アレクサンドル・カントロフ|西村紗知
〈エスポワール スペシャル 17〉アレクサンドル・カントロフ(ピアノ)
〈Espoir Special 17〉Alexandre Kantorow(pf)
2021年11月25日 トッパンホール
2021/11/25 Toppan Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール
<演奏> →foreign language
アレクサンドル・カントロフ(ピアノ)
<プログラム>
ブラームス:4つのバラード Op.10
リスト:《巡礼の年 第2年イタリア》より 第7曲〈ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲〉
ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op.5
*アンコール
ストラヴィンスキー(アゴスティ編):《火の鳥》より 終曲
ラフマニノフ:《楽興の時》Op.16より 第3番 ロ短調
モンポウ:歌と踊り 第6番
ピアニストは比較的リラックスした様子で舞台袖から出てきた。その青年はほんのちょっぴり頼りなさそうに見える。椅子に座り、会場の視線を一身に浴びるなか、慎重に、ブラームスの和音にそっと手を差し伸べる。
アレクサンドル・カントロフ、24歳。ブラームスは、ピアノ・ソナタ第3番を20歳に、《4つのバラード》も21歳のときには書き上げていた。〈ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲〉もまた、最初に《ダンテ・ソナタ》として発表されたのが、リスト28歳の年。若いピアニストが、作曲家が自分と近い年齢で書き上げた作品を演奏する。
しかし、若さや青春という言葉はその演奏を聴いていても出てこなかった。早急だったり力づくだったりすることがなく、どれほどアクロバティックなパッセージでも音響は彼の肉体のコントロール下にあり、崩れることがなかったためである。あまりに瑕の無い演奏だった。同時に、ブラームスもリストも、これほどに早熟の芸術家であったか、と。
それでも、完璧という言葉は適切でないかもしれないと思えるのだった。というのも、機械的だったり、威圧的だったりすることがない。神経質というのも違う。
洗練されている、とか趣味が良い、とも言いたくはならない。演奏のどこを聴いても真っすぐで、誇張がない。ヴィルトゥオーゾであるのは間違いないのに、どこまでも等身大で、華美なところもなく、イリュージョンがない。
そうして音楽は、あたかも、書かれたものではなくそこでまさに生起しつつあるかのようだった。この日の会場は、音楽だけで満たされた空間だった。音楽「によって」とか音楽「を通じて」などの、手段や目的をあらわす前置詞と無縁だった。音楽にはじまり、音楽に終わる。そこに人間が存在しないかのように。
言うなれば、天稟である。ただ、無邪気なわけでもなく、ミステリアスともまた異なって、陰りでもなく……。
「4つのバラード」の沈鬱な和声は、どこまでも澄み切って透明な感覚で貫かれている。ブラームスの作品の演奏にありがちな厚塗りしたような重苦しさも、バラードという楽曲ジャンル特有の牧歌的な風情もそこにはない。音楽の内容的には沈鬱なのに、彼の音響感覚の透明さゆえに音楽が軽い。タッチやデュナーミクに遊びがあるから軽いのではない。もっと、作品の存在自体が消えそうにして軽い。
そこには、きっちり同じ拍で調和して鳴り響きつつも、どこか全体として同一化しきらないような、音符たちの寂しいすれ違いの様子があった。
音がすれ違うということ。ブラームスの、あの緻密な動機主題労作の本質は、実はそこにあったのかもしれない。つまり、動機主題労作によって出来上がった音の建築物を外側から眺めるようにして聴くのではなく、その建築物がまさに目の前で出来上がっていくさまを聴いて高揚感を覚えるようにして聴くのでもなく、その建築物を礎となって担う一つ一つの音符たちの側に立ってブラームスの音楽を経験すべきだったのかもしれない。
和声から、最低音と最高音との手の届かない交感が聞こえてくる。それは、同じ空間にいながら思いの通じない、ともすれば一生出会う機会のない人々のようだ。これ以上内声部の音量が上がってしまうと、彼らの姿は見えなくなるところだっただろう。
中間部のフォルテで、ピアニストは頭を一層深く垂れ、踵を上げ、息を荒げる。それはなにかを振り切ろうとする身振りであって、マッチョな力強さとは程遠い。
フォルテで弾く際、マッチョな力強さという印象に至らないという彼の演奏上の特質は、リストの〈ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲〉で、誠に功を奏したように思える。オクターブで捲し上げても、高音部から駆け下りても、低音部・高音部を合わせて豪勢に和音を重ねても、モダンピアノ特有のカンカンと鳴る金属音が聞こえてこず、そのためエレガントさが失われることがない。この作品の着想が、ダンテの『神曲』の「時獄篇」から取られたものであるのを忘れてしまいそうになるくらい、うっとりと聴き入ってしまう。演奏者の都合でテンポが揺れることもなく、テンポが揺れるとしたらそれは常に、聴き手の心の機微に沿っている。
リストの方でもそうだが、ブラームスのピアノ・ソナタに対する感覚は、非常に交響的だった。いかなる瞬間もアタックが柔和なので、音響全体が弦楽器でつくられるそれを連想するほどに丸みがあり、やさしい。他のピアニストの演奏を聴きたくなくなるくらいである。第一楽章ではリストと同様かなり広い音域を行き来せねばならないが、大仰なニュアンスを付すことはない。緩楽章の右手のメロディーはこうでしかありえない、と思わせる必然性の強さがある。第三楽章のスケルツォは可憐だが媚びることはない。終楽章の終盤のカノンまで、一糸乱れぬままピアニストはこの演奏会を走りきった。
それにしても、アンコールで披露された3曲とも、どこか陰鬱なこと。
アレクサンドル・カントロフはこれから益々目が離せないピアニストだ。
(2021/12/15)
関連記事:カデンツァ|音楽の未来って (11)カントロフの扉|丘山万里子
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<Artists>
Alexandre Kantorow(pf)
<Program>
Brahms: 4 Ballades Op.10
Liszt: “Années de pèlerinage, Deuxième année: Italie”, No.7 ‘Après une lecture du Dante – Fantasia quasi sonata’
Brahms: Sonata for Piano No.3 in F minor Op.5
*encore:
Stravinsky(arr. by Agosti):Finale from《The Firebird》
Rachmaninov:《moments musicaux》Op.16 No.3 h-moll
Mompou:Cancións y Danzas No.6