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円盤の形の音楽|ゴールドベルク変奏曲 |佐藤馨

ゴールドベルク変奏曲
The Goldberg Variations

Text by 佐藤馨(Kaoru Sato)

〈曲目・演奏〉        →foreign language
[1]-[32] J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲 BWV988

グレン・グールド(ピアノ)

〈録音〉
1981年4月~5月、30丁目スタジオ、ニューヨーク

数年前、知り合いに言われた。
「その音楽が好きなのか、弾いている演奏家が好きなのか、分かっておくべきだ」
事ある毎に思い出す、自分が何に心惹かれているのか自覚するきっかけとなった言葉だ。
私は演奏家が好きだ。さまざまな演奏や録音と接するにつれ、その思いはどんどん強くなる。だからといって、音楽は何でもいいという訳ではない。曲の好き嫌いはもちろんあって、いくらお気に入りの演奏家が弾こうと、嫌いな曲が好きに転じることは滅多にない。しかしこうした好みも時と共に変化するのだから、人の嗜好は気まぐれだ。
だが、曲の評価が演奏に左右されるのは、誰しも経験があるだろう。数ある逸話にも、「初演では酷評を受けたが、後の決定的演奏により名声を得た」などは珍しくないし、演奏一つで作品の運命が決まるといっても過言ではない。同曲異演のギャンブル的醍醐味である。
中学生の頃、ある演奏会に行った。メインは《ゴールドベルク変奏曲》。ちょうど、グールドの81年盤に心酔していたため、生でこれを聴けるのは幸いと楽しみにしていた。ところがいざ始まってみると、それはまるで芯のない腑抜けた演奏で、リズムもよく掴めないし、音も浮ついておぼつかない。今思えばあれも軽妙洒脱の範疇だったかもしれないが、グールドの強靭な打鍵が染みついた当時の私に、そんなものは1mmの価値もなかった。
しかし、もしもこの演奏会が初めてのゴールドベルク体験だったら、この曲の見方は全く違っていたのではないか。今ある愛情に比べると、もっと冷めた距離感でしかこの曲を見られなくなっていたのでは。そう考えると、自分にとって大事な位置を占めている音楽は、大抵その曲の個人的な名演と結び付いているように思われる。自分の中にある名演リストをたどると、自分自身が音楽をどのように見ているか、何を求めているかに結びついている。私の思いから消ええぬ音盤の数々、それらを見つめるのは、その向こうの自分を見つめるようなものだろう。
《ゴールドベルク変奏曲》、私はグレン・グールドの1981年録音で初めて耳にした。当時の私はクラオタ黎明期で、まだグールドの存在と評判を知って間もなく、ゴールドベルクについても長い曲としか認識していなかった。グールド沼に踏み込んだ以上、ほぼ義務感からこの大曲に向かい、どの盤から聴くかというのも、たまたま地元の図書館に81年盤しかなかったからこれを選んだだけであった。
それ以前、彼のイタリア協奏曲の演奏で私は度肝を抜かれていた。疾風の第3楽章プレストには完全に脳天をかち割られた。習い事のピアノに嫌気がさしていた私には、グールドはクラシック音楽のあらゆる既成概念をぶち破るヒーローに見えた。彼にはその時点で、エキサイティングで自由なアウトサイダーというイメージを強く抱いていたが、もしゴールドベルクを55年盤から聴き始めていたら、そのグールド像がより強化されていたに違いない。やはりグールドはこうでなくては、と。つまり、この音楽家の奥行きに触れないまま、自分の中のエキサイティングな像を助長させてしまっていたかもしれない。
だからこそ、このアリアに魂を取られたのだ。そこにいるグールドは、それまで見ていたのとは別のグールドだった。音楽の一瞬一瞬を永遠に繋ぎ止めようとしているかのような、繊細で耽美で、静かな指。俗物では届かない清らかさと、そして何か、魂に関わるような執念があった。アリアばかりずっと聴いて、何度かして、ようやく先の変奏まで聴き進められた。初めて全曲を聴き終えた時、果たしてどんな心持ちだったか、今となっては失われてしまった感情かもしれない。
それから数か月は飽きずに聴き続けた。気味悪いくらい波長が合ったのだ。人生や輪廻や生死、大仰な単語ばかり連想されて、50分強を聴き終えるごとに満ち足りた感情と、切なさと欠乏がぐちゃぐちゃになって襲ってきた。そうしてまた逃げるように聴き始めてしまう。……要するに、「中二病」の感傷を甚くくすぐったわけだ。多感で崩れやすく、自己中で厭世的だった当時の私にとって、この演奏は等身大の代弁者のように感じられた。アリアの静けさに始まり、同じ主題の上に移ろいゆくドラマ、そして幾多の声が重なる大団円の後に、最初のアリアが戻る、生と死の同じ静寂に挟まれたドラマ。ここには人生の歓喜も悲哀も全て詰まっていて、他のどこにもないリアルがあるように思えた。子どもにも大人にもなりきれない、思春期の半端者が分かったような顔で人生を妄想し、思い悩むにはうってつけの、かけがえのない音楽だったということだ。今にして思えば、青春の片棒を担がせたのがこの81年盤でよかった。
あれから十年以上も経つ。もうあの頃のような瑞々しい聴き方はできないが、いまだに魂は取られたままのように思う。今でもこのアリアを聴くと魂が融けていくような心地だ。この分ではきっとこの先も、人生を共にするのだろう。

(2021/7/15)

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佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松出身。京都大学文学部哲学専修卒業。現在は大阪大学大学院文学研究科音楽学研究室に在籍、博士前期課程2年。学部時代はV.ジャンケレヴィッチ、修士ではCh.ケクランを研究。演奏会の企画・運営に多数携わり、プログラムノート執筆の他、アンサンブル企画『関西音楽計画』を主宰。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。
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〈Tracklist〉
[1]-[32] J. S. Bach : The Goldberg Variations

Glenn Gould, piano

Recording : April-May, 1981, 30th Street Studio, New York City