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アンサンブル九条山コンサートVOL. 12 彼岸にて|能登原由美

アンサンブル九条山コンサートVOL. 12 彼岸にて
Ensemble Kujoyama Concert VOL. 12 SUR L’AUTRE RIVE

2021年8月6日 京都府立府民ホール “アルティ”
2021/8/6 Kyoto Prefectural Citizens’ Hall ALTI
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 来田猛/写真提供:アンサンブル九条山

〈出演〉        →foreign language
アンサンブル九条山
  ソプラノ:太田真紀
  クラリネット:上田希
  ヴァイオリン:石上真由子
  チェロ:福富祥子
  打楽器:畑中明香
  ピアノ:森本ゆり

浦田保親(観世流能楽師シテ方)

〈曲目〉
早坂文雄:佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌
     孤独
     漳州橋畔口吟
石井眞木:サーティーン・ドラムス 作品66
早坂文雄:佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌
     嫁ぎゆく人に
     うぐひす
〜〜休憩〜〜
オリヴィエ・メシアン:世の終わりのための四重奏曲
  1.水晶の典礼
  2.世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ
  3.鳥たちの深淵
  4.間奏曲
  5.イエスの永遠性への賛歌
  6.7つのトランペットのための狂乱の踊り
  7.世の終わりを告げる天使のための虹の錯乱
  8.イエスの不滅性への賛歌

 

西洋音楽に日本古来の音を重ね合わせる試みはすっかりお馴染みとなった。もちろん、単なる紹介に終わり何も心に残らないこともままある。けれども、うまい具合になんらかの化学反応を起こしたときは、それが別の作品となって浮かび上がったり、新たな発想へと繋がったりする。また逆に、元の作品に備わる性質や、思わぬ一面が照らし出されることもある。ゲストに能楽のシテ方、浦田保親を招いての本公演は、後者のそれであった。

前半は、早坂文雄、石井眞木と、日本の近代から現代にかけて活躍した2人の日本人によるプログラム。いずれも仕舞との共演。4つの独唱曲からなる早坂の《佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌》が2曲ずつに分けられ、間に石井の《サーティーン・ドラムス》を挟むような形で配置された。

ヴォーカリーズで始まる〈孤独〉。太田真紀による声は、初めは無色透明だが、次第に濃淡が加わり、抑揚が生じ、長短が生まれる。毛筆で書を描くようなリズムがある。続く〈漳州橋畔口吟〉で浦田が袴姿で登場。柔らかく曲線的な舞の動きが、舞台の上空に漂う音の跡と交差する。佐藤春夫によるテクストの言葉の意味は捨象され、音そのものの変容の様が舞によって露わにされる。

石井の《サーティーン・ドラムス》は13の太鼓を使用した独奏曲。トータル・セリエリズムによって統御された各要素が、奏者、畑中明香の打つ手の強弱、緊張の弛緩を介して大小様々な空気の圧力に変換されていく。そのエネルギーの伸縮に突き動かされるかのごとく、舞い手の動きも緩急、動静を繰り返す。2人の演者が相互に引き合い、押し合う様に、厳密に規定された音の並びとその地平が現れていたように思う。

2作ともソロ作品ゆえに最小のアンサンブルだ。それだけに、仕舞による切り詰められた身体の動きが、ミニマルな音の形を際立たせた。一方で、動体としてみればそれらには共通する側面もあり、片方の軌跡がもう片方のそれへと気づかぬうちにこちらの意識を導いていく。この組み合わせだからこそ、成し得たことだったのではないだろうか。

後半はメシアンの《世の終わりのための四重奏曲》。第二次世界大戦中、ナチスの捕虜収容所に収監されていた作曲家が求めた時空を超越した世界。表現の拠りどころとして時間軸が重要となる能の世界観にも通じるところがある。ただし、ここでは何らかの物語が上演されるわけではない。音楽と舞そのもので、どのように互いに作用することができるだろうか。

8つの楽章からなる全曲を通じて、浦田は能装束、女面を付けて3度、舞台で舞った。その最初の登場でいきなり、様式や形式を超えた両者の共振がまざまざと浮かび上がった。クラリネット1本だけで歌われる第3楽章〈鳥たちの深淵〉である。その重役を担った上田希は技術面もさることながら、何よりも間(ま)に対して非常に繊細な感覚を持ち合わせている。その間とは、音の有無のことばかりではない。物理的、数量的な次元を超えるものであり、気配や霊気と言っても良いかもしれない。それが西洋音楽の時間の概念では捉えきれない次元にあることを気づかせてくれたのが、浦田の登場であった。

クラリネットに引き寄せられるように、一人の女が上手から現れる。擦り寄っては立ち止まり、しばし佇む。その様子は、題材は違えど、以前観た能の演目《清経》の〈恋の音取り〉を彷彿とさせた。自害した清経が亡霊となり妻の枕元に現れる場面。生前、笛の名手だった清経の霊がその音(ね)に呼び覚まされ、彼岸からやってくるシーンだ。あの世とこの世の境となる橋掛りの中ほどで、宙を漂う音に対峙する清経の姿は時間を無化するようにも思えた。まさにそれと同じ光景が、いま目の前で繰り広げられていたのだ。

その女の正体は終楽章〈イエスの不滅性への賛歌〉で露わになった。白い上着を被り、鳥の飾りのついた冠を戴いている。石上真由子によるヴァイオリン・ソロが体全体で歌い上げる永遠への賛歌に、歓喜とともに応えるようにその女、いやその「鳥」は舞台全面を大きく優雅に舞う。時間によって支配された我々の世界。それを超越する鳥、神の存在、その無限性と永遠性。作曲者メシアンが希求したものの片鱗に触れたように思う。

最後に、「彼岸にて」と題された公演の意味について。確かに、日本の8月は死者への想いを新たにする月だ。祖霊を迎えて送り出すお盆の行事もあれば、あの不毛な戦争に終止符を打った月でもある。何よりも、この公演の行われた8月6日は、人類史上初めて核兵器が広島の上空で使用された日。とはいえ、それらは舞台の後から見えてくるもので、入り口にしてしまうと逆に本質を見失っていただろう。その点で本公演は前後半ともに、それぞれの芸術様式に徹して迫ったことで、一つの「舞台作品」を作り上げたと言えるのではないだろうか。

(2021/9/15)

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〈players〉
ENSEMBLE KUJOYAMA
 Maki ÔTA (Soprano)
 Nozomi UEDA (Clarinet)
 Mayuko ISHIGAMI (Violin)
 Shoko FUKUTOMI (Cello)
 Asuka HATANAKA (Percussion)
 Yuri MORIMOTO (Piano)

Yasuchika URATA (Shite of Kanze School Noh)

〈pieces〉
Fumio Hayasaka : 4 Songs on Poems by Haruo Sato
        Kodoku
        Shushukyouhankugin
Maki Ishii : Thirteen Drums op. 66
Fumio Hayasaka : 4 Songs on Poems by Haruo Sato
        Totsugiyuku hito ni
        Uguisu
Olivier Messiaen : Quatuor pour la Fin du Temps