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アンサンブル・アンテルコンタンポラン|西村紗知

音楽堂ヘリテージコンサート アンサンブル・アンテルコンタンポラン
Ongakudo Heritage Concert 2021-2022 Vol.3 : Ensemble intercontemporain
2021年8月29日 神奈川県立音楽堂
2021/8/29 Kanagawa Prefectural Music Hall

Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 青柳聡 (Satoshi Aoyagi)/写真提供:公益財団法人神奈川芸術文化財団 神奈川県立音楽堂

<演奏>        →foreign language
アンサンブル・アンテルコンタンポラン
マティアス・ピンチャー[音楽監督・指揮]

<プログラム>
ジェラール・グリゼイ:2つのバスドラムのための「石碑」
アンナ・ソルヴァルズドッティル:Hrím(霜)
ミケル・ウルキーザ:さえずる鳥たちとふりかえるフクロウ
~休憩~
ピエール・ブーレーズ:アンセム 1(無伴奏ヴァイオリンのための)
一柳慧:室内交響曲「タイム・カレント」
ジェルジ・リゲティ:13人の器楽奏者のための室内協奏曲

 

最初、グリゼイ「2つのバスドラムのための「石碑」」を聞いて、あれ、と思った。休憩後のブーレーズ「アンセム 1」を聞いたら、ああやはり、と合点がいった。
「2つのバスドラムのための「石碑」」は、上下に振り分けられた二人の打楽器奏者(サミュエル・ファブル、ジャン=バティスト・ボナール)が、マレット、スティック、素手など場面場面で微妙に異なる方法で互いにバスドラムを鳴らし合う。上手のバスドラムの方が大きく、なにか小さいボールのようなものが紐で括られていて、そのボールが叩く度に膜に細かく弾んで、そのバスドラムは全体として割れた音を発する。
2つのバスドラムの応答は、実験室での出来事のように冷たい。
「アンセム 1」のソリストはジャンヌ=マリー・コンケー。作曲の方法論がそのまま音になる。その方法論は身体や楽器の自然を、押さえつけるようなところがない。
人工と自然がどうしてこれほど調和するのか。

完全性、閉鎖性、無駄の無さ。彼ら(作曲家と演奏者)の理性及び感性は、非合理的なものの顕現を、どこまでも先延ばしにする。非合理的なものは存在しないのではないし、抑圧されているのでもない。その顕現が先延ばしにされている間、その間こそまさに作品の場であり、音楽が存在する場である……。
筆者はグリゼイやブーレーズの、この日のように簡素でストイックな作品について、いまいちピンときていなかった。どういうふうに受け入れればよいのか、ずっとわからないでいた。
この日、やっとその理由がわかった気がした。それは、「美」という観念そのものの圧倒的な違い、日本とフランスとでどちらが優れているだとか、そうした比較などはねつけられるような、断絶にこそが理由があるのだと悟った。
なるほどこれが「美」か、と合点がいったのではない。「美」というものが、彼らと我々ではこれほどまでに違うのだな、というふうにして合点がいったのだ。
しかもそれら2つの文化圏の「美」は、限りなく通分不可能に近く、のみならず、一方の美を美とすれば他方は消えてしまいそうで、両立が限りなく不可能でもある。そう思えて仕方がなかった。

美における断絶は、一柳慧の「タイム・カレント」で露になっていた。冒頭の弦楽合奏も、そこへの金管、木管の合流も、ピアノをきっかけとしたアンサンブルの切り替わりも、どこか生気がない。
そんなはずはない、もっと生き生きとした作品なのに。筆者は聞いている間ずっとそう思っていた。
だが、演奏の失敗だとも思えなかった。別の解釈? 文化の誤解? そんなことでこの違和感を説明してよいのだろうか。

彼らにとっての美は、ひょっとしたら、我々が普段別の名前で呼んでいるもののことかもしれない。では我々にとっての美を、彼らはなんと呼ぶのだろうか。我々にとっての美を、彼らは彼らにとっての美に組み入れてくれるのだろうか。もし、組み入れてくれず「それは美ではない。弱さだ。現状追認的なものだ。ひいては無責任だ」と彼らのうちの誰かが我々の美を批判したとしたら(ひどい!)、どうやって反論すればいいのだろうか。
国が違う、風土・気候が違う、歩んできた歴史が違う……。
差異を主張することは反論にはならない。そうして筆者は茫然自失した。

