オペラシアターこんにゃく座「さよなら、ドン・キホーテ!」|田中里奈
オペラシアターこんにゃく座創立50周年記念公演〈第二弾〉「さよなら、ドン・キホーテ!」
Opera Theatre Konnyakuza 50th anniversary of foundation “Good-by Don Quijote !”
2021年9月18日~26日 吉祥寺シアター(鑑賞回:2021年9月21日 13:00、青組)
2021/9/18~26 Kichijoji Theatre (Appreciation times:2021/9/21 13:00 Blue group)
Reviewed by 田中里奈(Rina Tanaka)
Photos by 前澤秀登/写真提供:オペラシアターこんにゃく座
台本・演出:鄭義信
作曲:萩京子
美術:池田ともゆき
衣裳:宮本宣子
照明:増田隆芳
振付:伊藤多恵
擬闘:栗原直樹
音響:藤田赤目
舞台監督:藤本典江
舞台監督助手:松浦孝行
音楽監督:萩京子
宣伝美術:小田善久(デザイン)・伊波二郎(イラスト)
[出演]
青組
ベル:沖まどか
サラ:飯野薫
トーマス(ベルの父親):佐藤敏之
ルイ(馬丁):島田大翼
オードリー(教師):梅村博美
ロシナンテ(老馬):大石哲史
サンチョ(駄馬):富山直人
サイモン(青年):壹岐隆邦
赤組
ベル:高岡由季
サラ:小林ゆず子
トーマス(ベルの父親):髙野うるお
ルイ(馬丁):北野雄一郎
オードリー(教師):岡原真弓
ロシナンテ(老馬):武田 茂
サンチョ(駄馬):富山直人
サイモン(青年):吉田進也
ピアノ:服部真理子/大坪夕美(回ごとに交代)
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術創造活動活性化事業)、独立行政法人日本芸術文化振興会
提携:公益財団法人 武蔵野文化事業団
主催・制作:オペラシアターこんにゃく座
今年創立50周年を迎えたこんにゃく座によるアニバーサリー公演の第二弾である。今年初めに上演されたオペラ『森は生きている』(世田谷パブリックシアター)に続き、今度は新作オペラ。鄭義信と萩京子によるコンビでのオリジナル作品は、『ロはロボットのロ』(1999)、『まげもん MAGAIMON』(2002)、『ネズミの涙』(2009)があり、本作『さよなら、ドン・キホーテ!』が第4作目となる。
緊急事態宣言中の公演ということで、キャストと演奏家は2組に分かれている。吉祥寺シアター内D列の観客には、希望すればフェイスシールドが配布されていた。さらに、開演前のアナウンスはパントマイム調だった。主演の沖まどかが胸に抱えるサイズの大きな絵本を観客に向けて開くと、そこに上演中の諸注意が書かれており、観客はそれを黙読するという方法だ。画材やタッチから子ども向けのテイストを感じる絵本のイラストと、最序盤から登場する歌役者たち(馬のコスチュームを身に纏っている)の見かけ上のコミカルさから、童話らしさを感じはしたものの、平日昼公演の客層にしても子ども向けではなさそうだと判断しつつ、上演の成り行きを見守った。
社会から取りこぼされた人々をめぐって
