新作能 長崎の聖母|能登原由美
新作能 長崎の聖母
Contemporary Noh HOLY MOTHER IN NAGASAKI
2021年8月8日 座・高円寺1
2021/8/8 ZA-KOENJI Public Theatre 1
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 宮内勝/写真提供:銕仙会
(制作) →foreign language
作:多田富雄
座・高円寺版 上演台本・演出:清水寛二
ドラマトゥルク:小田幸子
演出協力:佐藤信
(出演)
前シテ 被爆者の女の霊:清水寛二
後シテ 聖母マリアか被爆者の女の霊か:清水寛二
ワキ 津和野からの巡礼者:殿田謙吉
アイ 浦上の修道僧:小笠原由祠
笛:松田弘之
小鼓:飯田清一
大鼓:白坂信行
太鼓:金春惣右衛門
地謡:西村高夫、柴田稔、小早川修、北浪貴裕、谷本健吾、観世淳夫
歌唱:波多野睦美
後見:観世銕之丞、安藤貴康
免疫学者で能作者でもある多田富雄の新作能、『長崎の聖母』が東京で上演された。原爆で壊滅的な被害を受け、「被爆のマリア像」で知られる浦上天主堂を舞台にしたもの。日本の伝統芸能であり、死者と生者、過去と現在を結ぶ能楽の形式に、西洋古来の祈りの響きを取り入れるという斬新さをもつ。果たしてその融合は、この主題に何をもたらすだろうか。
場所は浦上の丘。津和野からやってきた巡礼者(ワキ)が一人の老女(前シテ)に出会う。白いベールを被った彼女は、かつてこの地が火の海になり、多くの乙女が犠牲になったことを、白百合を手に携えながら語る。老女が消えると、一人の修道僧(アイ)がやってきてこの地に起きた惨禍について詳しく語り始める。いよいよ話が原爆投下時の様子に及んだ時、天上から聖歌が聞こえてきた。その祈りの声に導かれるように、美しい装束を纏った女(後シテ)が現れる。廃墟の中から見つけ出されたマリア像を彷彿とさせるように、黒く焼かれた顔をもつ女であった…。
多田によって書かれたこの原作について、もう少し見ておこう。
本作が成立したのは、被爆60年を迎えた2005年。その年に多田は、広島と長崎への原爆投下を題材にした能、『原爆忌』、『長崎の聖母』を書いている。作者によれば、それぞれの主題は2つの街について自らが抱いた印象―広島は鎮魂、長崎は復活―であった(1)。さらに、「深い鎮魂と哀悼の念にとらわれるほかない」広島に対し、長崎については次のようにも記している。
長崎は違うのだ。同じ惨禍に遭ったのに、そこには不思議な希望が感じられた。何か救いがあった。それが信仰というものがもたらしたものではないかと、私は思った。
「復活」「救い」「信仰」。多田は、被爆10年後に初めて浦上天主堂を訪れ、首のない聖人の石像など原爆の生々しい痕跡を目にしている。その後、現地を訪れる度に復興が進んでいくのを目の当たりにし、「復活」や「希望」を感じたとも述べている。戦争と敗戦を実際に体験してきた人間の率直な思いであったに違いない。
とはいえ、その戦後復興の過程すら、すでに過去のものとなった。時の経過とともに記憶は薄れ、後の世代が抱く思いは変わっていく。であれば、たとえ同じ作品であっても時代によってニュアンスが変わってくるのは当然であり、そうあるべきだろう。ましてや、今に繋がる歴史的事件を扱うのであればなおさらだ。プログラム・ノートによれば、今回の上演でも新たな試みが行われている。
長崎の原爆を題材にした能の創作を多田に依頼し、2005年の浦上天主堂での初演から本作のシテを務める能役者の清水寛二。演出も担当してきた彼は、上演の度に少しずつ手を加えてきたという。江戸末期、度重なるキリシタン弾圧によって多くの信者が命を落とした「浦上四番崩れ」の挿入もその一つ。「座・高円寺版」と銘打つ本公演でも取り入れられた。当時、流刑地となった津和野では多くの殉教者が出たというが、その津和野からの巡礼者は、原爆とともにかつての惨劇に我々の視線を導く役割をも担う。殉教と被爆という度重なる災厄に見舞われてきた場所、他の何処でもないこの「浦上」という土地の記憶を想起させるものだ。加えて、今回は松尾あつゆきによる数篇の原爆句も引用された。妻と幼い子らの亡骸を前に、虚脱する作者の姿がまざまざと浮かび上がる哀傷歌である。
だとすれば、果たしてここに「救い」や「希望」はあるのだろうか。新たに付け加えられたこれらのエピソードは、原作者の狙いとは異なる方向性を示しているようにも感じられる。
むしろ、この舞台は終始一貫して「祈り」の場ではなかっただろうか。何よりも、「アヴェ・マリア」による幕開けと「サンクトゥス」による終幕、この舞台で鳴り響いた唯一の西洋の響きであるグレゴリオ聖歌(歌唱は波多野睦美)が始まりと終わりを告げることで、一つの祈りの儀式へと昇華されていたのである。
同時に、それこそがこの信仰の地に眠る死者たちの御霊を慰めるものであり、煉獄の中から彼らを救い出すものであったに違いない。顔に黒い傷跡を残した女が被爆のマリアその人であったのか、あるいは業火に焼かれた人々の化身であったのかはわからない。だが、抑制された声や動きは―能という形式によるところでもあるが―深い悲しみの中にも静けさと安らぎを与えるものであった。何よりも、不意に現れたその女は、西洋の祈りとともに橋掛かりの彼方から現れ、それとともに消えていったのだ。あるいは、彼女が祈りそのものであり、慰霊を司るものであったのかもしれない。
古来より、人々は祈りの思いを形にしてきた。とはいえ、それらは「捧げる」ものであり、「見せる」ものではなかったはずだ。グレゴリオ聖歌にせよ、本来の姿、いやホールで聴く機会の増えた現代であってもそうである。その聖歌を軸にした今日のこの舞台も、死者たちに捧げられたものであり、彼らの御霊を「救う」ためにあったように思われる。それこそが、原作者の言う「救い」と「希望」であるのかもしれない。が、信仰の世界からあまりにも離れたところを生きる今の私には、それについて答えを出すことはまだ敵わない。ただ、その祈りの儀式をまた一つの表現芸術として享受したことも間違いなく、その双方の面を提示できたところにこの作品の強さがあったように思う。
(2021/9/15)
(1)多田富雄 2012 『多田富雄新作能全集』東京:藤原書店 154-155頁
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Written by Tada Tomio
Directed by Shimizu Kanji
Dramaturg : Oda Sachiko
Associate Director : Sato Makoto
〈cast〉
Shite: Shimizu Kanji
Waki: Tonoda Kenkichi
Ai: Ogasawara Tadashi
Flute: Matsuda Hiroyuki
Shoulder drum: Iida Seiichi
Hip drum: Sirasaka Nobuyuki
Stick drum: Komparu Soemon
Jiutai・Koken(Chorus & Stage hand): Kanze Tetsunojo, Nishimura Takao,
Shibata Minoru, Kobayakawa Osamu,
Kitanami Takahiro, Nagayama Keizo,
Tanimoto Kengo, Ando Takayasu, Kanze Atsuo
Choir: Hatano Mutsumi