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小人閑居為不善日記|ネット時代の贖罪について――《ブラック・ウィドウ》《プロミシング・ヤング・ウーマン》《竜とそばかすの姫》|noirse

ネット時代の贖罪について――《ブラック・ウィドウ》《プロミシング・ヤング・ウーマン》《竜とそばかすの姫》
About Redemption in the Internet Age――Black Widow, Promising Young Woman and Belle

Text by noirse

※《ブラック・ウィドウ》、《プロミシング・ヤング・ウーマン》、《竜とそばかすの姫》の結末に触れている箇所があります

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オリンピックが本当に決行されるとは思わなかった。流石に何処かの時点で中止か、せいぜい延期になるものだと軽く見ていたからだ。案の定連日のように問題が生じているようだが、特に印象に残ったのは開会式の楽曲を担当していたミュージシャンの小山田圭吾の退任劇。過去のいじめ発言がネットでクローズアップされ、辞任に追い込まれた件だ。

ここでその可否を問うつもりはない。それよりも気になったのは、小山田を追い詰めたネット上の炎上騒ぎに関してだ。「純粋な」正義感で声を上げた人もいれば、おもしろがって参加した者もいるだろう。けれど中にはいじめられていた過去があり、どうしても許せなかったという人もいるかもしれない。もしくは逆にいじめていた側で、贖罪の気持ちで疑問の声を上げた人も、もしかしたらいるかもしれない。

今回は現在話題になっている新作映画3本、《ブラック・ウィドウ》(2021)と《プロミシング・ヤング・ウーマン》(2020)、《竜とそばかすの姫》(2021)について、ある点に注目しつつ見比べていきたい。

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ブラック・ウィドウ》はマーベルのアメコミ映画、通称マーベル・シネマティック・ユニバースの1本で、ヒーローチーム・アベンジャーズの一員、ナターシャ(ブラック・ウィドウ)の戦いを描いている。

ナターシャはもともとロシアのエージェントだったが離反、スパイ養成組織「レッドルーム」のトップ、ドレイコフ暗殺を試みる。暗殺は成功したと思われていたがドレイコフは生きており、今でも幼い女の子を誘拐まがいの方法で集めては洗脳を施し、暗殺者「ウィドウ」へ育てる計画を続けていた。ナターシャは再度レッドルーム壊滅に挑む。

一見古めかしいソ連時代のスパイ映画の趣だが、《ブラック・ウィドウ》の特徴は「MeToo」時代への返答になっている点にある。ドレイコフの背景には明らかに、セクハラ問題で刑務所に収監された映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン事件の影響が伺える。ドレイコフにワインスタインを重ね、権力を笠に着て女性にハラスメントを行う男たちに鉄槌を下すという見立てになっている訳だ。

傲慢なドレイコフが叩きのめされる姿は痛快だし、エンタテインメントとしては文句なしに楽しめる。だがテーマの詰めには疑問が残る。最大の問題は、ディズニー資本によるせいか、家族というファクターが追加されている点だろう。

ナターシャは子供の頃にオハイオに潜入、短期間だけアメリカ市民を装って暮らしており、その時偽の両親や妹と過ごした思い出が、孤独な彼女の数少ない支えとなっている。今回のレッドルーム襲撃にはオハイオ時代の「偽りの」母親役、父親役、妹役の3人全員が終結し、協力してドレイコフを追い詰めていく。血の繋がりのない偽りの家族だが、それでもナターシャにとってはかけがえのない存在なのだ。

と、耳障りはいいが、女性の権利を称揚する作品に家族の絆を挟み込むのは悪手だろう。長女であることをアイデンティファイさせるのはジェンダーの押し付けだ。しかもそれが疑似家族だけに始末が悪い。家族がないものは家族を作れというメタメッセージだからだ。

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《ブラック・ウィドウ》が取りこぼした点を《プロミシング・ヤング・ウーマン》は確実に拾っていく。主人公のキャシーはかつて医大に進み優秀な成績を収め将来を嘱望されていたが、十年ほど経った今はカフェで働いており、上司や家族も不審に思っている。

それには理由があった。同じく医大に進んだ幼馴染みのニーナが酩酊中に同級生にレイプされ精神を病み、彼女の面倒を見るために中退したという過去があったのだ。ニーナは立ち直れず自殺するが、彼女をレイプした加害者は罰されず、ニーナは忘れられていく。ニーナを忘れることができないキャシーは男たちへの復讐を誓い、夜な夜な盛り場に繰り出し、酩酊するフリをしては、手を出してくる男たちに制裁を課していく。

明らかにトリュフォーの映画版(1968)で有名な《黒衣の花嫁》(1948)を元にしているが、設定を巧みに置き換えることでMeToo時代にふさわしい姿で蘇っている。またキャシーが家族に救済を求めず、異性との恋愛も拒否してニーナとの友情に尽くしていく点も、昨今人気のシスターフッドものとして「エモ」さを獲得している。同じく男への復讐譚であるにも関わらず、家族に「逃げて」しまった《ブラック・ウィドウ》と比べると、この点は徹底している。

