との指示)にせよ、管打各パートによる響きのギアチェンジや彩色がヘテロフォニックな世界を巧みに幻出させる。コーダでの弦の収縮に打ち込まれるタムタム、ピッコロのひしぎ、pfの一打にcbが(ppp)低音ceで残影をひきずりつつ消えてゆく。
ここまででほぼ10分、全体の半分だ。
第2楽章も同じfトレモロ(Ⅰpf/des,es Ⅱpf/f)から開始だが、こちらはヘ短調の調号がある。第2楽章の終止を受け、fと弦だけの楽章でpf音形は装飾性に富み、河面が透明に泡立ち揺れる全4ページの短さ。

第2楽章

第3楽章

リズムヘテロフォニー

29小節アタッカで第3楽章、調号は消える。開始は8分の12拍子で低音as,es,as連続3連符のpf細波(pp)に「竹くしにさしたスーパーボールの小片でタムタムの表面をこすり、特異で神秘的な音(なるべく澄んだ)を発生させる」との指示がある。細波音形後半は4分の4拍子、16分音符の波動が弦、打、管へと増殖、10小節からpfユニゾンで低音esの連打に打cのドローンが加わり響きの帯を底支えする。その細かい刻みをどっしどっしと締めてゆくクロマティックゴング。高音部で持続音を流していた管がこの刻みに巻き込まれるのは41小節から。全体がアッチェルランドでうねりを重ね一山を築く。ついで51小節、4・3・5・2の擬似ターラがさらなる波動律動を創出、まさにリズムヘテロフォニー、西村リズム快感全開となる。あとはクライマックスに向け突っ走るのみ。
81小節ffで頂点に達し、pfが第1楽章を唸るように回想(低弦の不穏の気配…)、90小節から激越狂騒で加速、総奏c,g空5度の響きをドカンとぶち上げぶち込み華々しく終わる。
本作で西村は第36回尾高賞を受賞、新進作曲家として輝かしいスタートを切ることとなった。ちなみにこの作品は90年NYで米国初演、pfは高橋アキとフレデリック・ジェフスキーだったというから想像するだに垂涎ものだ。同年、オスロでのヨーロッパ初演時は猛烈なフィニッシュから沈黙5秒のち騒然、通路に吐瀉物が何箇所か、の話は既に第6回で書いた通り。西欧人には一種の圧迫感、どこで息をしたら良いかわからない律動に船酔い状態となったのは宜なるかな。
筆者はこの初演時、ウィーンにおり、聴いていない。

コーダ前の昂揚

終部

さて、この作品については沼野雄司との対談集『光の雅歌』第4章《ヘテロフォニー》に詳しく、西村ヘテロフォニーの何たるかを知ることができる。ここにいくつか抜粋、ご紹介しよう。筆者、再読して例えば「トレモロ効果の発見」に『トリトローペ』と『慧可断臂』(77)の経験を語っているのに気づき、当たり前ではあるものの、ですよね、と頷いたりするわけだ。
ということで、まず、トレモロについて(引用でなく要旨)。
1. 例えば、Dをぽんと叩くと3つの弦が震えるわけだから、トレモロでこれを鳴らし続けると振動に微差が生じる。単音の連続体でなく、そこからモワレが生じる。
2. ペダルを踏んでいると周辺に共振倍音層がざーっと広がっていく。ピアノは純正調の調律ではないから、変な倍音差音層も響いてくるので、一つの基音上に同質にして異質な音響が揺れる炎の影のように立ち上ってくる。
3. そこに同じ高さの他の楽器がなるとまた大きく作用し、影響しあい、累積的ヘテロの同調する世界が現出する。
4. 中間音域あたりが面白く、ユニゾンになる単音が原点。管弦楽法に黄金のオクターブというのがあり、ピアノ中央 Cの一個右横のDからオクターブ上のDの範囲は管弦楽のほぼ全ての楽器が共有できる。ここがおいしいところで、ここでやればヘテロフォニーが生じる。
次に楽器編成。
1. 同族の似ているけれどちょっと違う楽器の導入。オーボエとオーボエ・ダモーレ、コー・ラングレ3種類の効果。サクソフォン、トランペットもピッコロ・トランペット(D管)をわざわざ入れるのはヘテロフォニーが欲しいから。
2. 金属的な音のリード楽器、バターみたいな音の楽器など音色を質感、味覚、触覚で捉える、それもヘテロ的要素。
3. チューブラーベルとヴィブラフォン2台ずつもモワレや振動の重なりによる倍音のズレを織り込む意図。色調を特徴づける背景音として出す。持続楽器で、読みきれない振動作用が好き。
4. ソプラノ・サックスへのこだわりは、その楽器と何かが合わさったときにどういう色、質感が出るかに興味があるから。これにオーボエといったダブル・リード系を合わせる。
だから、ソプラノ・サックスのような真っ直ぐな楽器がいい。
次に構成。
1. 中心音やある種の調性の存在。わずか半音調が変わるだけで起こるドラスティックな変化は調性の力で、175小節の転調は180小節のラとミにゆく準備。
2. 楽章ごとに異なるタイプのヘテロフォニーを駆使。
第1楽章:ピアノを主軸とするヘテロフォニー。線のヘテロ。
第2楽章:笙のような弦の響きが背景で、その幕の前でピアノが面的に動く。二つの質感を異にする幕面が触れ合ったり離れたり近づいたりする音響。面のヘテロ。日本の雅楽、東南アジアのガムランなどの反映。
第3楽章:パルスのずれ。『雅歌』3部作からつながる躍動する音楽的生命体のヘテロフォニー。
この本人解説によれば、第3楽章クライマックスから終結にかけてのところで筆が止まり、自宅そばの目黒不動、大日如来に願掛けをした、とのエピソードも語られる。

