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サントリーホールサマーフェスティバル2021 アンサンブル・アンテルコンタンポランがひらく 東洋─西洋のスパーク|西村紗知

サントリーホールサマーフェスティバル2021 ザ・プロデューサー・シリーズ アンサンブル・アンテルコンタンポランがひらく~パリ発―「新しい」音楽の先駆者たちの世界~東洋─西洋のスパーク
Suntory Hall Summer Festival 2021:The Producer Series ENSEMBLE INTERCONTEMPORAIN-From Paris into the World’s Pioneers of “New Music”, East and West

2021年8月22日 サントリーホール大ホール
2021/8/22 Suntory Hall Main Hall

Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:サントリーホール

<演奏>        →foreign language
ソプラノ(ヘレン:若い難民の娘):シェシュティン・アヴェモ*
能声楽(シズカ:静御前):青木涼子*
メゾ・ソプラノ:藤村実穂子**
テノール:ベンヤミン・ブルンス**
指揮:マティアス・ピンチャー
アンサンブル・アンテルコンタンポラン

スペシャル・サポートメンバー
アンサンブルCMA
 ヴァイオリン:小形 響/小川響子/木ノ村茉衣/高宮城 凌/戸澤采紀/戸原 直/
 東 亮汰/宮川奈々/山縣郁音
 ヴィオラ:古賀郁音/森野 開/山本 周
 チェロ:上村文乃/矢部優典

コントラバス:瀬 泰幸
ファゴット:中川日出鷹
トロンボーン:村田厚生
チューバ:橋本晋哉

<プログラム>
細川俊夫(1955~ ):オペラ『二人静』~海から来た少女~(2017)*日本初演
 原作(日本語):平田オリザ 能『二人静』による
 (1幕1場/英語上演・日本語字幕付/演奏会形式)
グスタフ・マーラー(1860~1911)/コーティーズ 編曲:『大地の歌』(声楽と室内オーケストラ用編曲)(1908~09/2006)**

 

終演後、会場は盛大な拍手で包まれ、演奏者はスタンディングオベーションで称えられていた。
それは「現代音楽」のコンサートにしては珍しい光景だった。観客はなにかに飢えている様子だった。コロナ禍でいくつもの来日公演が中止されてしまったがゆえの、外国人演奏者に対する飢え、あるいは今回の公演が無事開催されたことに対する感謝の気持ちがその熱狂の源だったのだろうか。確かに、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)をはじめとするこの日の演奏者のパフォーマンスは高水準だった。けれど、EICの素晴らしく精密なアンサンブル、この日披露された『二人静』の内容のシリアスさ、『大地の歌』の形式上の奇特さ――どこを切り取っても、熱狂を直接的に喚起する要素はなさそうで、判然としない心地になった。
そういうわけで筆者は、審美的なものに対する人々の飢えが、これほどまでに高まっているのか、と思うに至った。この日のプログラムを通じて、飢えが最後の熱狂として現れたのだと。
とはいえ、繰り返しになるが、我を忘れて熱狂の対象にできるような内容のプログラムではなかったのである。両作品はめいめい問題提起的、あるいは問題含みである。『二人静』は中東・ヨーロッパの難民問題を扱ったもので、『大地の歌』は、西洋音楽史きっての怪作と言っても過言ではないだろう。
人々の熱狂は何によって喚起されたのだろうか。