『さよなら、ドン・キホーテ!』の舞台は1940年代フランスの片田舎である。厩舎で父のトーマスと暮らす不登校の少女ベルは、ドン・キホーテのような男になって馬たちと旅することを夢見ているが、残った2頭の馬も軍に徴用されそうである(第1幕1場)。厩舎で働く馬丁のルイは、夜になるとレジスタンス軍にいる友人サイモンに食料をこっそり提供している。同じく夜、ベルが愛馬ロシナンテと共に家出しようとして、厩舎に隠れていたユダヤ人の少女サラと出くわす(2場)。サラは強制収容所送りを逃れてきた体験をベルに話す。ベルはサラを守ると誓う(3場)。
軍に徴用されなかった者たちが集う村の祭りに、負傷したサイモンが転がり込んでくる。治療もそこそこにサイモンはその場を去るが、道中で射殺される(第2幕1場)。友人を失ったルイは酒に溺れる。ベルの駄馬サンチョも軍に徴用された。ベルは不登校の理由をサラに打ち明ける。サラは神に祈る(2場)。ルイの密告を受けたドイツ軍が厩舎に現れる。ロシナンテの働きでサラは逃げ、ルイはドイツ軍を挑発して退場する。ベルは自分が自分であるため、愛のために闘い続けると誓う(3場)。
物語を追っていくと、登場人物が皆、いわゆる近代産業社会の構成員(=健康で労働可能な成人男性)から外れた存在だという点がまず目を引く。女・子ども・老人のみならず、性的・宗教的マイノリティ、身体障碍者、シングルファーザー、(性)暴力被害者、田舎、家畜……目についたところをざっと列挙しただけでも、『さよなら、ドン・キホーテ!』の各登場人物の負っているトピックはあくまでもアクチュアルだ。
作曲の荻京子は、公演プログラムへの寄稿文の中で、「1940年代のフランスの田舎を舞台としているが、この作品のテーマは?と問われれば「いまのこの時代そのもの」と答えるしかない」と述べている。「差別」と「解放」は、鄭義信が戯曲の中のこれまで繰り返し取り組んできたテーマでもある。この点に関して、今回の公演で、視覚障碍者向けの事前解説会を実施したり、介助犬の入場を認めたりと、劇団と劇場がバリアフリー対応をしていることにも言及しておきたい1)。
日本の音楽劇の担い手として
ピアノの伴奏と歌声(または台詞)から成る音楽はシンプルだが、親しげで楽しく、切実で誠実に、しっかりと聞かせてくる。こんにゃく座と言えば、ことばを明瞭に聞き取れる歌唱表現が有名だが、実際、台詞も歌も内容がはっきりと聞こえた。こんにゃく座の創設者・林光と同卒の浅利慶太が同じく日本語表現を重視したことを思い出すが、視覚的なスペクタクルがますます強みとなりつつある近年の劇団四季ミュージカルと比べると、その差異の大きさに気づかされる。
どちらかを良い悪いと言いたいのではない。公益財団法人とは異なる形態で、有限会社として立ち上がったこれら2つの団体が、初代から二代目へと移り変わる過渡期を生き延び、また全国ツアーを繰り返し打ち出すことで、日本の音楽劇を異なるフィールドで支えている点はもっと注目されていい。
『さよなら、ドン・キホーテ!』には、幕間のホワイエで観客同士が「あの曲なら歌える」と気軽に語り合えるような場、アマチュアとしてのプレイヤーの観点の介入を許すような上演の場があった。誤解を恐れずにあえて言うならば、この点で『さよなら、ドン・キホーテ!』は日本の創作ミュージカルの手本と言ってもよいのだろう。ここで私が念頭に置いているのは、ブロードウェイ発の「あの」ミュージカルというジャンルではない。そうではなく、日本に「ミュージカル」という概念が輸入され、それが大衆に受け入れられるべく変化したあとの、現代日本社会における大衆音楽劇としての、括弧つきの〈ミュージカル〉である。
日本における大衆音楽劇=ミュージカルか?