宇宙の象徴たる大日如来。それまでの音楽の流れをさらにぶっ飛ばすような何かがどうしても必要だと思ってね。今から思えば別の終結もあったかなとは思うんですが、この時点ではもう、これしかなかったですね。だから思い残しはない。存分にやりました、それで、スコアの42ページのところで回帰、第1楽章の世界がいきなり帰ってくる。

筆者はこの部分、「pfが第1楽章を唸るように回想(低弦の不穏の気配…)」と書いたが、あれはそういうことだったのか....。

第1楽章回帰部分

*    *    *
というわけで、先月10月28日、目黒不動に出かけたのである(5)。 このお不動さんは28日が大縁日で護摩も5回あり、どうせならこの日に、と思った。目黒駅につき、バスを探してキョロキョロしたら「目黒不動尊大縁日ゆき特別バス」があったのに驚き、大したもんだ、と乗り込む。終点まで乗ったのは3人だったけれど。

コロナで我が家そばの神社も祭りや屋台出店を2年中止、縁日なんてとんとご無沙汰であったのでワクワク嬉しい。「やつめや にしむら」という八目鰻の名店が忙しそうに良い匂いを漂わせているがお持ち帰りしかやっていない。帰りに買うぞ、と思いつつまずは屋台の間をうろつき、放課後小学生やママと一緒の幼児らが射的やヨーヨー掬いに夢中、ママ友らは焼き鳥で一杯?みたいに寛ぐ、なんとも懐かしい風景だ。年配の方も結構いらっしゃる。
階段を昇って本堂に。護摩は内陣で焚く(有料)と知るが筆者は別段、願掛けなどもないので外陣から見物とし、肝心の大日如来を拝顔に裏手へ回る。その間にも三々五々訪れる
参拝者の姿に、ここは全き信心の地であるのだな、と実感するのであった。
御本尊がなぜ木立茂り雨風に晒される裏手に別置されているのか知らないが、線香の煙たなびく中、ずっしと大日如来は鎮座していた。きらびやかな光背はいささか派手すぎる気がするが、半眼の静かなお顔は穏やかで、三井寺の如来をふと思い出す。

