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Books | 推敲 Korrektur|秋元陽平

推敲 Korrektur
トーマス・ベルンハルト著・飯島雄太郎訳
河出書房新社
2021年8月発売
定価3,960円
Text by 秋元陽平(Yohei AKIMOTO)

己に与えられたみじめで崇高な可能性を潰し尽くして死に絶えること。そのために、いやそのためだけに反復すること。反復して、消尽すること。それが推敲だ。これは「悉尽」の小説、「ことごとく」の小説だ。哲学者ウィトゲンシュタインをモデルにした学者ロイトハマーの悲劇を主題とするこの小説の全体という全体を、「すべての」「いかなるものも」「何一つとして」「ありとあらゆる」という、滑稽で悲劇的ないわゆる全称判断(∀)あるいは全称否定判断(¬∀)が支配している。ロイトハマーは、陋習弊風なオーストリアの故郷アルテンザムに絶望し、その土に絶望し、そこから生えてくるものすべてに、学校制度に、法律に、それらの制度が育てたすべての人間に絶望している。その郷土を支配する母の、あらゆるものに向けられた嫌悪、自らの限界にとらわれたものの自己嫌悪と、自己そのものと同一化した汎-嫌悪。その母を機会因として生を享けた彼は、この存在が生み出す絶望を内側から生きながら、怨嗟をかがり火にしてひとつの目標を立てる。最愛の姉の住処として、ありとあらゆる可能性を検討し、ありとあらゆる学知を動員し、森の真ん中に「円錐」を建設することだ。建築物は完成し、姉は死に、彼も死ぬ。なぜ?強いて言えば、それが必然だからだ。ならば「円錐」は、ぐるぐると反復を繰り返して先の一点において消尽する彼らの運命の形象化なのだろうか。
こうしたことすべてが、彼が引きこもっていた川沿いの狭隘地区に建つ動物剥製師の家の一室でロイトハマーの遺稿の整理に従事する「私」によって、わたしたちに向けて引用・報告される。ベルンハルトを激賞したという『アウステルリッツ』の作家ゼーパルトもまた用いた、間接話法の迷宮だ。反復と消尽は、ストーリー、語彙のみならず、シンタックス(統語)の次元でも遂行される。一例を引こう。

「ヘラーの家を眺め、観察し、探求するべく身構えた。[…]私はヘラーを眺め、ヘラーの家を眺め、ヘラーを研究し、ヘラーの家を研究したのだから。ヘラーの家の内面がヘラーの家の内部であるのと同じように、ヘラーの特徴的な点はヘラーの家の特徴的な点でもあった。ヘラーの家を研究することで、私はヘラーについての洞察を得たのであり、反対にヘラーを研究することで、ヘラーの家についての洞察をも得ることができたのだ(pp.235-236.)」

A、B、AのB、BのAといった具合に、ベルンハルトはひとつひとつの言明をいわば拷問にかけ、順列組み合わせですりつぶし、すべてを吐き出させる。ひとつの言明を論理的に変形して言えることは、全て言わせるのだ。こうして、尋常でない反復を伴う執拗なセンテンスができあがる。あろうことか、それも、ほぼ全編がこうした記述法によって書かれている。ここにも「ことごとく」の精神がある。ただの一つまで、言うべきことを内側に残さないために。疲労しきるために。ひとつひとつの文意は明瞭かもしれないが、訳出は途方もない疲労感を伴うだろう!まずもって訳者に敬意を表するほかない。

ベルンハルトはベケットに作風が似ていると言われるということがあるらしい。一読してそれは理解できるが(他方、カフカに似ているという意見は解せない)、ベケットの登場人物ならば、推敲どころか、いわば初稿からうまく書けずに試行を繰り返すようなところがある。他方、本作のロイトハマーは、より透徹した第三者の視点で自らを反省的に追い詰めていくという違いがある。したがって推敲であり、そこに自己嫌悪がある。こうして、言えることも、やれることも全て果たしてしまって、絶望の底の底まで降りていくのだ。ところで、絶望は、ほかの一切の可能性が奪われたときに、ある種の反転によって、一瞬だけ、消尽するその瞬間に、ほとんどひとつの希望のように見えることがある。読後感もテイストも何もかも異なるにもかかわらず、ベケットの『モロイ』の結末のようなリリシズムを彷彿とさせることがあるのは、そのせいだろうか。

(2021/11/15)