Menu

プロムナード|断層の音|能登原由美

断層の音

Text by 能登原由美(Yumi Notohara)

アリス=紗良・オットの新しいアルバム『エコーズ・オヴ・ライフ』を聴いた。ショパンの《24の前奏曲》を基軸にしながら、その前後や間に20世紀以降の作品計7曲を挿入したものだ。最後の1曲は彼女自身の作品でもある。モーツァルトの《レクイエム》の〈ラクリモーサ〉が溶け込み、消え入るように終わる。《Lullaby To Eternity》という意味深なタイトルもあって、その音の行方を思わず詮索してしまう。なんとも示唆的な曲である。

が、まずはいつものように私は、ライナー・ノーツを広げることなく音楽に臨んだ。読んでしまえば書かれているものに囚われてしまう。ゆえに、たとえ奏者や作曲者本人が書いたものでも実際に音を聴くまでは読まない。できる限りまっさらな状態で心と耳を拓き、その時に抱いた印象や思いを大切にしたい。解説を読むのは聴いた後で良い。

再生ボタンを押すと、透明感のある軽やかな音の粒が流れてきた。今度の新譜はバッハの平均律だったかしらと一瞬思った。が、すぐに旋律は右へ左へ逸れ、あるいは立ち止まったり流れ出したりを繰り返しながら進んでいった。フランチェスコ・トリスターノによるこの新作《In The Beginning Was》は、どうやらバッハのプレリュードへのオマージュでもあるらしい。この後に続く《24の前奏曲》にもそうした思いが滲み出ていると言われるけれども。ということは、ショパンに対する敬意でもあろうか。だがそれ以上に、題名が示すごとく、このアルバム全体の「始まり」を告げることが最も大きな役割であったに違いない。

その後、ショパンの前奏曲が4〜5曲ずつ入り、そのブロックとブロックの間に現代作品が時にジャンルを越えて挿入されていく。例えば、リゲティの《ムジカ・リチェルカータ》(第1曲)。あるいはニーノ・ロータの《ワルツ》、武満徹の《リタニ》(第1曲)など。もちろんその並びにも選択された曲にも弾き手の想いがある。同じ和音、あるいは近い調性のものが並べられているのがその証拠だ。そのため、こちらの聴覚はごく自然にこれら「侵入者」たちの音楽を受け入れていく。こうして、オットの描くショパンの世界が目の前に提示されていった。

突然、ガタンと音楽が傾いた。第20番のプレリュードが終わった直後のことだ。ハ短調の終止音のその余韻が消えぬうちに、続くペルトの《アリーナのために》冒頭のロ音が打ち込まれたのだ。しかも、作曲家が明確に指示したpという弱音ではなく、前曲末尾から続くクレシェンドを保ったままの意志ある強い打鍵で。それだけに、ドからシへのわずか一音のズレは一層大きな衝撃となって現れた。そればかりか、ロ短調による開始のその長い一音が、それまで耳奥を占有していたハ短調の残影を一挙に塗り替えた。まさに、それまで目の前にあった世界が一変したのであった。

なぜ、こんな選曲にしたのだろうか…。

咄嗟に、アルバムのタイトルが頭を過ぎった。『エコーズ・オヴ・ライフ』。つまり、このアルバムは彼女自身の「人生」の写し鏡だったのだろうか。

一通り聴き終えた後で、本人が書いたノーツを読む。曲目の見出しとともに次の言葉が目に入った。

『エコーズ・オヴ・ライフ』は、私の人生に今も影響する想いや瞬間を映し出しているだけではなく、今日のクラシック音楽家として自分自身をどのように見ているかをも描いた音楽の旅路です。

もちろん、「背景」を音楽に重ね過ぎるのは良くない。が、この新譜自体が明らかに「彼女自身を表現」したものであることは間違いない。実際、曲の紹介などとともに、自身が歩んできた道のりが、時には詩の一句も添えながら書き綴られていた。そうしたなかで、両親の故国が異なるというアイデンティティの問題や、病気―3年前に多発性硬化症に罹患したことを公表している―についての記述には、一際重くのしかかるものがあった。

そのようなことを考えていた頃、世の中は9月11日を迎え、20年前のあの忌まわしい出来事、すなわち世界を震撼させた「アメリカ同時多発テロ」の勃発を振り返る記事がメディアに溢れるようになっていた。とともに、私自身が体験した当時のことも蘇る。日本では深夜を迎えたその時、ワールドトレードセンター(WTC)に1機が突っ込み炎上している様子を、たまたま寝る前につけたスカイ・ニュースが「Breaking News」として映し出していたのだ。その光景は映画のワン・シーンのようでにわかに信じられず呆然としているうちに、さらに別の一機が激突。それからほどなくして建物全体が崩れていくのを画面はずっと捉え続けていた。

もちろん、「体験した」のは映像を見たというだけで、私自身の身に直接降りかかったことではない。であれば、これは「映画のワン・シーン」と大きな違いはないのかもしれない。おそらく、画面のこちら側で見ていた多くの人々にとってはそうであろう。けれどもこの瞬間、当たり前のように見ていた景色は大きく音を立てて崩れ、それまで我々を取り巻いていた世界は一瞬にして塗り替えられてしまったように思えた。

その後は「テロとの闘い」が大義名分に掲げられ、様々な軍事行動がいたるところで展開されたことは今さら言うまでもない。その最たるものが、アメリカ軍のアフガニスタンへの侵攻と20年にもわたる駐留であり、その完全撤退によりさらなる悲劇が起きていることも、この夏メディアが盛んに報じていたことだ。こうした出来事についても、遠く離れた日本に住む私にとっては差し迫って対処せねばならぬものではない。とはいえ、あのWTCの崩壊とともに一変した歴史の上に今の私は立っている。それは免れ得ない事実だ。もはや前の世界に戻ることは叶わない。そこには跨ぐことのできない大きな割れ目が頑然と横たわっているのだ。

思えば、オットが突きつけたその断層の音は、人類が幾度となく耳にしてきたものだったのではないか。戦争やテロのみならず、2011年に東北を襲った巨大地震や津波、原発事故、そして近年の度重なる豪雨災害。今も我々を悩まし続けるパンデミックだってそうだ。いやむしろ、その音が生じる間隔は少しずつ狭まっているとさえ思える。そうであれば、いつしかそうした断層―この際、カタストロフィという方が適切だろう―に出くわすことに慣れてしまい、逆に何も感じなくなる時が来るのかもしれない。だがその時、世界はどうなっているのだろうか。

ショパンの《前奏曲》の終曲、第24番ニ短調。その狂瀾怒濤を締めくくる強烈なニ音の連打は、先に触れたペルトの楽曲冒頭に違わず激しく胸を打つ。が、後に続く作品はペルトの時とは異なり、前曲の終止音とまさに同じ音から始まる。《Lullaby To Eternity》。アルバムの掉尾を飾るこのオットの自作は、モーツァルトの〈ラクリモーサ〉のパラフレーズと言っても良い。この未完のレクイエムの作者にとってニ短調は「死」を意味したとも言われるが、果たしてここではそのように受け取るべきなのかどうか。少なくとも、「永遠」への昇華と捉えるには、彼女にとっても我々にとっても、時がまだ満ちていないように思えるのだけれども。

(2021/10/15)