弦楽合奏の織り成す最弱音の波のまにまに、トランペット、オーボエなどが2つの下行する断片を浮かばせる。その音響は開始数秒で、細川俊夫の作品であると確信できるものだった。
ハープのつまびく反復音型はさながら泡沫で、ヴァイオリンは時折刻んで駆け上がっていく。弦楽器のグリッサンドがひとしきり鳴ったのち、チェレスタ、ハープが入ってきて音楽全体が少し落ち着いて、ヘレンの歌唱が始まる。ヘレンは自身の亡命を追想する。地中海の海辺にたどり着く前に、弟を亡くしてしまったこと。混乱の最中幼い弟の手を放してしまったこと。
その独白も終わり、管楽器の息の音、チェロのバルトークピチカートなどピッチ感の薄れた音色とともに、静が登場する。静は「君がため 春の野に出でて若菜摘む 我が衣手に雪は降りつつ」と歌う。
現代に生きるヘレンのもとに、12世紀の日本の舞手である静が訪れたのだ。ヘレンは「あなたは誰?」「若菜って何?」「春に雪が降るの?」など静に尋ねる。一通りその質問に答えたあと、静は「私を弔ってほしい」とヘレンに頼む。
生まれたばかりの息子の命を時の権力者に奪われた静の亡霊が、ヘレンに憑依する。ヘレンの英詞の歌唱に日本語詞が混ざるようになる。
ウッドブロックの挿入をきっかけに、静は舞う。フルートやバスクラリネットがこれをサポートする。
しばらくすると静は舞台から姿を消す。残されたヘレンは「私はどこから来たの? 私はどこへ行くの?」と自問自答を繰り返し、終曲。
弔いは、静が憑依したヘレンの身体から絞り出されるベルカントの絶唱により実行され、そして、ヘレンが自問自答をやめない以上、続いていくことだろう。
そうして生者は国と時代をこえて、死者と共に生きていく。難民問題という過酷な現実から、そうしたある種のユートピアが立ち現れていった。

ユートピアを描き出そうとするなかで、その端々に暗い現実が顔を覗かせている。細川作品との対比を言うならば、マーラー作品の内容はそのように言い当てることができるだろう。ユートピアと現実の出現の順番が、細川とマーラーとでは反対になっている。
漢詩に基づく6楽章構成のオーケストラ歌曲である『大地の歌』は、今回室内楽版として演奏された。作中の人物は、友と酒を酌み交わしながら語らい、自然を称え、人生について思いをはせる。夢見心地の華やかな空気が、作品全体を覆っている。だが、同じほど憂鬱でもある。
この作品の奇妙さは、歌詞のテクストとそこに与えられたメロディや伴奏との間の、整合性の少なさに起因するだろう。特に、急な調性感の切り替えが不気味だ。どうして急に短調になるのかテクストを読んでもよくわからない。それはさながら、テクストと音楽が、互いに互いの表現の根拠となるのを、拒んでしまっているのを見せられているようだ。EICのとりわけ木管楽器のコントロールが、恐ろしいほどに安定していて、藤村実穂子とベンヤミン・ブルンスの歌唱も正確だ。彼らの的を射た演奏は、『大地の歌』の壊れを、テクストと音楽との間の深淵を、それとなく写し取っていく。
第一楽章「現世の愁いをうたう酒歌」は、どこか湿っぽい印象だが、弦のゴージャスさをまとった動きと管の超然たる安定性とで、華々しくウィーン的だと思えた。だが、愛らしいリート的な第三楽章でもそうだが、間奏の急な陰りが恐ろしい。
なにより怖いのは、終楽章で度々現れる、チェロの鳴らすC音のドローンである。もうすっかり、調性はかつての姿ではない。作曲家が飼いならせていない音が多すぎる。

人々の熱狂は何によって喚起されたか。人々は何に飢えているか。名人芸や音楽そのものに、だけではないのではないか。
コロナ禍は長引き、自宅待機で現実がかつての現実味を失い、人々はユートピアのなんたるかを考える暇もない。
間断なく緩やかに悪化していく昨今の状況下で、人々の抱く漠たる外部への希求をみた。

 

(2021/9/15)

 

  

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<Artists>
Soprano(Helen, Young Refugee Woman):Kerstin Avemo*
Noh-Singer(Shizuka, Shizuka Gozen):Ryoko Aoki*
Alto: Mihoko Fujimura**
Tenor: Benjamin Bruns**
Conductor: Matthias Pintscher
Ensemble intercontemporain, Ensemble CMA

<Program>
Toshio Hosokawa: “Futari Shizuka” ― The Maiden from the Sea (2017)*[Japanese Premiere]
 Original Text (Japanese) by Oriza Hirata / Based on Futari Shizuka, A Noh Play
 (opera in 1 act (1 scene) / sung in English with Japanese surtitles / concert style)
Gustav Mahler (arr. Glen Cortese): Das Lied von der Erde (arr. for voices and chamber orchestra) (1908-09/2006)**