カデンツァ|『少女を埋める』論議で〜書く・読む力とは|丘山万里子
『少女を埋める』論議で〜書く・読む力とは
Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
批評、については常に考えている。本誌記事全てを毎号読み、自分も書くのであれば当然で、常に自問だ。
この9月初旬に朝日新聞で、《本誌「文芸時評」の記述めぐり議論》という見出しの記事が載った。『文學界』9月号に発表された桜庭一樹『少女を埋める』を文芸時評で取り上げた翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子と桜庭との間で起きた悶着に関するもので、それぞれの言い分に加え、朝日担当者の一文があった。桜庭の小見出しは「読み方は自由でも...あらすじと解釈は区別を」で、鴻巣は「作品に創造的余白 読者の数だけ<ストーリー>」。その脇に「担当者から」と事の経緯が短く報告され「桜庭さんの指摘は文芸批評のあり方や、フィクションと実在のモデルとの関係など、さまざまな論点にかかわる問いかけでもありました。今後、文学についての前向きな議論が広がることを期待しています。」とあった(9/7朝刊)。https://www.asahi.com/articles/DA3S15035360.html
何が問題か。
くだんの時評《ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む》から、悶着関連部分を抜粋する。
「サン=テグジュペリは第2次大戦中、米国に亡命し『星の王子さま』を書いた。同作には祖国を出ていった者の惑いが投影されている。王子の内なる闇が、子供の私には理解できなかった。ところが最近再読すると、この少年がヤングケアラーに見えてきたのだ。(中略)10代後半から介護を経験した今の私には、若者が持ち場を放棄して遠くへ行きたくなるのも、その後に抱えた心の重りもわかる。(中略)ケアとジェンダーの観点からは、桜庭一樹『少女を埋める』(文学界9月号)にも注目したい。実父の死を記録する自伝的随想のような、不思議な中編である。語り手の直木賞作家「冬子」も故郷から逃げてきた、ある種のケア放棄者だ。地元を敬遠するようになった一因は神社宮司との結婚話にある。“神社の嫁になり、嫁の務めを果たしながら空き時間で小説を書け”という勧めに抗し、冬子は小説家のキャリアを選ぶが、家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は“怒りの発作”を抱き、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ。(以下略)」(8/25朝刊)
桜庭の抗議は上記中「夫の看護を独り背負った母は“怒りの発作”を抱き、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」に対してだ。
「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています。ところが朝日新聞の文芸時評に、内容とは全く逆の「(母は父を)虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」というあらすじが掲載されてしまいました。そのようなシーンは、小説のどこにも、一つもありません。(中略)
私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中傷が及ぶことをも心配し、訂正記事の掲載を求めました。(中略)小説の読み方は、もちろん読者の自由です。時には実際の描写にはない余白のストーリーを想像(二次創作)することもあり、それも読書という創造的行為の一つだと私は考えます。しかしその想像は評者の主観的解釈として掲載すべきであり、実際に小説にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いては、いけない。それは、これから小説を読む方の多様な読みを阻害することにも繋(つな)がります。(以下略)」
桜庭は時評を目にした時点で母への被害を恐れ、SNSで「時評が述べているような事実は小説にはない」との趣旨を投稿、朝日と評者に訂正記事の交渉(『文學界』担当者も含む)を開始、これを受けて鴻巣は朝日デジタル版で「弱弱介護のなかで夫を『虐(いじ)め』ることもあったのではないか。わたしはそのように読んだ」と改訂、のち、上記の記事掲載となった。その間、鴻巣による長い応答もネット上で表明されたが委細は省く。
ネットでは種々の意見が飛び交ったようで、桜庭は『文學界』11月号《キメラ——『少女を埋める』のそれから》で詳細にことの経緯を書いている。
私は当該小説、次いで11月号も読んだが、「読解」は読み手の立場で随分異なるものだ、とまず思った。
鴻巣の時評テーマが《ケア労働と個人——》であれば、この「筋」に有用な作品とその部分がピックアップ、配置されるわけで、隅々まで彼女の意図と実感(自身のヤングケアラー体験にも触れ「だからこう読む」と匂わせている)に満ち満ちたものだ。読者は『星の王子さま』ヤングケアラー説に仰け反りつつ、「ええ?」的にこれまた勝手に読むのであって、そこに時評の醍醐味もある。『少女を埋める』を引くにあたり「ケアとジェンダーの観点から」との断りもある。「お父さん、いっぱい虐めたね。」(小説p.43のセリフ)から浮かび上がった映像を弱弱介護での虐待という一句に鴻巣がまとめたことが著者にとって不本意であったにしても、この評文は「私はそう読んだ」に貫かれた主観的解釈の上に成り立っており、わざわざ断るまでもなかろう。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15020752.html
