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九州交響楽団第397回定期演奏会|栫大也

九州交響楽団第397回定期演奏会
Kyushu Symphony Orchestra the 397th Subscription Concert

2021年9月2日 福岡サンパレスホテル&ホール
2021/9/2 Sun Palace Fukuoka Hotel & Hall
Reviewed by 栫大也(Masaya Kakoi)
写真提供:九州交響楽団

<演奏>        →foreign language
指揮:カーチュン・ウォン
ヴァイオリン:金川真弓
コンサートマスター:西本幸弘
九州交響楽団

<曲目>
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
  I.アレグロ・ノン・トロッポ
  II. アダージョ
  III. アレグロ・ジョコーソ、マ・ノン・トロッポ・ヴィヴァーチェ – ポコ・ピウ・プレスト
(ソリスト・アンコール)
J.Sバッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番よりサラバンド
バルトーク:管弦楽のための協奏曲
  I. 序章
  II. 対の遊び
  III. 悲歌
  IV. 中断された間奏曲
  V. 終曲

 

カーチュン・ウォンという人は、ただならぬ教養人だと思う。それも、大人の知性と子どもの感性を併せ持ち、融合も切り替えもできる。ゲーテがいうところの「教養」、即ち「再び取り戻された純真さ」を備える人だと思う。

前提としてウォン/九州交響楽団という組み合わせの説明が必要だろう。九響は1953年創立、1973年プロ化。現在は充実した低弦と木管陣を中心に、どのような指揮者に対しても高い適応力を持つ。なお、ホームとしているアクロス福岡シンフォニーホールは耐震改修、設備更新工事のため、比較的鳴りの良くない会場で行われたことを付記する。

ウォンと九響は2018年、2020年に共演している。前者のうち《火の鳥》の〈カスチェイ王の魔の踊り〉だったろうか。指揮の作法よりも音楽上の目的を優先し、両手を頭上に上げて糸の短いデンデン太鼓もかくやと振り動かす。児戯とも取れる動作による音楽作りは衝撃だった。スマートなフォルティッシモで大人の顔を見せるやいなや、子どもが癇癪を起こしたようなピッチカート、更には金管と打楽器で一気に押し切る。高いレベルで知的かつ合理化された音楽と、感性の波に乗る音楽が同時に流れると、演奏はたちまち全く予想できない方向へ飛びゆく。この時、音楽は「再び取り戻された純真さ」となって現れる。だからこそ、誰もがウォンの世界観に引き込まれる。

かくして、二面性を一とする指揮者と高い適応力を有するオーケストラが、ブラームスとバルトークの長大な協奏曲を迎えた。

まずは金川真弓を迎えたブラームス。ウォンと金川が採った戦略は、楽曲全体を種々に抑制するというリスキーなものだった。顕著な例は、第1、第3楽章の各所に出てくる16分休符の伸び。呼吸が一瞬止まったかと思わせ、次の音に移る。また、金川の間を、ウォンが棒の上下幅でデフォルメする。こうした方法は、楽曲を重く響かせることに成功した。抑制の他の例には、低弦の甘い旋律をあまり歌わせない、総奏の音量に一定の上限を定めるなどが挙げられる。

これは決して悪い意味でなく、金川のダークかつ堂々たる音色を際立たせるための差配といえる。事実、弓の根本で弾かれる重音は、鳴りのあまり良くない会場で最も広く深く響いた。また、リタルダンド時の溜めや、消えゆく高音の残り香は、聴き手の鼻腔をくすぐる役割を果たした。

一方、当然ながら、一歩間違えれば冗漫になり続けるリスクもある。この点、第2楽章冒頭の拡張された木管五重奏に触れたい。ウォンが求めるのは抑制だが、必要以上の応諾は煮えきらなさにもつながる。そこで木管陣は、高い技量によって基本的に奏者が自然と望む叙情を優先しつつ、メゾ・スタッカートで要請に応えた。言うなれば、指揮者、オーケストラが「教養」を交わすことで成立した、手に汗握る牧歌である。

次にバルトーク。前半のブラームスがデフォルメによる抑制なら、バルトークは書法に基づくそれだった。必要以上の音が書かれていないから、必要以上に鳴らさない。理知的かつ合理的。しかしこちらは、全5楽章中、第4楽章まで不首尾に終わった。書法はあくまで書法で、実際に鳴り響く音楽の行方とは別のところにあるはずだ。ファゴットやオーボエのコミカルさにせよ、総奏の皮肉にせよ、方針の墨守はウォン/九響が本来なしえたであろう「教養」の応酬による予測不可能とは別の方向へ向かった。

かくして児戯という名の指揮者の独奏は、第5楽章に入ってようやく出てくるに至った。16分音符のピアニッシモからの長い長いクレッシェンド。指揮で強く叩きにかかるタイミングはシンコペーションを優先する。中長期スパンで変拍子を含むリズムの妙味を聴かせ続ける。狂気を押す構造も児戯に添い、オーケストラもよく応えた。

確かにウォンはブラームスとバルトークの2つの長大な協奏曲を、抑制という戦略のもとに統御したが、煮えきらなさが残りもした。ブラームスは金川ありきとしても、バルトークは彼らしい遊びがもっと活かされてよかったろう。大人の知性と子どもの感性を具備するウォンが見せたものとしては、あまりに抑制された音楽だった。

一方、オーケストラが持ち前の適応力を、見事に発揮したことも正負両面を持っていた。先に挙げたブラームスの第2楽章は「教養」の応酬だったが、バルトークの第5楽章で見せたのは技術による大人の対応であり、ウォンの児戯とはズレが出てしまった。

音楽における技術、表現、自主自由、指揮者とオーケストラの関係性、書法と実演の関係性。今回の演奏会のなかで「教養」、即ち「再び取り戻された純真さ」を充分に得ることは難しかった。しかし、ウォンの備える高次の技術、予測できないことによる楽しさを、再び得る機会を今から心待ちにしている。カーチュン・ウォンという指揮者はそのための「教養」を間違いなく持っているのだから。

(2021/10/15)

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栫大也(Masaya Kakoi)
福岡県出身。福岡大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程前期修了。専門は歴史学、特に日本近現代音楽史。
主要業績に、『「騒音と「法悦境」のあいだに―山田耕筰の音と耳』(細川周平編著『音と耳から考える』掲載) 、『「赤とんぼ」は戦後の空に翔ぶ』(『歴史地理教育』927号掲載)、『《沖縄を返せ》のプラティーク』(『琉球沖縄歴史』2号掲載)。
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<players>
Conductor: Kahchun Wong
Violin: Mayumi Kanagawa (*)
Concertmaster: Yukihiro Nishimoto
Kyushu Symphony Orchestra
<pieces>
J.Brahms: Violin Concerto, Op. 77
I. Allegro non troppo
II. Adagio
III. Allegro giocoso,ma non troppo vivace – Poco più presto
(soloist encore)
J.S.Bach: Violin Partita No.1 in B minor, BWV 1002: V. Sarabande
Bartók Béla: Concerto for Orchestra
I. Introduzione
II. Giuoco delle coppie
III. Andante non troppo
IV. Intermezzo interrotto
V. Finale