山澤慧 無伴奏チェロリサイタル マインドツリーVol.7 バッハツィクルス2|西村紗知
山澤慧 無伴奏チェロリサイタル マインドツリーVol.7 バッハツィクルス2
Kei Yamazawa Solo Cello Recital ‘Mind Tree’ vol.7 Bach Zyklus 2
2021年10月21日 トーキョーコンサーツ・ラボ
2021/10/21 Tokyo Concerts Lab.
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 梅本佑利/写真提供:山澤慧
<演奏> →foreign language
山澤慧(チェロ)
<プログラム>
ハーヴェイ:プレ・エコー
J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調
ハーヴェイ:3つのスケッチ
梅本佑利:スーパーバッハボーイ3 (6年連続委嘱作品2作目・世界初演)
―休憩―
茂木宏文:6匹のカエルと独り
佐藤伸輝:Shape-memo!!!!!! (公募作品・世界初演)
レンハルト:Jeux du Lumiere (公募作品・改訂版世界初演)
中川統雄:逢う魔が時とはんざいこ (委嘱作品・世界初演)
ハーヴェイ:大地の曲線
会場入り口にガチャが一台設置されていた。「Yuri Umemoto スーパーガチャボーイ ステッカーコレクション」。1回200円。
インスタレーションとまでは言わないまでも、これもまた作品だろう。あとから、このガチャの設置も、梅本が消費社会のなかに自分の作曲作品を相対化させようとして試みたことだと、筆者は受け取った。
回してみる。出てきたシールはこちら。うーん。微妙なのが出た。
SR(スーパーレア)引きたかったなぁ、けどもう一回やるのは沼だなぁ、と後ろ髪を引かれる思いで会場に入っていく。
今回の山澤慧無伴奏チェロリサイタルは、J. S. バッハの「無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調」を軸に、現代音楽作品が配置されたバッハツィクルス・プログラム。公募作品、委嘱作品も豊富で、毎回のことながらその探求心に頭が下がる思いだ。
ハーヴェイの「プレ・エコー」は、アンサンブル・アンテルコンタンポランにかつて所属したチェロ奏者であるジャン・ギアン・ケラスにより委嘱された、プレリュードの前に演奏される作品とのこと。開放弦をへてCの音へ落ちていく動きや、詰まったり、刻んだり、残響したりする音の並びから、純化された運動の軌跡を感じる。
そこからアタッカで無伴奏チェロ組曲第2番につながっていく。
この、マインドツリーというコンサートシリーズにおけるバッハ演奏の具合に、筆者は以前からどこか腑に落ちないものがあった。演奏者と作品に距離が感じられ幸福な一体感がないので、そのこと自体でネガティブに判断していた。
今回のプログラム全体を聴いていくなかで、その判断は適切ではないと反省した。
その判断では、筆者は山澤のことしか見ていなかったからだ。
無伴奏チェロ組曲の印象は、まさに演奏中とコンサート全体が終わってからだと、だいぶ異なるものだった。その演奏の必然性の度合いが、コンサートが終盤に向かうにつれ高まっていく。
そうして気づいたことがある。あの山澤とバッハとの距離感として感じられるものは、もちろん山澤のバッハに対する距離感でもあるが、まずもって各々の作曲家のバッハに対する距離感でもあったのだ。この今回のプログラムに登場する総勢8名の音楽家たちの主観が、バッハを演奏するまさにこの瞬間ごとに入り混じっているのではなかろうか、と。
確かにバッハの演奏としてこれでよいのかと考えたときに、いくつか気になるところはあるだろう。特に、舞曲らしい身体的な躍動感は、デュナーミクやフレージングからある程度失われてしまっている。しかしそれは、演奏者、作曲家の主観が感応してのことだ。現代音楽作品を稽古することで不可逆的に発展した身体が、その経験をバッハの方へと返していく。バッハ作品とそれぞれの現代音楽作品とで似たような書法があればなおさら、彼らの絆は強く現れる。そしてこの絆は、バッハをバッハとしてのみ聴いていると、なにかよそよそしいものと感じられてしまう要因でもある。
なんにせよ、必然性や自律性に基づいた演奏であるか、という問いをこの日のバッハの演奏に対して早急に立ててはならないだろう。なにが今日必然性や自律性の内容であるかというようにして、問いそのものをバッハの演奏が更新しようとしているのであるから。そして、このような問いを立てる側と問いを更新する側とのせめぎ合いは、現代音楽のみならずあらゆる芸術領域にとって本質的ではないかと思う。