筆者が仏像というものを多少なりとも見るようになったのは、高校の修学旅行、興福寺で山田寺の仏頭に出会ってから。衝撃で、作文を書いた記憶がある。以来、この手のお顔を好むが、その系統に連なると思えた。護摩時間まで近くに座し、秋の午後の柔らかな日差しと緑、紅葉に包まれうらうらと時を過ごす。さて開始時間の10分ほど前に本堂にゆくと、外陣には柵が置かれてしまい立ち入り禁止ではないか。仕方なく一番見やすそうな位置を確保(覗き見したい人がやはりいるので)、するうち僧侶たちが連れ立って入堂。太鼓どんどどどどんに鐘カーンカーンカーンカーン。高位の老師は足腰曲がった小さなお方で若い僧侶の扶助を受けつつ入座だが、護摩焚き終えてのち祈祷を受けた人々の名を呼び上げたときの朗々たる声に驚くことになったから、人の「力」は見かけではない。
読経開始。永平寺の朝を思い出す。どうやら般若心経らしく、隣に立つ年配婦人が共に和してゆくではないか。そうか、礼拝にいらしたのだ、と、好奇心だけの我が身を恥じる。ユニゾン、豊かな倍音、声の帯。虹のようにぼんやりした光の層、その色合いに、ああ、これだ、と思う。こちらは楽器や合いの手が入り、もっとリズミックでダイナミック、身体が自然に動いてしまう。この律動、リズムヘテロフォニーの一つであろうな。
そういえば、西村の畏友、佐藤聡明が彼との対話でお経の倍音について語っていた。永平寺の音をドキュメンタリー風に録音したLP『只管打坐(しかんたざ)』に入っているお経『普勧坐禅儀』(道元が書いたもの)の読経にある豊かな倍音を、信じがたいものがある、と。「大きな雲がだんだんできあがってきて、その中から光がこぼれてくるような感じの倍音が生まれてくる」(6)。この倍音効果を音楽に表現しようと生まれたのが『マントラ』(テープ作品/86)だとか。西村はこれに応じて曹洞宗僧侶による読経が持つユニゾンの微細なズレが生む倍音のうねりを語っているが、つまり読経・マントラ(真言)とはそういう不可思議を含む何かなのだ、と改めて思うのだった。
そうしていよいよ護摩が焚かれる。護摩とはサンスクリットで「ホーマ」(供物を捧げ生贄とする・焚く)の音写。火中に供物を投げ入れ供養する儀式で、人間の煩悩を焼き尽くす修法だ。護摩木に祈願を記し納め、これを焚くのだ。御祓をうける人たちは内陣で堂内の護摩壇近くに並び、儀式を見守る。小さな炎がちろちろと上がる。読経とともに両側の僧侶が交互に護摩木を炎に投じてゆき、炎はメラメラ、やがてお堂の天蓋に触れると思うほどに燃え盛ってゆく。読経のうねりとこの火炎のうねりは同期し、読経の昂揚を見計らって「おおー!!」という叫びが発されると天突く炎上に(と思える)、あるいは鎮まると火勢も弱まり、の繰り返し。その絶妙の波動とともに踊りくるう火炎、撒き散らされる火の粉。火の神、いや火の化身が眼前に。宙をなめ、燃え立つその「いきもの」の、ほとんど凄絶妖艶な美しさに筆者は息が詰まるようだった。
ヘテロフォニー西村解説、トレモロでの「一つの基音上に同質にして異質な音響が揺れる炎の影のように立ち上ってくる」。いやそれよりもっと凄愴な美。
つまり、紅蓮の炎。
筆者は以前、読んだ仏典でのブッダの敵で極悪人とされる提婆達多(デーヴァダッタ)の地獄落ちの話を想起した。ブッダを殺そうとした時、地中から立ちのぼった巨大な火炎と暴風にのまれ、焼き尽くされ無間地獄に落ちるそのシーン。インド田舎旅の折、立ち寄った仏教聖地、祇園精舎(サヘート)の近くにデーヴァダッタを呑み込んだ紅蓮地獄の跡(蓮池だったとされる)というのがあって、巨大な窪地になっているのを見た。慈悲も何もあるものか、残虐な、と吐き捨てるような気持ちになったが、大乗仏教はのち、彼を救済している。
既述したが西村の室内オペラ『絵師』は芥川の『地獄変』。女の乗る牛車に火を放ち、それを目に焼き付け描こうとする天才絵師が、炎に焼かれ身悶えするのが娘と知ってなお恍惚と凝視し続け、ついに絵を完成させる話だ。
そのように「炎」とは狂気を煽るが、一方で漆黒の闇を照らす法灯ともなる。プロメテウスの火が文明と同時に劫火ともなるように。
筆者はまた、永平寺から戻ってのち、たまたま TVで東大寺お水取りの録画を見て、やはり炎力の凄まじさを知り、練行衆がその修行のさなか「仏さまにお会いできる、眼前にいらっしゃる、ありがたいありがたい」と語るのを聞き、おそらくそうなのだろう、と思った。いわゆる「見仏」という体験で、「マントラ」(読経)「炎」はその強力な手立てなのだ。
なお、「炎」をタイトルとした作品を列挙しておく。全7曲で合唱2作については既述している(第7回 西村と朔太郎 (後編)〜「詩魂」と「歌霊」)。
『炎の幻声』(独奏二十絃箏と弦楽合奏のための/1988)、『炎の孤悲歌』(無伴奏混声合唱のための/1990)、『ヴィオラ協奏曲 焔と影』(1996)、『前奏曲 焔の幻影』(オルガンのための/1996)、『炎の挽歌』(無伴奏女声組曲/2000)、『無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番 炎の文字』(2007)、『炎の書』(ピアノのための/2010)

