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カデンツァ|松村禎三交響作品展で|丘山万里子

松村禎三交響作品展で
Exhibition “ MATSUMURA Teizo’s Symphonic works ”

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 澁谷 学/写真提供:芥川也寸志メモリアルオーケストラ・ニッポニカ

オーケストラ・ニッポニカの松村禎三交響作品展で『ピアノ協奏曲第1番』(1973)、『ゲッセマネの夜に』(2002/2005)、『交響曲第1番』(1965)を聴き、考えること多々だった(7.18/指揮:野平一郎、pf渡邊康雄)。
私は最初の評論集に松村禎三論《奔出する“一”》(1990)(1)を書き下ろしたが、扱ったのは初期作から『チェロ協奏曲』(1984)まで。いずれ続編を、のつもりだったが、オペラ『沈黙』(1993/1995)で立ち止まり、『ゲッセマネの夜に』に至って一旦おいた。
アジアを標榜していた彼がキリスト者になった、それをうまく噛み砕けず、遠ざかったのだ。頭の隅に置いたまま16年になる。

今回、改めて『ピアノ協奏曲第1番』を聴き、これが松村だ、と思った。渡邊康雄の響きがとても美しく、私は時折、シベリウスのピアノ小品みたいだ(音色の透明な移ろいの美しさも含め)と北欧の自然を煙るように思い浮かべ、アジア辺境から西欧辺境へと流れる静かな一筋の水脈すら感じた自分に驚いた(渡邊にフィンランドの血が混じるにしても)。常にどこかで響き続ける cisがその水脈の想念をいっそう強めた。
もう一つ、ピアノとオーケストラが影と日向を目配せしつつ互いに引き下がる(せり出してくるのでなく)息遣い・所作の独特に松村の『霰』(1969/水上勉舞台作品音楽)に水上が「波の上を渡ってくる梵鐘のような」(2)と望み、出来上がった音楽を聞いて「やっぱり京都やなあ」とつぶやいた、それと似て「やっぱり松村だなあ」と、そう思ったのだ。
終盤に現れる御詠歌の音階は水上との出会いがなければ「絶対やれなかった」(3)ことで、水上が示した「他力本願」世界に松村の新たな方向性を私は見ていたが、やがて彼は足先を変えた。

『ゲッセマネの夜に』は、再演(2005)を聴いている。その時は、『沈黙』以来くすぶってきた問い、「なぜ、神?」が更に胸に広がるばかりだった。ユダの接吻?かつて訪れたパドヴァの小さなスクロヴェーニ礼拝堂の鮮やかな青の天蓋ときらめく星々の下、ジョットの壁画に見るそのシーンは、確かに何事かを私に語ったが、松村がその絵のコピーに向き合って書いたこの曲、「二人が対(むか)い合っている部分を拡大したものであるが、イエスもユダもすばらしい顔をしている。イエスのまなざしはユダを突き刺し、通りこして永遠の彼方に人間の悲しい営みを見とおしているように思える。この透徹さにあやかりたいという思いがこの曲を書くためのエネルギーになった。」 (4)が、私に響いてくることはなかった。『沈黙』で彼は「神の気配を感じる」といったが、気配が信仰という確かな形になったその道のり(彼がいつキリスト者になったのか、はっきりは知らない)、あるいは告白を、どう聴いたら良いのかわからなかった。
だが、時を経ての再会に見えたのは全く別の世界だった。私はタイトル、彼の言葉や個人的な事柄に引きずられ、聴くべきものが聴こえていなかったのではないか。
弱奏からそっと身を起こす旋律線、音のうねりに湛えられたわずかな哀の色、膨らんでいったその先に訪れる小さな沈黙。打の連打とともに重く吹き鳴らされる管、あるいは不意に浮かぶ小さな歌、それらがゆっくりと長大な帯のように撚り綯われ、織りなされるテクスチュアの繊細と大注連縄のごとき強靭さ。そうしてどすんどすんと、重い足取りで坂を登って行く管弦打の果てに釣鐘のような響きがそれと同じ間合いで連打される....。
最後の晩餐を終えたイエスがオリーブ山の麓、ゲッセマネの園で苦悶の祈りを捧げる姿。眠りこける弟子たち。「見よ、私を売る者が近づいてきた」。ユダの裏切りの接吻と捕縛。ゲッセマネにあって、イエスは「この盃が私の前を通り過ぎるように」と願いつつ「御心のままに」と受け入れるそのシーン。

