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円盤の形の音楽|ティッサン=ヴァランタンのモーツァルト|佐藤馨

ティッサン=ヴァランタンのモーツァルト

Text by 佐藤馨(Kaoru Sato)

Testament SBT1401

〈曲目・演奏〉        →foreign language
[1]-[3] モーツァルト/ピアノ協奏曲第23番イ長調 K.488
[4]-[6] ドビュッシー/白と黒で
[7] ドビュッシー/英雄的な子守歌
[8] ドビュッシー/マズルカ
[9]-[11] フォーレ/3つの無言歌 Op.17
[12] フォーレ/マズルカ Op.32

ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン(ピアノ)
[1]-[3] カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク, ベルンハルト・パウムガルトナー(指揮)
[4]-[6] ジャンヌ・マンション=タイス(ピアノ)

〈録音〉
[1]-[3] 1953年, Salle Adyar, Paris
[4]-[8] 1955年, Salle Adyar, Paris
[9]-[12] 1960年(?)

ティッサン=ヴァランタンというピアニストを最初に知ったのは、おそらく6年くらい前になる。音楽研究会器楽部という演奏サークルに所属していた僕は、定期演奏会で弾く曲の録音をぼんやりとYouTubeで漁っていた。自分が弾く曲の演奏を聴き漁るのは、昔からの癖みたいなものである。いろいろな演奏がある中、ふと目に留まったのが、“Germaine Thyssens-Valentin”の名前だった。「ジェルメーヌ」から下をどう読むのか分からなかった。とにかく馴染みのない名前で、それまで何となくスルーしていた気もするから、とりあえず聴いてみることにしたのだ(この頃は煩わしい動画広告もなく快適だった……)。
覚えている限り、これが馴れ初めだと思う。その時は、何やら余人とは違う風格を感じはしたが、のめり込むようなことはなく、一聴してしばらく経ってまた忘れてしまった。もしかするとそれ以前から、フォーレ演奏のスペシャリストとしてティッサン=ヴァランタンの名前が頭の片隅にあった可能性もあるが、もはやそこらの時系列は覚えていない。
その後、再びこのピアニストの演奏に接したのは、たぶんフォーレの夜想曲集だった。当時のサークルの同僚にフォーレ愛好家がいて、彼の影響から、あまり親しみのなかったフォーレも聴いていこうという気概が生まれていた頃だ。そして手に取ったのが、ティッサン=ヴァランタンの録音だったわけである。この時ようやく、決定的に彼女の音楽へ足を踏み入れた。知情の分水嶺を見極め、そのギリギリの境界から手繰り寄せてきたような、稀なピアニズムだと感じた。何かに溺れるようなことはなく、しかし冷めている箇所の微塵もない、彼女のフォーレは格別だった。以来、「フォーレで迷ってるならとりあえずティッサン=ヴァランタンをお聴きなさい」と他人にすすめる程度には、この二者の結びつきは僕の中で特別なものとなっている。
しかしながら、今回僕が話したいのは彼女のフォーレではない。たしかに、そもそもティッサン=ヴァランタンのフォーレ以外を知らない、なんて人も多くいるだろう。それくらいの看板となっているのだ、フォーレは彼女にとって。それを差し置いて、モーツァルトである。彼女のフォーレは畏敬の念をもたらしたが、彼女のモーツァルトは畏怖の念を抱かせた。
ある日、京都三条の十字屋に行き、CD棚をいつものように物色していたら、偶然にある音盤が目に留まった。それはティッサン=ヴァランタンの演奏で、モーツァルトというではないか。この人はフォーレばかりだと思っていたので、この取り合わせは見逃せるわけもなく、一も二もなく買った。そのまま帰宅はせず、近くのとあるカフェに行って、オーナーに「これかけてもらえませんか」と頼んで聴かせてもらったのは、もはや懐かしい。
オーケストラの朗らかな前奏に続いて登場するピアノ独奏、そのおそらく数十秒も聴けば、この演奏の異様さを予感するはずだ。そして第二主題に入れば、予感が確信に変わる。フレーズの終わりへあたかも消えていくような処理、随所で顔を出す本物の弱音、急かさず鈍らず、最も繊細で脆い情感を身に宿したような演奏。個人的な思い入れも交えて言葉を選べば、これはモーツァルトの陰を見つめる演奏だ。
モーツァルトを聴いていると、僕の頭の中には時たま、笑いながら涙を流すアマデウスの像が思い描かれる。彼の音楽は表裏一体、明るさの片隅には陰りが潜んでおり、暗闇の中にも灯火が見える。あるいはそんな二元論じみたことも通り過ぎて、全ての感情が一時に全てあるような気もしてくる(そんなことを言って「モーツァルトは深い」などと神聖化する気は毛頭ない)。モーツァルトの明るい音楽を聴いている時でさえ、たまに泣きたくなる瞬間に見舞われるのはそのせいだろう。少し寂しそうなモーツァルトがこちらを覗いている。
それまで僕が抱いていたピアノ協奏曲第23番のイメージは、その情感の豊かさに華やかさや流麗さがブレンドされた、まさしく王道名曲というものだった。しかしティッサン=ヴァランタンの演奏は、若干落ち着いたテンポで、音が消え入る一歩手前のppを紡ぎ出す繊細さに溢れている。滋味深く、聴く者の心の薄暗い部分に触れる優しさ、あるいは気丈な精神の裏にある寂しさに届く。彼女の繊細さは音自体のみならず、彼女の音楽の作りにも同様で、第2楽章はそうしたデリカシーの結晶だ。ティッサン=ヴァランタンがここで見せる底のない感情の泥沼、それに寄り添うオーケストラも相当なものである。
いろいろ言葉を並べたが、モーツァルトでこんなに寂しく感じたことは滅多にない。胸が締めつけられる。ある種の諦念すら漂わせた鬼気迫るピアニシモは、聴くたびに、音楽の向こうの孤独を感じさせる。それはティッサン=ヴァランタン自身の生涯を知ればなお、心に来るものがある。兎にも角にも、僕にとってこれは恐ろしい録音だ。その恐ろしさに魅入られて久しい。

(2021/8/15)

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佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松出身。京都大学文学部哲学専修卒業。現在は大阪大学大学院文学研究科音楽学研究室に在籍、博士後期課程1年。学部時代はV.ジャンケレヴィッチ、修士ではCh.ケクランを研究。演奏会の企画・運営に多数携わり、プログラムノート執筆の他、アンサンブル企画『関西音楽計画』を主宰。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。
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〈Tracklist〉
[1]-[3] Mozart : Piano Concerto No.23 in A, K.488
[4]-[6] Debussy : En blanc et noir
[7] Debussy : Berceuse héroïque
[8] Debussy : Mazurka
[9]-[11] Faure : Trois Romances sans paroles, Op.17
[12] Faure : Mazurka, Op.32

Germaine Thyssens-Valentin, piano
[1]-[3] Camerata Academica Salzburg, conducted by Bernard Paumgartner
[4]-[6] Jeanne Manchon-Thaïs

〈Recording〉
[1]-[3] 1953, Salle Adyar, Paris
[4]-[8] 1955, Salle Adyar, Paris
[9]-[12] 1960(?)