20分ほどの炎上鎮静大小波動ののち、やがて火は消えた。
御祓に並んだ内陣の人々が首を垂れて祈祷を受けている。
なんだかんだで1時間あまり本堂扉前に立ちっぱなし、病み上がりの上、軟弱な筆者は膝ガクガクであったが隣の婦人は「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」をうっとり唱えているのであった。
信心とは実に幸福なものだ。

大日如来、読経、炎、ヘテロフォニー。
お不動さんに集う近隣の老若男女の姿。
車椅子で、あるいは幼児の手をひき、読経、手を合わせる巷間の人々。
たこ焼きをほうばり、ちびちびと酒酌み交わす市井の人々、そのさざめき。
それらがぐるぐると全身をめぐる中、「やつめや にしむら」にいそいそ寄ると既に閉店。どっと疲労が足に来た。
ただ、一つ、強く感じたことがある。
これら全部、昨年、新薬師寺で、その翌日の新作『12奏者と弦楽のための“ヴィカラーラ”』で、「衆生」の声が聴こえた気がした、その体感と同じではないか。
危険と承知であえて述べよう、これは覚書だからして。
この信仰の場を支え集う人々、聖俗巷の人々のありようこそ、もしかするとヘテロフォニーの実態実体なのではないか。
すなわち衆生の海(声なき声あり)、それがヘテロフォニーのおおもと?
続くヘテロフォニ―作品群に少し触れたのち、それを考えてみたいが、どう着地できるかできないか、筆者にもわからない。

 

  1. 『光の雅歌』p.224
  2. 西村氏のメールより
  3. 作品目録では『紅蓮Ⅰ』になっているが(2014、2021年版)西村氏に『紅蓮』シリーズについて問い合わせたところ、目録表記は間違いで『紅蓮Ⅱ』が正しいそうである。
  4. CD『蓮華化生』西村解説
  5. 慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)により808年開基。関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せ日本三大不動の一つとして知られる。境内にある「独鈷の瀧」は大師が法具「独鈷」を投じた浄地より湧出したと言われ、今なお渾々と流れ出ている。
  6. 『作曲家がゆく』p.68,69

参考資料)
◆CD
『蓮華化生』 西村朗作品集Ⅰ カメラータ・トウキョウ 30CM-520-1
http://www.camerata.co.jp/music/detail.php?serial=CMCD-20016~17
『オパール光のソナタ/碇山典子 プレイズ 西村 朗 西村 朗 作品集 9』
カメラータ・トウキョウ CMCD-28083
http://www.camerata.co.jp/music/detail.php?serial=CMCD-28083

◆楽譜
『ピアノ協奏曲』(1977) 自筆譜縮小版
『2台のピアノと管弦楽のためのヘテロフォニー』全音楽譜出版社1988
http://shop.zen-on.co.jp/p/899588
『西村朗ピアノ作品集』全音楽譜出版社1995
http://shop.zen-on.co.jp/p/168415

◆書籍
『光の雅歌』西村朗+沼野雄司 春秋社 2005
『作曲家がゆく』池辺晋一郎、三輪眞弘、佐藤聰明、中川俊郎、近藤譲、三枝成彰、新実徳英、吉松隆、北爪道夫、川島素晴、野平一郎、細川俊夫、石田一志、高橋アキ/西村朗編 春秋社2007

• Youtube
『2台のピアノと管弦楽のためのヘテロフォニー』
『松村禎三 ピアノ協奏曲第1番』
『松村禎三 ピアノ協奏曲第2番』

西村朗考・覚書(1)~(15)

(2021/12/15)