ベアータ・ムジカ・トキエンシス 第10回公演 ジョヴァンニ・アニムッチャの肖像~対抗宗教改革期のローマ教会音楽~|大河内文恵
ベアータ・ムジカ・トキエンシス 第10回公演 ジョヴァンニ・アニムッチャの肖像~対抗宗教改革期のローマ教会音楽~
Beata Musica Tokiensis 10th Concert
2021年9月9日 日暮里サニーホールコンサートサロン
2021/9/9 Nippori Sunny Hall Concert Salon
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
写真提供:ベアータ・ムジカ・トキエンシス
<出演> →foreign language
Beata Musica Tokiensis:
鏑木綾(ソプラノ)
望月万里亜(ソプラノ)
長谷部千晶(ソプラノ)
及川豊(テノール)
小笠原美敬(バス)
レクチャー:長岡英
<プログラム>
レクチャーその1
G. アニムッチャ:イエスが生まれた
めでたしマリア(アヴェ・マリア)
レクチャーその2
G. アニムッチャ:賛歌「星々の造り主」(グレゴリオ聖歌)
ミサ《星々の造り主》より、キリエ、グロリア
~休憩~
G. アニムッチャ:ミサ《星々の造り主》より、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ
幼子がわたしたちのために生まれた
全曲ジョヴァンニ・アニムッチャによるコンサートは、ラウダで始まった。ラウダとは中世後期からルネサンスにかけて、イタリアで歌われた宗教的な歌詞をもつ「うた」のことで、当時ラテン語で歌われた典礼の音楽に対して、ラウダはイタリア語を歌詞にもち、典礼外で歌われた。当初は単旋律だったが、15世紀頃から多声になったという。また、同じ旋律に何番もの歌詞を連ねて歌っていく有節構造をもつことも特徴である。
《イエスが生まれた》は、イエスが生まれたときの光景を情感豊かに描写したもので、同じ旋律の繰り返しの中で情景が次々と巡っていき、最後の段落で「真のvera」という歌詞が強調されたところに心惹かれた。鏑木・長谷部・及川・小笠原の4人の歌唱は、歌詞が非常にはっきりとしていて、目の前に光景が浮かぶ。ラウダが宣教師の説教に起源をもつことが思い起こされた。
「アニムッチャ」という作曲家の名前を筆者が初めて聞いたのは、1999年に東京芸術大学でおこなわれた、日本音楽学会全国大会での長岡氏の研究発表の場であった。アニムッチャという初めて聞く作曲家が、対抗宗教改革で有名なパレストリーナ以上に重要な作曲家であることを長岡氏の発表から実感し、きっとこれからアニムッチャの曲があちこちで聴けるようになるのだろうとワクワクしたことを覚えている。が、その後、寡聞にしてアニムッチャの曲がコンサートのプログラムに載ったのをこの20年余りで目にしたことがない。ようやくアニムッチャの曲が聞けるというだけでなく、すべてアニムッチャの曲という構成にも、ベアータ・ムジカ・トキエンシスの気概が感じられる。
コンサート前とミサ曲演奏前とで、計2回おこなわれた長岡氏のレクチャーでは、配布された関連年表に沿ってアニムッチャの経歴や当時の音楽・宗教世界に関連するトピックが熱く語られた。彼がローマ教皇庁ジューリア礼拝堂の楽長にパレストリーナの後任として就任し、その後16年で亡くなってしまうと、その後任に再びパレストリーナが就いたという。カトリックの教会音楽について議論されたことで知られるトレント公会議の時期に楽長だったのはパレストリーナではなくアニムッチャだったのに、なぜ現在ではパレストリーナが対抗宗教改革の救世主のように扱われてしまうのか。長岡氏によれば、アニムッチャがパレストリーナよりも23年早く亡くなっていることから、パレストリーナの栄光の影に隠れてしまったのだろうということである。一応の納得いく回答を得つつも、その疑問をずっと抱えつつ、コンサートを聞いた。