しかし課題も残る。キャシーには医学への道が拓けていたにも関わらず、復讐にすべてを投げ打ち、自分の未来を放棄してしまう。それはそれである種「美しい」物語になってはいるが、男たちの犠牲になどならず、すべてを終えた後は自らの道を進んでいく、そうして初めて男への復讐が完成するのではないのか。

今回注目したいのは「贖罪」だ。ナターシャはドレイコフ暗殺に巻き込んでしまった彼の娘に罪の意識を抱いている。また自分が組織を抜け出した後も、レッドルームに縛られ続けているウィドウたちにも後ろめたさを感じている。キャシーも、ニーナが事件に遭った夜、側にいて守れなかったことで自責の念に駆られている。

けれどこの二作、それ以上は贖罪というテーマに踏み込んではいかない。ドレイコフの娘はあっけないほど簡単にナターシャを赦し、ウィドウたちも無事解放される。キャシーは復讐に殉じることで、罪の意識という問題を放り投げてしまっている。

そこで《時をかける少女》(2006)や《おおかみこどもの雨と雪》(2012)を手掛けたアニメーション監督、細田守の最新作に移りたい。《サマーウォーズ》(2009)以来再びネットの世界に挑んだ《竜とそばかすの姫》だ。

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50億人以上のユーザーが集うネット上の巨大仮想世界「U」で最大級の注目を集める謎の歌姫「ベル」。その正体は高知県の田舎町に住む女子高生、すずだった。もともと歌が好きな子供だったが、大好きだった母親が見知らぬ女の子を助けるため濁流に呑まれてしまう。

死の危険を冒してまで他人を助けに行った母の行為を受け入れられないすずは、以後人前で歌うことができなくなってしまった。すずが「ベル」というアバターを纏うことで歌声を取り戻せたのは、「U」は人間の潜在的な力を引き出すことができるからだ。

「U」ですずは正体不明の「竜」と出会う。乱暴で協調性のない「竜」は嫌われ者だが、すずは「竜」が何かに悩み、苦しんでいると見抜く。「竜」の正体は家族に問題を抱えた人物だった。すずは「竜」に手を差し伸べ、まるで母親のように優しく受け止めていく。

すずを縛り付けていたのは、少しでも母親を疑ってしまった自分自身なのだろう。竜を助けたことですずは自分が優しかった母親の子供であることを受け入れ、母親への罪の意識から解放され、自己回復を果たしていく。

《竜そば》が興味深いのはこの点だ。自分の中の「母」を発見することで救済されたすずは、疑似家族の中に居場所を見つけたナターシャと似ている。だが異なる点もある。ナターシャやキャシーには自分たちを苦しめた確固とした対象があり、それを実際に打ち倒すことが贖罪の条件となっている。

しかしすずの場合は違う。彼女がうしろめたく感じているのは死んでしまった母親への思いだ。死んだものと直接和解することはできない。竜の救済はその代替行為だ。そしてその贖罪は、ネット上で進んでいく。ネットで軽く知った程度の他人を救おうというのは、普通に考えれば独りよがりな行為だ。だが見方によっては、ネットの性質をうまく突いたとも言える。

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ツイッターを眺めていると、政府や政治に対する批判や問題提起のツイートが拡散されているのを多く目にする。リツイートするだけで何かの役に立てるならば、こんなに簡単なことはないだろう。

多くの人は、誰かに対してうしろめたい気持ちや罪の心を持ちながら、解消する術を持たずやり過ごして生きているはずだ。けれどSNSなら、簡単な気持ちで、あるいは機械的に、ツイートを拡散するだけで多少なりとも善行を働いた気持ちになり、幾分かうしろめたさが解消される。便利なものだ。

しかしほんのささいな贖罪行為も、大きなうねりとなれば誰かの一生を左右することだってある。開会式の退任劇もそうかもしれない。使い古された言葉だが、「地獄への道は善意で舗装されている」。そしてそれはネット上で、いとも簡単に行われていく。

贖罪とは結局本人の心の問題だ。キャシーが一夜限りの楽しみを求める男たちに処罰を与えていたのは、ニーナに暴行を働いた男が国内におらず、代理としていたに過ぎない。すずが「竜」に対して行った行為は運よく「竜」にとっても悪い話でなかっただけで、贖罪の代理だったという点で、本質的にすずとキャシーの行為に変わりはない。

そうしたすずの贖罪行為をブーストさせたのはネットの力だろう。「U」は人間の潜在的な力を引き出すことができるが、それは使う者を思わず暴走させてしまうネットやSNSのメタファーにもなっている。

簡単に正義の衣を纏えるネットやSNSは、贖罪のネタがゴロゴロ転がっている「狩場」だ。わたしたちは毎日スマートフォンを覗き込んでは、罪を贖うことのできる何かを探しているのかもしれない。完成度の高い《ブラック・ウィドウ》や《プロミシング・ヤング・ウーマン》と比べ、《竜とそばかすの姫》は欠点を抱えているかもしれないが、そうしたゾッとするような恐ろしさを隠している作品でもある。

(2021/8/15)

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noirse
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