アンナ・ソルヴァルズドッティルの「Hrím(霜)」とミケル・ウルキーザの「さえずる鳥たちとふりかえるフクロウ」、いずれも日本初演で、自然現象をモティーフにしているところが似ている。
アンナ・ソルヴァルズドッティルの「Hrím」の方では、弦楽器の擦弦、管の息の音、ピアノの内部奏法とが繊細な音響を作り出す。どの音色もエフェクトがかかったようで、それでもどの楽器も厳格にコントロールされているため、不安定なところが一つもない。
ミケル・ウルキーザ「さえずる鳥たちとふりかえるフクロウ」はそれよりもっと音色が増える。グラス・ハープ、バードコール、ハーモニーパイプなど、ユーモラスな打楽器が彩を添えるのだ。フルート、クラリネット、トランペットもまた鳥の役割に徹するのだが、本物の鳥の模倣というより作り物の鳥の模倣のように聞こえる。事実、プログラム・ノートには「タイトルは、紀元前にビザンチンで作られた自動人形の名前からとられている」とある。

美にまつわる断絶は、自然に対する態度の違いに起因するのだろう、と思った。
ソルヴァルズドッティル作品の音響にはほころびがなく、ウルキーザ作品の鳥とフクロウは徹底して人工的である。
ひょっとしたら、彼らの演奏には自然現象・自然物に対する繊細さが欠けている、と批判されることがあるのかもしれない。
(ちなみに、ソルヴァルズドッティルはアイスランド、ウルキーザはスペイン生まれとのことだが、彼らの故郷の人々もまた、この日の演奏を聴いたら違和感を覚えたりするのだろうか。)
でも、ちょっと待ってほしい。我々はすぐに自分たちの自然に対する態度を寿いでしまいがちだ。通俗的によく言われるのは、四季を感じ、自然と共に生きてきた我々日本人には彼ら西洋人にはない繊細な感性があるのだ、と。
文化の差異を感じたとき、妙に引け目を感じるのも、自分たちの方が優れていると主張するのも、どちらも間違っているのだろう。西洋の文化を輸入したとき、我々は、本来であれば、一旦茫然自失となる時期をもっと大切に過ごすべきだったのかもしれない。
筆者は茫然自失した。もし筆者が明治期の人間だったら、その茫然自失から欧米諸国に負けまいと勇ましい気持ちを奮い立たせることもあったのかもしれない。だが、今は令和の時代だ。茫然自失はただの茫然自失である。

ジェルジ・リゲティの「13人の器楽奏者のための室内協奏曲」にはショックを受けた。一柳の「タイム・カレント」と同じほどに冷たい。あのミクロポリフォニーから、かつてあったように生理的な嫌悪感を無条件にかきたてるような、そういう力はもはや失われていた。
そしてまた一柳作品同様、演奏の失敗だとも思えなかった。別の解釈? 美の断絶?
いや違う。はたと気づいた。一柳とリゲティの作品は、セピア色に聞こえる。作品の価値が歴史的なものにすっかり移行している。すでに後継に(ソルヴァルズドッティルとウルキーザに!)乗り越えられた響きとして、それなのに正確な演奏によるものとして――いや、正確な演奏だからこそセピア色なのだ――、我々の前に好々爺然として存在している。
この日のプログラムを通じて、現代音楽史が立ち現れていく。筆者が冷たさとして感じていたものは、演奏者の責任感のことだったのかもしれない。事柄に即して作品を演奏し、音楽史を編む者のプライドが、彼らの美の根底にあるのではないか。

彼らにとっての「美」は、我々にとっての「倫理」のことかもしれない。

作品の経年劣化を正当に導き出すこと、作品にきちんと年を取らせ、擦りきれるまで面倒を見ること。合理主義的なプライド、音楽史を編む責任が、一音一音の隅々まで宿っていた。
アンサンブル・アンテルコンタンポランの仕事を好き嫌いや印象論で語ってはならないだろう。いかに我々は芸術のことを、永遠の青春であると思い込んでいることか。

 

(2021/9/15)

 

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<Artists>
Ensemble intercontemporain
Matthias Pintscher, music director, conductor

<Program>
Gérard GRISEY, Stèle, pour deux grosses caisses
Anna Thorvaldsdottir, Hrím, for ensemble
Mikel Urquiza, Oiseaux gazouillants et hibou qui se retourne, for ensemble
-intermission-
Pierre Boulez, Anthèmes 1, for violin
Toshi Ichiyanagi, Symphony for chamber orchestra “Time Current”
György Ligeti, Concerto de chambre, for thirteen instrumentalists