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東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ 第124回|秋元陽平

東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ 第124回
2021年10月22日 東京オペラシティコンサートホール 19 :00開演

Tokyo Symphony Orchestra Tokyo Opera city series No.124
October 22, 19 :00 Tokyo Opera city concert hall
Reviewed by AKIMOTO Yohei (秋元陽平)
Photos by平舘平 /写真提供:東京交響楽団  

<曲目>        →English
デュティユー:交響曲第1番
モーツァルト:レクイエム k.626 (+リゲティ『ルクス・エテルナ』)

<キャスト>
指揮:ジョナサン・ノット
合唱:新国立劇場合唱団
ソプラノ:三宅理恵
メゾソプラノ:小泉詠子
テノール:櫻田亮
バス・バリトン:ニール・デイヴィス

 

デュティユは『メタボール』において現代音楽シーンの前面に躍り出たとされることが多く、それはもっともな点もあるのだろうが、そうはいっても二曲の交響曲が「デュティユ以前」であったことを微塵も意味しはしない。このジャンルでの彼はいわば伝統的な形式と楽器法を裏返すかたちで、後年の作品群に連なる異世界の扉を開ける。たとえば第一番ではあの魔術的なチェレスタの反復音型、第二番でのチェンバロの刻みなど、一度聴けば忘れない、ボードレールのあるタイプの詩に通じる異邦のエロスがじっとりと滲む(たとえば『パリの憂鬱』所収の「髪の中の半球」――いや、しかしよく考えれば『悪の華』のほうの「髪」は、実際にデュティユのチェロ協奏曲の着想源となったのだった)。
デュティユの音楽には、二重の要請がある。一つには、音響のレベルで起こっていることを逐一把握する分析的要請。もう一つには、それを時間の中で持続し、複合し、互いに絡み合う歌として把握する統合的要請。フランスでもそういない詩人音楽家の構築的作品に、ジョナサン・ノットほどの適任はそういるまい。ノットの指揮はきわめて分析的な知性を発揮する一方で、それを透明化してただ露呈させるのではなく、複雑なパッセージ(例えば今回なら第三楽章の無窮動的なフレーズの絡み合い)のすべてに、いわば方向、志向性を、濃縮された「歌」によって与えるところにその特質がある。彼のレパートリーはこの資質と結びついているものが多い。
それにしても、東響、とくに弦セクションが、ノットに応えてこの二重性を攻めの姿勢で示したことは特筆に値する。うまく鳴らすだけで美しい瞬間には事欠かないデュティユ節といえど、引け腰でそれらのリアライゼーションに徹するのではなく、要所で色彩を積極的に与え、フレーズの妖しさを香らせる。色気があるのだ。第四楽章の冒頭の和音も、ただの衝撃音ではなく、ぐっと深みのある踏み出しで濃厚な情緒を見せる。さながら東京の真ん中に異空間が現出したという趣、デュティユの音楽だけに見られる独特の異化効果である。

返す刀でモーツァルトの『レクイエム』、ジュスマイヤー版にフィニッシーによるラクリモーサ編曲と、リゲティの『ルクス・エテルナ』を挿入した、いつもながらノットの実験・批評精神に満ちた試みだ。『レクイエム』を日本で聴くのは初めてだったが、速いテンポで、新国立劇場合唱団の輝度の高いハーモニーがオーケストラを先導するような感覚すらある、だが逆に言えばオーケストラにさきほどまでのフレージングや表現の積極的描き分けがさほど感じられない。トロンボーンはじめ金管の輪郭も曖昧だ。フィニッシーの編曲もあまり特筆すべき印象はないが、仏具による黙祷終止の厳粛さを経て立ち現れるリゲティの『ルクス・エテルナ』は、いやむしろこの試みごとひっくるめて、私には根源的に「不謹慎」な挑発と感じられ、むしろ愉快だった。彼のヴァイオリン協奏曲に出てくるオカリナの、人間の生々しい吐息を感じさせるあの神経を逆なでする美しさが、この厳粛なテクストのなかにすら感じられる。こうした複層性は、ひるがえって当然モーツァルトのなかにもある。たとえばTuba mirumの最後の一節、「正しい人でさえ恐れるその時に Cum vix justus sit securus」の旋律に、オペラのヒロインの、恋の悩みのような女声の甘さを感じないといえば、嘘になりはしないか。
ただ、私がかつてコラムで言及した同じノット×東響によるパーセル、リゲティ、R.シュトラウスの奇妙なトリロジーにあったようなシナジー効果は、今回は感じられなかった。主にそれはリゲティ部分を除くレクイエムの完成度によると思う。それでもなお、こうした批評的なプログラム編成そのものについてはわたしはいつも楽しみにしている。それが「お気に入りの曲/演奏者を聴いて良かった」というルーティンを越えた感想を生み出し、音楽が本来持っている文化的コンテクスト――鎮魂とは何か?歌とは何か?現代とは何か、18世紀とは何だったのか?――の厚みと、ざわざわとした困惑にわたしたち聴衆を引き戻すからだ。入門やアウトリーチに終始しがちな音楽業界で、東響×ノットの演奏会には、それが斬新にも悪趣味にもなるとしても、とにかく美術展のキュレーションにあたる編集意図がある、それが貴重なのだ。

(2021/11/15)

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<Program>
Dutilleux : Symphony No.1
Mozart : Requiem k.626 (with Ligeti’s “Lux Aeterna »)
<Cast>
Conductor : Jonathan Nott
Soprano : Rie Miyake
Mezzo Soprano : Eiko Koizumi
Tenor : Makoto Sakurada
Bariton : Neal Davies
Chorus : New National Theatre Chorus