ハーヴェイ「3つのスケッチ」。一曲目、ひしめくD音、そして微妙にピッチがずれる同音のユニゾン。二曲目、ハーモニクスのグリッサンドがきれいだ。三曲目、汎アジア的な風合いすら感じられるドロドロした断片。バルトークピチカートも痛みを感じられるようなほどで、粗野な風合いに魅かれる。
梅本佑利「スーパーバッハボーイ3」は、ゲームの要素と構造を大胆に音楽に転用したもの。電光掲示板とこれに連動した特殊な弓で、トレモロの刻みを格闘ゲームのコマンドのようなものに見立て、その速度を演奏者の向かい側にいる人々が操作するなんらかの機械の連打と、競い合うというもの。対決シーンと断片の演奏(ファミコン音源のような電子音も含む)とが交互に訪れる。その断片のうちには、バッハの無伴奏チェロ組曲からの引用が含まれるが、これはゲーム音楽のような役割を果たしているようでもあり、同時にこの作品全体が、ゲームの時間構造がそのまま転用された音楽、ということでもある。
チェロの刻みとボタン連打との対決の結果次第で、その次の展開が変わるものだったらしい。個人的には、勝敗が決まるごとに、ごく自然に一喜一憂する演奏者たちの姿に好感が持てた。
茂木宏文「6匹のカエルと独り」。コマに洗濯バサミが設置してある。この状態でコマの近くを弾くと「ギギギギ」とカエルの鳴き声のように鳴る。ピチカートは、「ピンピン」とピッチ感のないものと、D-F-A-Dの音列のものと、他にもあった。全体的に不規則だがリズム構造が感じられ、擬音の発生装置としてチェロが生き生きと鳴いている。
佐藤伸輝「Shape-memo!!!!!!」。心地よくドライブする、クールでみずみずしい作品だ。音数が多く、楽器をパーカッシヴに叩く場面もあったりで、見た目にも華やかな印象。
レンハルト「Jeux du Lumiere」。演奏者に正面から照明があてられ、後ろのスクリーンに影がうつる。曲調はこの日で最も動きが少なく、性格もはっきりせずとりとめがない。無音のジェスチャーが入るところもあったが、最後までどうやって聴いていいのかよくわからなかった。
中川統雄「逢う魔が時とはんざいこ」。ぶっ飛んでいる。発音の方法もそうだが、それぞれの発音の方法をつなぐ線のようなものがおそらく一回聞いただけではわからず、ついていけなかった。冒頭は、弓の裏側で、弓の先端を指ではじくようにして勢いをつけ、弦を叩く場面から。「プルプル」と音が出るよう鳴らしている間、演奏者も口で「プルプル」と発話している。両手によるピチカート。他には指板の上の方を顎で挟んで演奏するところも。
ハーヴェイ「大地の曲線」。この日のプログラムの特徴として、各々自由奔放な現代音楽作品とバッハとの間に、比較的書法が穏当なハーヴェイ作品が橋渡しをしているようなところがある。微分音のメロディー。またピッチが微妙にずれた重音、そして急な破裂へ。高音部分で奏される歌は、ほんの少し馬頭琴の音色のようでもある。最後はこの日佐藤作品以来の激情で締めくくられる。
もちろん、すべてのはじまりにバッハが存在するのだ。しかしながら同時にこの日のプログラムにおけるバッハは、あらゆることの帰結としてのバッハでもある。このB to C でありC to Bでもあるという、作品が互いに照射し合って閉じた円環のような不思議な構造は、チェロの演奏ができない、あるいは音楽に関心をもたない者に対しても、伝統との対峙の仕方という点で問題提起となるだろう。
(2021/11/15)
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<Artists>
Kei Yamazawa(cello)
<Program>
Jonathan Harvey: Pre-echo
J.S. Bach: Cello Suite No.2 in D minor
Jonathan Harvey: Three Sketches
Yuri Umemoto: Super Bach Boy3
-intermission-
Hirofumi Mogi: Six frogs and a solitary man
Nobuaki Sato: Shape-memo!!!!!!
Christoph Renhart: Jeux du lumière
Norio Nakagawa: Oumagatoki to Hanzaiko
Jonathan Harvey: Curve with Plateaux