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クセナキスと日本|秋元陽平

クセナキスと日本
Xenakis et le Japon

2021年6月5日 めぐろパーシモンホール
2021/6/5 Meguro Persimmon Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by 山口敦/写真提供:特定非営利活動法人 芸術文化ワークス

<曲目・出演>        →foreign language
(小ホール公演)
クセナキス:
『ピアノのための6つの歌』(1951)
  高橋アキ(ピアノ)
『エヴリアリ』(1973)
  高橋アキ(ピアノ)
『エンベリ』 (1981)
  般若佳子(ヴィオラ)
『入陽』(1985)
  木村麻耶(箏)/LEO(箏)/本條秀慈郎(三絃)/長谷川将山(尺八)
(大ホール)
『ルボンと舞』(Rebons a.b.)
  加藤訓子(打楽器)+中所宜夫(能楽師・観世流シテ方/能舞)
『18人のプレイアデス』
  打楽器:悪原至・東廉悟・伊藤すみれ・齋藤綾乃・佐藤直斗・篠崎陽子
  高口かれん・谷本麻実・戸崎可梨・富田真以子・中野志保・新野将之
  藤本亮平・古屋千尋・細野幸一・眞鍋華子・三神絵里子・横内奏
  指揮:加藤訓子

 

クセナキスの一部の作品に顕著な特徴として、いかなる変拍子、ポリリズム、テンポの変動のただなかでも、パーツごとに異なった肌理のグリッドを張り巡らしたような、異質なものがきわめて均質に並んでいるような、ある種のパルスを感じる聴覚体験がある。『エヴリアリ』(1973)のようにそれが比較的明確な場合もあり、あるいはそれが形式上さほど明確でない場合であっても、今回演奏されたレパートリーに限って言えば、表面上の変化がどれほど激しくとも、体験としての持続は総じて驚くほど均質な印象を与える。この点、高橋アキの演奏には、ある種のノリを生み出しかねないこの均質性を、既聴感のある他のいかなる民俗的な、あるいは単に「バルバロ」なものに回収することなく、一音一音に後付けのグルーピングを施すこともないという安心感がある。パルスに不必要に「ノッて」しまうことが決してない、これは不可欠な美質である。また、「クセナキス以前」の初期作品である6つの歌へピアニストが注ぐ丹念な愛情にはとくに感銘を受けた。いつ始まっていつ終わるというフレーズの意識が定かではないが、何か鷹揚な意識だけがのびやかに広がっていく、人格化されない歌の世界もまた、高橋による、押しつけず、引き出そうという配慮、慈しみによって明らかになったように思う。

それにしても、般若佳子による『エンベリ』の凄みのある演奏はこの公演の中でも特筆に値するものだった。この種のクセナキスの音楽は、「個人の表出」にも「コズミックな秩序」にも完全には属さない一方でそのどちらの次元にもかかわっているが、それはつまり祭祀的なものと言ってもいいかもしれない。司祭は神的秩序の代行者として振る舞うが、この司祭はただの匿名の媒体ではなく、超越性を扱うキャパシティを表出するからこそ、しきたりを我こそが取り仕切るということを共同体に了承させることができる。般若による演奏はだから、ただ「何かがのりうつったように」弾くのではなく、大らかな秩序を代行するものの威厳を感じさせるのだ。『入陽』では、先述のクセナキス的グリッド感と、邦楽器のタイムスケールが衝突することによって、実に奇妙な架空の風景——もはやジャポニズムに寄っていかない清々しさがある——が作り出されるところが面白く、演奏者の気迫、技量、互いの時間の流れを調整し、交錯させるアンサンブルとしての緊張感すべてが揃い充実した聴覚体験であった。

では大ホールの『ルボン』はどうか?加藤訓子によるパーカッション演奏はまず圧倒的な説得力に満ちていた。上述の均質な時間の流れが特にはっきりと感じられる(それはrebond(跳ね返り)という現象に範をとっているのだからある意味では当たり前なのだが)という特質が最大限に全面に出てくるこの作品は、ややもすると単調だが、それによってむしろ音色の変化が多様に聴き取られる魅力がある。正直なところ私はプログラムや冒頭トークの「所信表明」に、どこか楽屋で言うべきことがそのまま外に持ち出されたようで少し鼻白む思いがあったのだが、この演奏には、音楽家が音楽で語るときの有無を言わさぬ迫力があった。だが、この際だったグリッド感と、そうしたものと無縁な能楽の舞が組み合わせられるコンテクストとは何なのか? 衝突するものの組み合わせが悪いわけではないが、しかし二つの文化的衝突を舞台に上げるのであれば、少なくともその衝突を試みた人間の顔が、意図が、魂が見えなくてはならない。『入陽』ではまさに衝突と「ずれ」が聴きものだったが、『ルボン』では見事な演奏と、美しい舞が並列の関係にただ置かれているのを憾みに思った。驥尾を飾る『プレイアデス』については、時間のグリッドの中できわめて多様な音色の体験に向けて耳が拓かれていく過程を体感することができるのだが、この大団円(だがクセナキスで大団円とはあまりそぐわない言葉だが、演奏家による所信表明を読むと、大団円というほかない)は、たしかにそうした消化不良を吹き飛ばすようなものであり、リモートの時代に直接的な身体性を叩き込まれるような快感がある。


ところで、クセナキスは、伝統のイデオロギーから音楽を解放し、新しい音楽を無からEx nihilo作り出すと大見得を切ったが、まったく同時に、ストカスティックな宇宙観の元ネタのひとつとして彼自身が名指している紀元前ローマの詩人ルクレツィウスの『物の本質について De rerum natura』を読めば、世界の成り立ちをめぐってこれだけは押さえておくべきとされる「大原則」のひとつが「なにものも無からex nihiloは生まれない」というものであることは明らかだ。エピクロスは、超自然的な力を持ち出す既存の自然宗教に対して、既存の粒子の組み合わせによって説明しようとした。つまり、無からの創造を強弁することは、それを組み合わせ(モノとモノの「出会い」)によって生み出した歴史的・現実的コンテクストを隠蔽することになる、と告発したわけである。クセナキスはもちろん、無からの創造を掲げつつエピクロスを引くとき、この矛盾を充分意識していた。この演奏会もまた、虚無から生まれたのではなく、こうした意識を持った作曲家と、それにかかわった演奏家の「出会い」によってあるいは西洋音楽と日本の出会いによって生み出されたものであるし、能楽と西洋音楽にしても、それが出会うに至る歴史的経緯が存在する。そういったさまざまなコンテクストやいきさつが何らかの形でもう少しキュレーションされると、より演奏会に統一感が生まれたように思う。この演奏会がコロナワクチンの接種会場と同じ建物内で行われたということもまた、書き記しておくべきだろう。はじめ会場に到着したときには、老人たちが列をなしていることに驚いたが、空前のクセナキス・ブームが来たというわけではなかったようだ。ワクチンと同様、このような良い演奏会は、いくらか上記のような「副反応」も伴いつつ、終わってから2〜3週間後にじわじわと良さも思い出され、しっかり効いてくる。いずれにせよ、日本のクセナキス演奏界の層の厚さ、熱意をひしと感じたので、二度目、三度目の「接種」機会が待望される。

関連評:クセナキスと日本|齋藤俊夫

(2021/7/15)

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<Program>
Xenakis : Six Chansons pour piano (1951)
Evryali for piano (1973)
Embellie for viola (1981)
Nyuyo for shakuhachi, sangen and 2 koto (1985)
Rebons a.b
Pléïades for 18 percussionists