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C×C 作曲家が作曲家を訪ねる旅 山本裕之×武満徹|西村紗知

C×C 作曲家が作曲家を訪ねる旅 山本裕之×武満徹
C×C A trip by a composer to visit a composer Hiroyuki Yamamoto×Toru Takemitsu

2021年11月6日 神奈川県民ホール 小ホール
2021/11/6 Kanagawa Kenmin Hall, Small Hall

Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 青柳聡/写真提供:神奈川県民ホール

<演奏>        →foreign language
石上 真由子(ヴァイオリン)
山澤 慧(チェロ)
丁 仁愛(フルート)
岩瀬 龍太(クラリネット)
佐藤 秀徳(フリューゲルホルン)
高野 麗音(ハープ)
大場 章裕(打楽器)
土橋 庸人(リュート&ギター)
中村 和枝(ピアノ*)
大瀧 拓哉(ピアノ**)
有馬 純寿(エレクトロニクス)

<プログラム>
山本裕之:紐育舞曲 ヴァイオリン、ピッコロ、バス・クラリネット、フリューゲルホルンとピアノ**のための
武満徹:雨の呪文 フルート、クラリネット、ハープ、ピアノ**とヴィブラフォンのための
山本裕之:輪郭主義II 事前録音されたヴィブラフォンとピアノ*のための (ヴィブラフォン:加藤訓子)
武満徹:スタンザII ハープとテープのための
―休憩―
武満徹:サクリファイス アルト・フルート、リュートとヴィブラフォンのための
山本裕之:輪郭主義IV フルート、ヴァイオリンとピアノ**のための
武満徹:カトレーンII クラリネット、ヴァイオリン、チェロとピアノ*のための
山本裕之:横浜舞曲(神奈川県民ホール委嘱作品・初演) クラリネット、ハープ、ヴィブラフォン、ギターとチェロのための

 

私の耳が変わってしまった。
それは結局この日のコンサート終了後から就寝時までの間の出来事に留まることとなったが、音の聞こえ方のみならず三半規管や自律神経の具合もだいぶ感覚としてなにか別物になってしまった。そうして、変質した感覚を帰りの電車の中で持て余しつつ、そうすると久々に現代音楽を本当に聴いたってことだ、などと感慨に浸っていた。それは、満足感とか充実感などといった得られたものに対する感覚ではない。喪失感の経験だ。
私の感覚が失われた。真正の芸術経験とは喪失経験のことだ、と思い出した。興味深い、糧になると思った時点でその芸術経験は虚偽だ。久しく、いろんなことを忘れていたようだった。
帰りの電車の中、様々な音が勝手に聞こえてくる。軋む車輪の音、車体が風を切る音、空調の音、乗客の喋り声、アナウンスの音、他にも、どこからどういう原理で発せられているかわからない何がしかの持続音。それらの音がこれまた勝手に関係し合い、互いを侵犯し合い、境界線が聞こえてくるようになる。境界線は音として実際に存在しているわけではない。かといって完全な幻聴でもない。
私は大分具合が悪かった。しかし、四分音とは、はたまた「輪郭主義」とは、つまるところ長らく自然なものとして君臨してきたあの平均律を突き破らんとする方法ではなかったか。私の耳は輪郭主義を勝手に実践した。それが作曲家の思惑通りの正しい経験なのかはもちろん誰にもわからない。

さて、神奈川県民ホールが主催するコンサートシリーズ「C×C 作曲家が作曲家を訪ねる旅」の第1回目となる今回の公演は、山本裕之が没後25年となる武満徹を訪れる。山本は、神奈川県民ホールから委嘱を受け作品を制作するのみならず、プログラム構成も担当する。
そうして、次回の川上統×サン=サーンス編がどうなるかはわからないが、この「C×C」は、非常にストイックなプログラムを生み出さざるを得ない。山本は作曲家の見地から武満の「これぞ」という作品をチョイスするのであり、その上でそれに見合った強度のある自作をチョイスするのであろうから、生半可な作品がこのプログラムに選ばれる余地はない。通常のコンサートだと、こう言ったらもちろん失礼だが、「捨て曲」が含まれることが往々にしてあるだろう。「C×C」はシステム上、捨て曲を許さない。
私の耳が一時的であれ変質を被ったのは、この「C×C」のシステムのせいでもある。

