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第31回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会|西村紗知

第31回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
The 31st Competition of Yasushi Akutagawa Suntory Award for Music Composition

2021年8月28日 サントリーホール大ホール
2021/8/28 Suntory Hall Main Hall

Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:サントリーホール

<演奏>        →foreign language
指揮: 杉山洋一
新日本フィルハーモニー交響楽団
*ピアノ:椎野伸一
**琵琶:原島拓也

<プログラム>
●第29回芥川也寸志サントリー作曲賞受賞記念サントリー芸術財団委嘱作品
稲森安太己(1978 ~ ):『ヒュポムネーマタ』ピアノとオーケストラのための(2020~21)世界初演*

●第31回芥川也寸志サントリー作曲賞候補作品
杉山洋一(1969~ ):『自画像』オーケストラのための(2020)
原島拓也(1993~ ):『寄せ木ファッション』琵琶とオーケストラのための (2020)**
桑原ゆう(1984~ ):『タイム・アビス』17人の奏者による2群のアンサンブルのための(2019~20)日本初演

※候補作品演奏の後、公開選考会(司会:沼野雄司)
選考委員(50音順):近藤 譲、坂田直樹、原田敬子

 

「優劣」が存在しない中で、それでも何事かを決定していかなければならない。平等を旨とする戦後民主主義の要請のうちの一つでもあろうそれは、格差や競争のもたらす残酷さとはまた別の残酷さをもたらしている。つまり、あらゆることが無益で終わりのない差異化ゲームに帰結することとなるのだ。各人が内在的に、受け継がれてきた遺産を乗り越えることは、そう易々とは実行されえない。
日本の現代音楽が日本の社会の写し鏡となるのはそうした点に他ならないだろう、などと、この界隈に立ち寄るようになってまだ10年にも満たない筆者はそんなふうにうっとおしいことをこの日の選考会の間に考えていた。
もちろん、作品の優劣を本当に決定できないわけではないだろう。この日選考会の下した決定には説得力があった。技術上の更新や流行り廃りも実際に存在する。作品を個別的に検討すれば、それぞれが今っぽい感性に貫かれて、それぞれの仕方で作品外部の鏡となっているのを確認することもできるだろう。
ただ、個人様式の確立の深度を競い合うことが現代音楽なりの競争の在り方だとすれば、結局のところ各作品が共通の判断基準のもとに晒されるのは困難で、その営み全体は差異化ゲームと縁を切ることは完全には不可能だろう。
――しかも、差異化ゲームで何が悪いのか、という主張を、各々の個人様式の確立を主たる目的としてきたような作曲理論は退けることができない。そうした作曲理論は共通の判断基準としては機能できないからだ。
テオリーの不在。作曲理論は、現代音楽の状況論を記述するための言語にそのまま転用されるものなのだろうか。筆者にはよくわからない。総譜から離れた人間の言葉を粗雑にひっくるめて「情緒的」と片付けてきたツケはとうの昔から回ってきている、はずだが。

まずは二年前に受賞した稲森安太己による委嘱作品『ヒュポムネーマタ』。最初の方は、どこにも進まずその場に堆積していくような音楽的時間が流れていた。ティンパニの上に、木管、金管、弦楽器のめいめい異なる2,3の音からなる断片が重ねられていく。たまにウッドブロックの音も挿入される。ティンパニが、他のパート・声部に対してリードするなりインパクトを与えるなり、そうした役割をもっておらず、ひたすら他のパートと縦の線を同じくするばかりなので、そこで停滞が生じる。オーケストラ全体の強弱もあまり変わらない。聴衆はこの停滞する時間に耐える。少なくとも筆者は、こういった停滞をこの日の稲森作品に密かに期待していたのだった。
この停滞の部分は次第にアッチェレランドで間合いが詰まっていき、そうこうするうち停止し、その後ソリストが入ってくる。Cの音をたっぷりと響かせたのち、右手の上行音型が提示され対位法的なソロがしばらく続く。素晴らしく透明で、先ほどまでの停滞が嘘のようになる。
その後は、ピアノコンチェルトらしい展開が最後に至るまで続いていく。速い部分は少しピアノの自由度が高く無調的な散文のような書法。これがトーンダウンしたのち遅い部分に入っていき、高音部のはやいパッセージがオーケストラに添えられていく展開も。オーケストラとピアノが軌を一にするffの総奏で頂点に達してからは、再び対位法的な書法のソロに戻り、そのまま終わりに向かっていく。
ソリストに牽引される展開で、もちろんコンチェルトというのはそういうものなのだが――最初の停滞する時間は中断されてしまった。停滞からの展開を聞きに来たのに、と戸惑った。

さて、第31回芥川也寸志サントリー作曲賞は、桑原ゆう『タイム・アビス』に決定した。プログラム・ノートによると「「入れ子の時間」「ねじれの時間」「傾斜する時間」のあいだを振幅し、形式を見出そうとした作品である」とのこと。また、「編成は二群のアンサンブルを想定し、ステージ下手にⅠ班、上手にチューニングを四分音下げたⅡ班が位置する」。
秒針のように刻むヴァイオリンのピチカート、バスフルートの息の音、これらの静かなパルスの間に急に流れ込む混濁した合奏。パーカッションの音はスピーカーに振り分けられ、合奏を区切る音響の場を形成している。秒針の役割は他にも、ピアノの内部奏法、トロンボーン、ハープシコード(シンセサイザー)が担う。
つまり、秒針と合奏の二分法がはじめに提示され、これは複雑さを目指し、やがて静かに終わっていく。
時間にまつわる思索を音にした作品だったように思う。