私には、どすんどすん、がイエスの苦悶の鼓動にも足取りにも、あるいはユダの唇の震えにも彼が導いた捕縛隊の足音にも、そして打ち鳴らされる鐘音のごとき連打音もまた、それと重なるその場の人々全て、神の子イエスとしてかたどられたこのひととそれを囲むこの時代の愛と憎悪、信と疑に裂かれた一人ひとり、個々の心搏にも思え、同時に『沈黙』以降の松村自身の心搏にも思え、烈しく胸を突かれたのだ。
その心搏の繊細と強靭、そして何より一つ一つ長く大きい一呼気の持続は、初期から一貫して揺らぐことなく、他の誰でもない、彼が生涯を通して得た、深く重く、松村その人の息そのものと思えた。
これは、ただイエスという名と聖書に場を借りた、松村の最終境地に近いものだったのではないか。
『沈黙』で遠藤周作は「踏むがいい」とイエスに言わせたが、松村は気配だけ、を置いた。だが『ゲッセマネの夜に』に彼が刻んだのは、ただただ人間というものの抱える「悲」、あるいは悲の器としての人間の姿であったのではないか。それは神の在、不在などの問いをはるかに超える彼の一つの了解だったのではないか。

後半の『交響曲第1番』。
初演時、芸大出たての八村義夫が「だれもがすごい曲だったと言った。——一口に言えば血沸き肉躍る音楽だ。そして幸福になった。——松村さんの音には、モンゴロイド的な体臭、執念が感じられる、私はチベットのラマ教音楽が、松村さんのイメージとかなり近いところにあると思っている」(5) と衝撃を受けた、その曲。
初演時のプログラム、あまりに有名なこの一節をここでも引く。
「——私を一貫して支えてきたものは、アジア的な発想を持った、生命の根源に直結したエネルギーのある曲を書きたい、ということであった。——いつの頃からか、もっと混沌とした巨大な音の堆積のようなものが漠然と私のイメージの中に棲みついていた。」
アジアの仏教、ヒンズー教などの石仏群の度肝を抜くスケールの“群”の写真に、彼は「小さい生命をもった無数のイナゴの大群が“群”として一つの大きい生命力をもち大地を席巻していくような圧倒的な在り方」 (6)を見出し、それをオーケストラに表現したいと考えた。
まさに無数の小さな生命体がひしめき合うようなpppの冒頭から低弦の野太い持続、レントを経て打のリトモ・オスティナートが刻み出すアレグロ、それが積み上がってゆく壮大。第2楽章でのハープは、人魂の燐光が揺れるようであり、第3楽章無窮動音型の増殖と噴き上がる地熱の放出の果て、ピュウ・モッソの沈静からチューブラー・ベルが瞬き、その消えゆく先にトゥッティの一撃が落ちる。
端山貢明との対談《精神のふるさとを求める》(『音楽芸術』1970/2)で彼は、こう語る。
「インドのカジラーホ、エローラや敦煌、アンコールワットなどに咲きつづけてきた文化の系譜こそ、ぼくが本当に求め続けてきた大きな眠れる主流であるという気がしました。」(7)