と、思ったが、それは批評寄りの読解らしい。
桜庭の読みは違う。彼女は時評が「評者の主観的解釈で成り立つモノ」とは読まなかった。著者の「あらすじ」(筆者における事実)と評者の「解釈」(評者による読解)をすり合わせ、その誤読が周囲に及ぼす甚大な影響を危惧、11月号ではこう吐露する。
「わたしは半狂乱になってもいた。故郷の町に思いを馳せては、文芸時評によって母が陷った状況に全身がゾゾーッと総毛立つ思いになった。」(p.69)
どうも不明だ。
鴻巣は自分の書きたい文脈に沿い、一つの材料として『少女を埋める』を扱っただけのことで、それは、桜庭が自分の母を小説の材料としたことと何ら変わりなかろう。
時評であれ小説であれ、記述の立地するところは「私」という主体から一歩も出ない。公的メディアにおける執筆者(著者)名はその記述の全責任を私が負う、という宣言だ。
「私はこのことを書くにあたり、その依拠するところは私であり、それに必要な材料を私はこのように編集し、創作しました。その責任は私にあります」という、これは鴻巣も桜庭も全く同一のはずで、物書き(表現者)の基底たる部分だろう。
時代・社会・人などなどに記述者が読み取るテーマ(世界の読解)とその編集・創作がAIと異なるのは(今のところ)、そこに「私」という生身の独りの人間の感受と思考が刻まれているからだ。この痕跡を読者が辿る道もまた一人一人それぞれで、作品は常に無数の他者の前にある。読み手が批評家であれ、故郷の誰彼であれ、ネット空間であれ、ワイドショー追っかけの巷間であれ。それは公にされた時点で多様な解釈、無数の誤読誤解曲解の無差別な海に投げ込まれ、好きに読まれ好きに語られるものだし、手を離れれば一個の自立した「モノ」としてその生命を持ち、浮沈流動してゆくものだ。マルバツ式の「正しい読解」などない。
それは、桜庭の小説も鴻巣の時評も同じこと。
だが、「ものを書く」とは主体の行為ではあっても主観のみで押し切れるようなものではなく、常に「読み手にこれで伝わるかどうか」の自問たる内的批評性(他者的自己)が働かねば成り立たない。言いたいことをただ垂れ流し、自分の都合の良いところだけをつまみ食いして物語を仕立てるような行為ではないくらい、執筆を生業とする者なら誰もが知っていよう。
くどいが、それは小説も評論も同じで、ただ表現スタイルが異なるだけだ。
他者の読みがあってこそ作品は呼吸する命を持ち、それによって作者が自作に潜む何物かに気づかされることもある。
すべての「表現」はそういう豊かな沃野を互いに耕し続ける行為ではないのか。
理解は全て誤解曲解無理解という絶望を抱えながら、種を蒔くものではないかのか。
その孤独の深泥に足を取られながら、鍬を振るうものではないのか。
なぜ、自分の作品の力を信じない?
なぜ、読者を信じない?
ものを「書く力」「読む力」は、それを信頼できないほどに、私たちの中で衰弱してしまったのか?
もう一つ、11月号での桜庭記述で気になったこと。
文壇 ・論壇での双方意見を見比べ、『少女を埋める』のように、「古い価値観で“出て行け。もしくは従え”と言ってわたしたちを埋めようとしてくる人たち」に対し、彼女を擁護した人々とともに「我々は出ていかないし、従わない」(p.102,103))との宣言は、いかにも不毛ではないか。
桜庭にとって恐怖だったのが、あらぬ誤解を流布させかねないメディアの強大な伝播力(拡散力)であれば、私たちが共に阻み、抗わねばならないのは私たちの「書く力」「読む力」すなわち「考える力・生きる力」を衰弱させるこの時代・社会状況そのものだろう。いたずらな刺激と瞬間的反応の応酬でない、内外への沈思黙考をこそ自らに課すのが、書き、読む表現者の力ではないのか。
文壇・論壇、中央・地方、故郷・異郷、正統・異端、作家・批評家、創作・二次創作、内部・外部、身内・他人といったヒエラルキーや分別(ぶんべつ)に囚われることこそ硬直した古い価値観であり、むしろそれらをすべてダイナミックな相互関係に力動させるひろやかな想像力を、せめて表現という領域では自由に羽ばたかせたい、と一応、ものを書く私としては、考えたのであった。
ところで、時評には以下のような文がある。小川公代の論考『ケアの倫理とエンパワメント』(『群像』連載、8月末刊講談社)について、
「ここで小川の論のキーとなるのが“多孔的な自己”だ。難しいが、思い切って平たくすると“隙間がある”ということか。近代的な“自立した個人”は自他の境が明確であるのに対し、より緩やかな輪郭をもち、他者の内面に入りこめる性質。」
さらに、締めくくりでこう言う。
「人は誰かを思いながらも、去就に迷い、留保し、離れては歩み寄る。今月の作品に共通するのは、ためらいや翻心を、波のように寄せ返す文体や構成でも表現している点だ。一直線に進もうとすればケアラーの心は折れる。他者に寄り添うケアに必要なのは、相手にも自分にも揺れや逸脱を包容する緩やかさではないか。」
私は『少女を埋める』を作者の自己確認の旅、と読んだ。土地の空気への同化を拒んだ少女の帰郷、出迎えた家族や共同体に「離れては歩み寄るためらいや翻心を波のように寄せ返す文体や構成」で描いたものだ、と。
「自伝風」にせねば通れない、関門の一つであったのだろうと。
私は先般、立場も事情も状況も異なる人々が雑居するぐちゃぐちゃの病棟で過ごした数日に、看護・介護の現実を目の当たりにし、自他の緩やかな輪郭、他者の内面に入り込める性質、といったような人間像を漠然と思い描いたばかり。
そして、この評文を再読し、まさに、書く主体、読む主体、それぞれの多孔的な自己の間に行き交う呼気吸気(私たちの身体にある「孔」の無数を思いたい)、相手にも自分にも揺れや逸脱を包容する緩やかさこそが、「表現」を立ち上げるに必須な土地ではないか、と言い換えたい気持ちになったのである。
(2021/11/15)