トレントの公会議で議論の的となった教会音楽は、世俗的な要素を取り除くことが決まり、歌詞の聞き取りやすさが求められるようになったと言われている。長岡によれば、世俗的要素の排除は決定事項に入っているが、歌詞の聞き取りやすさについては草稿にはあったが最終的には盛り込まれなかったという。ただし、同時期にジューリア礼拝堂の楽長をしていたアニムッチャは「公会議の要求に沿ったミサ曲」(配布プリントより)を作曲することにより報酬を得たことがわかっている。その要求とは紛れもなく歌詞の聞き取りやすさの問題であったろうと思われる。
長岡氏が強調したように、歌詞を聞き取りやすくするためには、ポリフォニー的な書法をできるだけ控え、縦に揃った構造を持つことが求められるのだが、そうすると音楽が単純化してしまう危険性がある。
2回目のレクチャーに続き、今回取り上げられたミサ曲に先立って、その元となったグレゴリオ聖歌、《星々の造り主》が歌われた。単旋律で歌われるこの賛歌は6番までの歌詞が同じ旋律で歌われる。テノールの独唱で始まり、テノールとバス、ソプラノ3人の交代で進み、最後は全員で。キリストを星の造り主にたとえたこの賛歌は、母の胎内という小さな世界から宇宙全体にまでを視界におさめたスケールの振れ幅の大きな曲で、同じ旋律であっても、繰り返しの単調さが感じられず、この団体の力量の大きさが感じられた。
さて、アニムッチャのミサ曲《星々の造り主》。模倣的な動きのキリエ、グロリアの前半を経て、Qui tollisから縦に揃った響きになる。その響きの違いに思わず背筋が伸びる。たしかに縦が揃うことで歌詞の聞き取りやすさは向上するのだが、聴き手にとってはむしろ音楽上のアクセントになって音のたゆたいの中に埋没しかかっていた精神がしゃきっと起こされるような感覚があり、冗長さは感じられなかった。
終止感のない不思議な終わりかたをする長大なクレドを経て、短いスパンで模倣が続くサンクトゥスでは、Pleni suntのところの最上声部の天から降ってくるような望月の声が印象深かった。縦に揃って始まるもののすぐに模倣が始まるアニュス・デイは、模倣の応酬が続くが、最後にはnobis pacemを全員揃って繰り返すなど、やはり「揃える」ことで終わる。
演奏会の最後は、ラウダ集第2巻より《幼子がわたしたちのために生まれた》。本日演奏されたラウダの中で、唯一5人全員が揃ってうたわれたもの。ラウダ作曲家としても名を馳せたアニムッチャの本領発揮といったところ。
コロナ禍の中ということもあり、休憩時間以外にもクレドの後に換気の時間を設けるなど感染対策に万全を期して開催された演奏会。アンコールはおこなわれなかったが、まだまだ聞きたいという思いが募った。アニムッチャの音楽は、たしかにパレストリーナに比べると地味ではあるが、だからこそ一層、歌い手の技量が演奏の質に如実に反映される。これまで演奏される機会がなかったのは、楽譜が入手しにくいこともあるが、これを歌いこなせる歌い手を揃えることが難しかったということもあるだろう。レパートリーの発掘という意味でも毎回よい企画を提示しているベアータ・ムジカ・トキエンシスならではの演奏会であったというにとどまらず、他の団体でももっとアニムッチャの音楽が聴けるようになることを願って筆を措く。
(2021/10/15)
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Players:
Beata Musica Tokiensis:
Aya KABURAKI(soprano)
Maria MOCHIZUKI(soprano)
Chiaki HASEBE(soprano)
Yutaka OIKAWA(tenor)
Yoshitaka OGASAWARA(bass)
Lecturer
Megumi NAGAOKA
Program:
Giovanni Animuccia: Iesu è Nato
Ave Maria
Hymnus: Conditor alme siderum, Gregorian chant
Giovanni Animuccia: Missa Conditor alme siderum Kyrie Gloria
–intermission—
Giovanni Animuccia: Missa Conditor alme siderum Credo Sanctus Agnus Dei
Giovanni Animuccia: Puer natus est nobis