ところで、個人様式の確立の深度とは、情緒的なことを言うなれば、独自性に基づく客体化の深度である。客体化の過程がそのまま作品の始まりと終わりを規定していく。桑原作品の場合それは、計量的時間(秒針)と意識(合奏)のもつれあいだった。独自性というのは、選考会を聞くところによると、他の作曲家がやっていないかどうかという点のみならず、作品の組成に亀裂が走っていないかどうか、も含むようである。なにかうまくいっていないようであれば、それは独自性に達していないとみなされる。
杉山洋一『自画像』は、引用音楽の手法を採用した、多重構造の音響体。「『自画像』は、自分が生まれた1969年から2020年3月までの半世紀にわたり、世界各国の戦争紛争地域の国家や州歌を、時間軸に沿って並置したもの」と、プログラム・ノートにはある。
イタリア軍の弔礼ラッパや各国の国歌が、複調のようにして重なり合っていく。定期的に鳴らされるバスドラムが、音響体に区切りを設ける。拍はなるべくずらされているが、最後には拍のずれもなくなっていくので音楽の強度が高まった状態となる。その強度は、諸々の権力によるのか、それとも、作曲家の書法の頑なさによるものなのか。高らかに鳴り響くチューブラーベル。
国際社会全体を仮想体験しているようでもある。経験の外にあるものが、作曲作品に取り込まれ、それを通じて作曲作品の存在自体が不思議と相対化されていく。
自らをとりまく時代精神を自己理解の方へとまとめあげていった作品。

時間経験や歴史を巡る、いわばそれらの交差する真ん中を、音響でもって探り当てるまさにその過程を、桑原と杉山の作品は示そうとしているように思う。
しかしそれは、作曲家自身の論理と作品の組成という論理との混合状態を保持したままだ。だが、それがどうして批判される謂れがあるというのか、となるとなんとも言えないだろう。ちなみに、多様性の尊重というのはそれ自体では基準にはならない。それでも敢えて言っておかねばなるまい。それだけが現代音楽の道なのか。広く「時間」に関する考えを表明する場に作曲作品という概念を切り詰めてよいのか。

原島拓也『寄せ木ファッション』はこの日の他の作品(稲森作品も含む)に比べて異質だ。選考委員はその異質さについて、技術面の至らなさをそれぞれ指摘することで、ネガティブな評価を与えた。妙に楽観的な作品だ。だがその楽観性は、音響のポップさ、明るさのことのみを言うのではないだろう。
作曲家自身がソリストを務める琵琶コンチェルト。拍のないアトモスフェールのように、流れるような入りの展開。琵琶はほとんど常に、拍子木や鈴など、あるいはハープの場合もあったが、オーケストラの音色に埋もれないようにパーカッシブな音色を伴っている。
音楽全体を弦が主導するので、弦のゴージャスな響きが琵琶にとっては少し重たい。このゴージャスさを異化させるような力が琵琶の方にあればよかったのだけれど、と思う。
だがなんにせよ、そういう書法の細部は、それ自体では問題でないように思えた。それより、もっと作品全体として、そもそも客体化の深度を目指していないようなのである。独自性もあまり問題とならないのかもしれない。作品の組成には、ディレッタントが聞いてわかるくらいに、亀裂が走っている。選考委員は特に触れなかったが、筆者としては琵琶と金管の組み合わせの違和感が少し看過しがたかった。
自撮りのような作品だと筆者は思った。偶然杉山作品のタイトルが自画像だったわけだが、自画像と自撮りでは、もう、なんと違うことだろうか。
過程や深度が決め手ではない。この作品のどの瞬間をとっても「かわいくないですか」「盛れてますよね」とか、そういうことしか言っていないのではないか。

今年の選考演奏会のうちで最も印象に残っているのは、選考会での原島作品に対する選考委員のコメントである。
ある人は原島作品の和声感覚を三度堆積であると言い、またある人はスペクトラルだと言い、いや、二度や属七も、などといった言い争いが勃発した。
筆者にはよくわからない。「私かわいくないですか」といっている作品だと思ったところで、一体なにを言えば、その作品の問いかけに応答することになるのか。共通の判断基準が仮にあっても(和声感覚の杓子定規が共通の判断基準になるのかどうかもわからないが)、作品からの問いかけは個別的だ。本当はいつだってそういうものだ。
実際にはそういう力場にしか、テオリーというのは築き上げられないのかもしれない。
けれども、差し当たって言えることとしては――美っていうのは移ろいやすいものなので、言い争いなんかしていたら、逃げて行ってしまいますよ。

(2021/9/15)

 

関連評:第31回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会(ライヴ配信視聴)|齋藤俊夫

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<Artists>
Conductor: Yoichi Sugiyama
New Japan Philharmonic

<Program>
Yasutaki Inamori: Hypomnemata for Piano and Orchestra (2020-21)
[World Premiere, commissioned by Suntory Foundation for the Arts]
 Piano: Shinichi Shiino

◎Nominated Works for the 31st Competition of Yasushi Akutagawa Suntory Award for Music Composition
Yoichi Sugiyama: Autoritratto for Orchestra (2020)
Takuya Harashima: YOSEGI fashion for Biwa and Orchestra (2020)
 Biwa: Takuya Harashima
Yu Kuwabara: Time Abyss for Seventeen Musicians Divided in Two Groups (2019-20) [Japanese Premiere]

◎Open Screening (Yuji Numano, MC)
Jury: Jo Kondo, Naoki Sakata, Keiko Harada