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ペーター・レーゼル フェアウェル・リサイタル|秋元陽平

ペーター・レーゼル フェアウェル・リサイタル
2021年10月13日 紀尾井ホール 19時開演

Peter Rösel Farewell Recital
October 13, 19 :00 Kioi Hall
Reviewed by AKIMOTO Yohei (秋元陽平)
Photos by 武藤章/写真提供:紀尾井ホール

<曲目>        →English
ハイドン:ソナタ第52番変ホ長調 Hob.XVI:52
ベートーヴェン:ソナタ第32番ハ短調 op. 111
シューベルト:ソナタ第21番変ロ長調(遺作)D960
<アンコール>
シューベルト:4つの即興曲D935 op.142より第2曲変イ長調
ベートーヴェン:6つのバガテルop.126より第1曲 ト長調
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第10番op.14-2より第2楽章

<キャスト>
ペーター・レーゼル(Pf)

 

ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト——三つの晩年様式(レイト・スタイル)に、大ピアニストとの一つの別れ(フェアウェル)。これまで聴いてきたレーゼルの演奏の魅力は、音の芯に届くまでしっかりと錨を下ろしたタッチが豊かな響の骨格をつくりだし、その安心感のなかで細かいテンポの揺らぎが時間の流れをときどきの情緒に応じて変えていく、建築性と繊細さの同居のなかにあった。さて76歳をかぞえる巨匠ピアニストはこの日本最終公演をハイドンからはじめたが、第一楽章では記憶の中の音よりも音色はぐっと内向きに柔らかく、休符は長く、力強さこそあるがむしろ親密な音楽が流れ出る。ハイドンの小気味良いカデンツのスピーディな連鎖はやや緩み、むしろ弾き手の確信に満ちた主観的時間として音楽が再構成されていく。主観的といっても、強い自我の表出、というわけではなく、回想するような、自発的に湧き出るイメージの束だ。第二楽章ではもはや、部屋の中でひとり音楽の赴くままに弾くピアニストを、われわれ観客が窓から覗き込んでいるかのような気にさえなる、自意識のこころよい不在。ハイドンのアダージョとして、このような説得力のある演奏は初めてだ。
ベートーヴェンの32番に至って、往年と変わることなく深くみっしりとしたタッチで、十二音技法すら思わせる冒頭の晦渋な和声展開をおもむろに響き渡らせ、私ははっとした。テンポは流動的で、ときには長い沈黙がおりる。第二楽章も、テンポを落としてはいるが、それは自然(じねん)としてある遅さであり、音量をおさえるときでも、ppでありながらやはり奥底の核に到達するまで錨を降ろすような鳴らしかただ。真珠を転がすどころか、真珠をひけらかすようにもったいぶって高音のトリルを演奏する、よくいるピアニストとは一線を画する。それにしても、この第二楽章は、あらゆる余白、あらゆる修辞の可能性が残されているようでいて、堅実に歩んでゆくほかない一本道のようなところがある。いや、それこそ、レーゼルの端的に踏みしめるような、そのことによって歌うような演奏によって、事後的に、それが求道的な行程だったのだと気づかされるのか。
シューベルトの白鳥の歌でフェアウェルとくれば、誰が弾いても、瞑想的な、枯淡美というべきものとなるのだろう、と思わないでもなかった。しかしはじまってみるとどうだろう、この21番こそレーゼルは最も骨太でエネルギッシュであり、青々しい推進力をもった演奏であったと思う。厚い和音の内側から歌をつぎつぎと引き出して、微細な指のちからの配分がつらなっていく。こんにち、フォルテピアノで弾くという選択肢もちらつかざるを得ないこのセット・リストで、スタインウェイの、モダンピアノの重く鋭い響きを、ふたたび深くひろげてさらにそこからメロディを汲み上げてくるような演奏だ。しかし、それにしても、いったいこれがフェアウェルなのか?もはや、そこからまさに何かが始まるような、静かに沸き立ちながら延々と連なっていくような歌ではないか?作曲家の晩年様式は、その様式の破格によって、弾き手によっては逆説的にある種の「終わらなさ」を感じさせるのだろうか。スタンディングオベーションからの、3度にわたるアンコール、とくにシューベルトは達人の一筆書きのような凄みがある。三者三様の「晩年様式」を演奏するレーゼル自身は、まだまだ晩年様式にはほど遠い。最後のベートーヴェン10-2の最後の一音のffは、3度もアンコールを要求した熱烈な観客に対する「さらば」にしてはある種のユーモアを感じたのだが、あのニュアンスからしても、私はまだ来てくれるのではないかと思っている。

(2021/11/15)


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<Program>
Haydn : Sonata for keyboard Es-dur Hob.XVI:52
Beethoven : Piano Sonata No.32 Op.111
Schubert : Piano Sonata No.21 D960
<Encore>
No.2 from Schubert : 4 impromptus D935
No.1 from Beethoven:6 Bagatelles op.126
Second movement from Beethoven, Piano sonata No.10 op.14-2
<Cast>
Peter Rösel (Pf)