1曲目は山本裕之作品から。「紐育舞曲」。山本作品の「地名+舞曲」シリーズはいわば架空の舞曲のようなもの、とのこと。特定のリズムパターンが反復され、繰り返されて徐々に変容していく。どこかの国で舞曲を構成していたかもしれないリズムパターンが、その起源を失い鳴り響いている。
冒頭「タータッタッ、タータッタッ」というリズムパターンから始まり、上行・下行の音型は三連符で、パートごとにその都度微妙に組み合わせを変えつつ演奏される。どの楽器も伴奏となることはないようだ。バーンスタインの『キャンディード序曲』が新古典主義っぽくカラカラに乾いたみたいだ、と思った。
音量・テンポ・デュナーミク・アタックはおおむね均一である。終盤、ピアノがffで連打する場面以外、聴き手は、リズムの微妙なずれといつの間にか交替する旋律同士の微妙な関係性に、絶えず注意を向け続ける必要がある。
武満徹「雨の呪文」。荘厳な印象。ピアノ、ハープ、ヴィブラフォン、フルートの点描は、減衰と持続のバランスが美しい。音と音の間の隙間が、多く設けられている。
ハープは特定の箇所が四分音となるよう、特殊な調弦が施してある。特殊な調弦は歪んだ残響をもたらし、この「ぐわんぐわん」と鳴る残響は、ヴィブラフォンの残響と親和性があるものとして聞こえる。
音自体の組み立てより、残響の重ね合いに主眼が置かれているように感じられる。それは、武満が音の何たるかという問いを立て、自らの筆先で回答している一連の記録のようでもあるのだが、聴き手が感覚的に関与する余地のある問いでもある。そう思えるのは、快というカテゴリーが棄却されてはいないのと、音の間に設けられた隙間のおかげなのかもしれない。つまり、既存のカテゴリーに頼ったり、音を聞かないという行動をとったりすることで、聴き手は飽くまで自分本位にこの作品を聴くことができる。
山本裕之「輪郭主義II」。山本の「輪郭主義」とは、通常の音と四分音ずれた音とがぶつかり合った結果、通常の音の方が歪んで聞こえてくるという聴覚現象を用いた作曲シリーズのこと。「輪郭主義II」では事前録音の四分音ずれたヴィブラフォンと、生演奏のピアノとのアンサンブルが繰り広げられる。1曲目と同じくアタックが一定のものとなっているのは、輪郭主義をより明確に導き出すためであろうか。ヴィブラフォンとピアノは疎外と侵食を交互に繰り返し、交わったり一本化することはない。
次第に、ヴィブラフォンでもピアノでもない、その間に意識が向くようになる。その、音響化された関係性は存外に恐ろしいものだ。聴いたことが無い何かであるから。
武満徹「スタンザII」。雨の情景が浮かぶ。スピーカーからはなにか環境音が、持続音が、そして話し声が聞こえてくる。ハープの方でもまた、弦を叩く奏法をもって、テープの方の音響体との親和性を獲得している。演奏はストイックだが、聴き手はテープとハープの調和に耳を傾けることができる。