日本における〈ミュージカル〉が本来の定義を逸脱し、非常に広義な「歌付き芝居」を意味するようになったことは、これまでにたびたび指摘されてきた。興味深いのは、子どもへの教育と大人への文化工作の双方に、これらの「歌付き芝居」が取り入れられたことだ。
1956年の第一次幼稚園教育要領に「音楽リズム」が取り入れられ、その後、1970年代半ばから1980年代にかけて、子どもへの総合表現方法の一教育手段として、オペラやオペレッタ、そしてとりわけミュージカルがさかんに取り入れられた2)。今日においてもなお、課外授業や部活動、市民活動の一環として、ミュージカルを作ったり演じたりしたことのある人をしばしばみかけるが、ミュージカルに対する漠然としたイメージと教育的・公益的性質がしっかりと結びついていることの証左だろう。
その一方で、第二次世界大戦直後から全国規模で次々と組織された「うたごえ運動」を、ソロやデュエットよりも合唱(しかも斉唱)の多い日本型ミュージカルの源流のひとつとみなす動きがある3)。『さよなら、ドン・キホーテ!』の音楽性と異なる話ではあるが、大衆音楽劇の社会への定着を考える際のフックとしたいので、暫しお付き合い願いたい。
『戦後ミュージカルの展開』の中で、日比野啓は、当時影響力のあった共産党や労働組合がロシア民謡や革命歌、労働歌などを共に歌う場として「うたごえ運動」を組織し、そのコミュニティ形成の側面が政治的意図を超えて発展した結果、社会包摂型アートとしての〈ミュージカル〉のあり方へと取り込まれていったことを論じている(同章の冒頭に、林光の言葉が引かれているのも面白い符合である)。
私が日比野の言葉を引いたのは、『さよなら、ドン・キホーテ!』の最後の合唱曲を聞いていたとき、真っ先に、ドイツの演劇人エルヴィン・ピスカートアのプロパガンダ演劇を思い出したからだ。プロレタリアの立場に立ち、ブルジョアを主なつくり手および受け手として従来発展してきた演劇/劇場という制度に対する問題提起を行う上で、ピスカートアは音楽「も」創作に取り入れていた4)。
『さよなら、ドン・キホーテ!』がプロフェッショナルな集団による創作の結果であることは、上演内容と公演形態の双方から明らかだ。にもかかわらず、現世から隔絶された非日常のステージの上にあるものでもない。劇団のファンに強固に支えられた半ば開かれたコミュニティとしての側面が、こんにゃく座公演にはある。そして、そのような形で成功した例が、日本で驚くべきほど少ないということも繰り返し顧みられていい。スタジオーネ形式で制作・上演されることの多い日本で、オペラを年間約250回公演している劇団があるという点で、こんにゃく座は明らかに稀有だ。
それにしても、「騙されるな 立ち向かえ」と紡がれる解放の歌は、いったい誰に対して発されているものなのか。「ドン・キホーテ」と言えば、クラシック・バレエのそれや、松本白鷗主演ミュージカルがまず浮かぶ舞台芸術観のあるところで、また、作中のシャレに対する観客層の反応の良さ――明らかにこんにゃく座慣れしている――からするに、ファン層の厚く積みあがった上演空間で、解放の歌はどれほど自由に響くことができるのか。それとも、歌詞(「愛と平等を勝ち取るために私は歌い続ける」)にあるように、それを歌い続けることにこそ意味があるのかもしれない。
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- 「さよなら、ドン・キホーテ!劇場日誌(9月20日)」萩京子『オペラシアターこんにゃく座 旅をつづけるボクたちの座日誌』、2021年9月20日。
- 内山尚美「保育者養成校における総合表現活動の取り組み―「ミュージカル」 の授業実践を通して―」『東海学院大学短期大学部紀要』、42、2016年、p. 60。なお、ここでの「ミュージカル」に対する理解は、美学的・商業的性質の代わりに恣意的な目的を取ってつけた内容であることも併せて指摘しておきたい。例えば、「ミュージカルは、自己を表現する能力や他者と[原文ママ]協調性、そして物事に素直に共感出来るこころといった「人間力」を、いっさいの理屈ぬきで、自然に教えてくれる」(福井一、太田垣学「総合的表現教科としての「ミュージカル」」『奈良教育大学紀要』47巻1号、p. 71、1998年)といった理解である
- 日比野啓「市民ミュージカルの発展」『戦後ミュージカルの展開』、森話社、2017年、p. 353。
- 萩原健『演出家ピスカートアの仕事 ドキュメンタリー演劇の源流』、森話社、2017年。
(関連評)オペラシアターこんにゃく座 さよなら、ドン・キホーテ!|齋藤俊夫
(2021/10/15)