アジアの大きな眠れる主流から2つの『ピアノ協奏曲』を経て、『沈黙』『ゲッセマネの夜に』まで。
京都の大店、呉服問屋に生まれ、熱心な日蓮宗信徒だった父(松村10歳時に死去)の傍らで幼少から法華経寿量品の偈を諳んじていた彼が、母の死とともに読経と線香の流れる因循陰気な京都から上京したものの結核での療養生活、アジアの石窟寺院群に衝撃を受け、その大地に直結する生命エネルギーに己の依って立つ大河を直感、水上との出会いから再び故郷の影を追いはじめ...そのままアジア、そこから日本を音響化する道を、彼は選ばなかった。ある時点から、自分の中での「アジア」が観念的固執となり、リアリティを失っているのではないか、という懐疑と危惧を抱き始めたようだ。
前述の個人的事柄、というのは、遠山一行、遠藤周作が中心となったキリスト教芸術センター(通称原宿サロン/1981)の人々と松村の出会いであり、そこからキリスト教へと大きく傾斜していった、その姿を私が遠目に知っている、そのことだ。
原宿サロンに集う多彩な文化人がビールとサンドウィッチで囲むテーブルの端っこに、年若い私もときおりひそかに混りこみ、そこでしか見せない宗教・芸術・科学の名士たちの立ち居振る舞いを瞥見した。この貴重な時空間については、いずれまとめて書くこともあろうが、ともかく、遠藤の『海と毒薬』(1986)『深い河』(1995)など映画音楽担当も含め、サロンの豪華人脈の中で松村に決定的な影響を与えたのは井上洋治神父であった。遠藤とはフランス留学の同期、その精神的支柱となった人だ。70~80年代、東西宗教の相互理解の機運の中で、井上神父はキリスト教の日本化(汎在神論)を説いた。松村がオペラの材として知人に勧められ『沈黙』を手にしたのは72年くらいだが、彼がサロンに呼ばれて話をした頃は既にこうした理解は念頭にあったはず。キリスト者でない自分に「神」は描けない、といったん断念した、そこに降りてきた「糸」がサロンであり、この神父だ。ここでの繋がりが、彼をキリスト者へ導いたと私は思っている。できあがった『沈黙』を周囲に見せた時、「最後が違う」と指摘したのも井上神父。穏やかで、人をくるみ込む温かな気質と慧眼を備えた人望篤き神父であった。
そうした一部始終を私はたびたび耳にし、目にし続けた。アッシジ、ローマ、バチカンなどの巡訪(1989)ののちの『沈黙』初演、松村は神の気配から、やがて入信に至る。
「なぜ?」の問いを追う気持ちは、『ゲッセマネの夜に』を聴く前から萎えていたのだ。

訃報(2007)にお悔やみに伺ったところ、ご自宅祭壇前の骨箱に十字架が彫られており、虚をつかれた。夫人に尋ねたら「彼はすべての宗教に入信したかったのよ」と笑った(『沈黙』の台本作家で、豪快な方だった)。それで、もやもやが消えたわけではなかったから、手つかずのままここまで来たが、この夜の3作に初めて、「そういうことか」という了解が降りてきた。
例えば三善晃は『遠い帆』(1999)終景に「あんめんぜんす さんたまりあ」と「ひとつとや」の数え歌を童声合唱で並置した。キリスト者になった支倉常長の抱える「よるべなさ」こそがここでの三善の一つの了解で、彼は東西宗教のどちらの岸辺にも身を寄せなかった。
西欧にいくらかでも時を過ごせば、その文化の基底が「教会」にあることから目を背けることはできない。そこから生まれた西洋音楽(神をいただく海の向こうの)に出会い、惹かれ、手にとる、我がものとする、引き受ける、そういう向き合い方をした作曲世代の、それぞれの姿。
さらに、多感な少年期、敗戦の焦土を経験した彼らそれぞれの、時代の引き受け方。
「ここ」と「この時」に生きることを定められた彼らは、何をその音に残していったのか。
療養の日々、窓の外の松の梢を「どっちへ転ぶやろうな」とスゥーッと見ていた松村にせよ、中期以降、戦時を書き続けた三善にせよ、つまるところ「生と死」の凝視は宗教を回避させずにおかず、それは当然、「ここ」「この時」を超える。
そのように、真正の創作とは、常に新たに何事かを私たちに投げかけるのだ….。

註)
(1)『鬩ぎあうもの超えゆくもの』 深夜叢書社1990
このタイトルは、松村氏との電話中に氏が口にした言葉。それ、タイトルにいただきます、と私は言い、許された。
(2)『水上勉全集』月報1978年7月 中央公論社、松村禎三「ひびきとうたと」
(3)サントリー音楽賞コンサート1979年プログラムノート、対談より
(4)『松村禎三 作曲家の言葉』アプサラス編 春秋社2012 121p
(5)『音楽芸術』1970年2月号「松村禎三小論」/音楽之友社より抜粋
(6) 日本フィルハーモニー交響楽団102回定期演奏会プログラム記載
(7)『音楽芸術』1970年2月号 対談「精神のふるさとを求める」松村禎三+端山貢明

 (2021/8/15)

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「松村禎三交響作品展」
2021年7月18日 紀尾井ホール
<演奏>
オーケストラ・ニッポニカ
指揮:野平一郎
pf:渡邊康雄

<曲目>
『ピアノ協奏曲第1番』『ゲッセマネの夜に』『交響曲第1番』