こうして、四分音や事前録音(あるいはテープ)+生演奏といったように、同じ手法を採用している両作曲家であるが、結果的に何もかもが違う。

休憩を挟んだのち、今度は武満作品から。
武満徹「サクリファイス」。より散文的な作品。琵琶のようなリュート。時折早まって、ふと立ち止まって、またあの隙間が訪れる。フルートの音色は人間の声のように温かい。
フルートとリュートは応答し合い、アンティークシンバルの倍音の中リュートの低音が鳴り響き、音色が自発的にまた他の音色と関係し合っている。
山本裕之「輪郭主義IV」。今度はピアノに対して、フルートとヴァイオリンという二つの楽器で四分音をぶつける試み。フルートとヴァイオリンは近い音域で、アグレッシブにピアノを攻めていく。音のずれの感覚だけでなく、拍のずれの感覚もより細かくなっている。音の断片も徐々に別のものに変異していく。
一番強い経験をもたらすのは、3つの楽器が音階を一緒に駆けあがって、降りてくるところだ。ここの聴取経験はかなり厳しいものだろう。
この日のうちで、素直にリラックスして聴けるものがあるとすれば、それは武満徹「カトレーンII」くらいだった。硬質なピアノの和音の上に、他の3人の奏者はさながら鳴き交わし、飛んでいく鳥のように……弦のグリッサンドはカモメの鳴き声のようで、暗いピアノの波のまにまに……などと、比喩的に語りたい気持ちが出てくるからだ。
山本作品において、武満作品との一番大きな違いは何かと考えたとき、比喩的な語りが徹底して禁じられるところにあるのではないか、と思う。音以外のものへの想像力上の外延が許されず、そもそも想像している暇がない。確かに、音楽に対して比喩的に語ること自体が、その音楽を無害化してしまう可能性をはらんでいる以上、誤りだと見做されることはあろう。けれども、山本作品の場合、独自の方法でもってまさに、徹底的に聴き手に対してその営為を禁じてくるような感じがある。音と音との間にもなにかがあるという感覚に耳が囚われると、音以外のもののことを、私の耳がごく自然に考えようとするのをやめる。
「横浜舞曲」は、作曲技法としては舞曲シリーズと輪郭主義とを組み合わせ、2曲目の、武満の「雨の呪文」で用いられていた四分音調弦のハープを登場させたもの。この日の集大成のような作品だ。
最初から、ずれた状態のユニゾンが始まる。休符がところどころあり、全体的に中低音の音域で、まとまっている。アタックは平板で、どういうリズムパターンが登場してきているか、なかなか把握できない。辛うじて印象に残ったのは、「タタタタタタタ」、ビブラフォンの「タンタンタンタン」、あとは「ブン、ターン」という少しジムノペディっぽいものだった。
音と音の間を、そしてリズムの変遷するそのグラデーションを聴きなさい、と作品から要請される。聴き手の方に引き寄せることのできない隙間や過程に絶えず注意を向け続けると、音楽そのものが後景に退いて、私の耳が捉えているものの実体がよくわからなくなっていった。

私のノートの端には、「とりあえず、このサンハンキカンの乱れがおさまったら、その問いにこたえてあげる」と書き残してある。
今となっては耳が元通りになったので、「その問い」が何だったのか思い出すこともできない。
不思議な経験をした。

 

(2021/12/15)

  

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<Artists>
Mayuko Ishigami (violin)
Kei Yamazawa (cello)
Jeong Inae, (flute)
Ryuta Iwase (Clarinet)
Hidenori Sato (Flugelhorn)
Reine Takano (harp)
Akihiro Oba (percussion instrument)
Tsunehito, Lute & Guitar
Kazue Nakamura (piano) *
Takuya Otaki (piano) **
Sumihisa Arima, (electronics)

<Program>
Hiroyuki Yamamoto: New York Dance for violin, piccolo, bass clarinet, flugelhorn and piano ** (2016)
Toru Takemitsu: Rain spells for flute, clarinet, harp, piano ** and vibraphone (1982)
Hiroyuki Yamamoto: Contourism II for pre-recorded vibraphone and piano * (2010/18) (vibraphone: Kuniko Kato)
Toru Takemitsu: For Stanza II Harp and Tape (1971)
―intermission―
Toru Takemitsu: For Sacrifice Alto Flute, Lute and Vibraphone (1962)
Hiroyuki Yamamoto: Contourism IV for flute, violin and piano ** (2013)
Toru Takemitsu: For Quatre II Clarinet, Violin, Cello and Piano * (1977)
Hiroyuki Yamamoto: Yokohama Dance (commissioned by Kanagawa Kemnin Hall, premiere) for clarinet, harp, vibraphone, guitar and cello (2021)