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ルネサンスと鳩時計——東京人から見たスイス|終章 子どもの領分|秋元陽平

終章 子どもの領分. Final chapter : Children’s corner
Text and Photo by 秋元陽平(Yohei Akimoto)

わたしがこのスイス紀行文を書き始めたのは滞在者の身分においてである。疫病禍から帰国を余儀なくされて久しく、日本にいながらこのエッセイを書き続けることにもいささかの白々しさを感じつつある。スイス滞在も足かけ4年以上だったから、書こうと思えばいくらでも書き連ねることができるが、もう潮時だろう。博士論文の完成という課題が残っている以上、遠からずまた彼の地に舞い戻らなければならないのだが、ともあれこれは一区切りなのだから。まず思い出せることを、いまのうちにつらつらと順不同で思い出しておこう。

ジュネーヴでは足しげくオペラ座や劇場、コンサートホールに足を運んだが、印象に残っているのは、やはりわたし自身の渡欧と時を同じくして東京交響楽団とスイス・ロマンド管弦楽団を掛け持ちするようになった指揮者ジョナサン・ノットのことだ。渡航前に彼について覚えていたことは、細部をじっくりと観察し、誇張なく精緻にピックアップすることによって、第三楽章にほとんどラッヘンマンのような前衛的な響きを聴かせたベートーヴェン『交響曲第五番』や、リゲティとヘンリー・パーセルを同プログラム内で聴かせ、パーセルの奇妙な音運びに対する「耳」を聴衆に瞬時に植え付けるような趣向であった。さて、スイス・ロマンドにおいて印象に残ったのは、マーラーの6番をひとつの驚くべき持続のなかで描ききろうという意欲であった。指揮者によっては、マーラーの音楽は容易に情報過多になりうる。しばしばトラウマ的な聴覚的想起の連続によって覆い尽くされ、聴く者の時間体験が記憶のカットアップでずたずたに引き裂かれてしまうのだ。それはそれで面白いが、ノットはもっと大きな流れを意識して操縦することによって、同じテーマのパロディ的な登場やスローモーションといったさまざまなモチーフの「変貌」をまざまざと体験させてくれる。彼の注意深さは、瞬間の充溢だけでなく、全体の構造を見せてくれる。それは、ロマン主義音楽でも現代音楽でも変わらない。

オペラはといえば、ジュネーヴの数少ない娯楽はおそらくオペラ座通いだが、あいにく建て替え工事で滞在中の大部分はナシオン駅付近の仮設舞台となってしまった。だが復帰後のワーグナー『ニーベルングの指環』詣では、バイロイトでも輝いたというペトラ・ラングの、後半にいけばいくほど復讐の力で輝く絶唱によって素晴らしい体験となった(前半は気球まで上がったのに、予算が尽きたのか演出が段々と簡素化されてしまったのはやや残念だったが)。スペイン古楽の雄、ガルシア・アラルコンとカペラ・メディテラネアによる——しかしスペイン古楽ではなく——パーセルの『アーサー王』も、輝かしい思い出だ。アラルコン本人が開演前にロビーでピアノを鳴らして、彼の和声の斬新さについて熱弁を振るっていた。レッド・ホット・チリ・ペッパーズと溺死するオフィーリアがまぜこぜになったような世界観の演出と、古楽オーケストラのクリアカットな演奏がしっかりマッチしており、パーセルのポテンシャルを再確認することができた。また、作品として好みでこそないが、スイス気鋭の舞台演出集団フィンジ・パスカ(Finzi Pasca)による『浜辺のアインシュタイン』にはやはり触れておきたい。ワイヤーアクション、水槽で泳ぐ人魚、本物の馬、プロジェクションマッピングを総動員したこの舞台では、すべての動線が設計され、色彩に落ちる影まで完璧に計算された、ラボラトリーの狭いチーム意識に培われた日本的テクノロジー礼賛に留まらない(!)、トータルな舞台美術というものを教えてくれた。パスカはスイスの無形文化財である20年に一度のワイン祭りの演出も行ったルガーノのプロダクションだが、常時7〜8つのオブジェクトを展開しながら散漫にならないそのタブロー把握には優れたものがある。全体を平面として構築する力がなければ、技術を用いたところで舞台たりえないからだ(この点、ロンドンの旧クイーンズ劇場で昨年封切られた新しいヴァージョンの『レ・ミゼラブル』もプロジェクションマッピングをタブローの美学として使いこなしていたが、ジャベールの入水がマッピングされるに至ってやや食傷気味となった)。そしてこの目くらましとしてのイリュージョンは、フィリップ・グラスという作曲家に結びつくことでいくらか正当なコンテクストを得る。わたしはミニマルにはほとんど関心はないが、『アインシュタイン』の音楽は例えばライヒと異なり、むしろグルスキーのスーパーマーケットの写真のようにカデンツを異常反復することで、資本主義的コンテンツを凡庸化を突き抜けてもう一度異化しようというものではないかという印象を受ける。だがその狙いは常に、一周回ってただのイリュージョンに堕する危険性を孕んでいるのだが。

こんなところだろうか。気ままに観劇や演奏会に足を運ぶことのできるスイス暮らしはコロナによって中断されてしまったが、それはコロナのためだけではなく、同時にわたし自身、こんなさなかに一児の父となったことが大きい。母親の産後の回復を待つ生後一ヶ月の間、父子同室で三時間置きに柔らかく良い匂いのする無力ないきものに起こされる生活を送ってつくづく思ったが、仮に向こうに戻ったところで、これまでと同じように気ままには、良くも悪くも行くまい。もっともそう思っているうちに、瞬く間に娘は夜続けて眠るようになり、朝から笑顔を振りまいて両親をねぎらってくれるようになったので、演奏会に行く余裕も出てきたのだが。ところで、これまで言及していなかった側面にわざとらしく最後に触れるならば、スイスは子どもという存在に並々ならぬ学術的関心を注いできた国なのである(ただし仄聞するところによると、これは福祉の面でスイスが子どもを育てやすい国であるということを必ずしも意味しない)。あの悪名高い育児書『エミール』がジュネーヴ市民によって書かれたということもあるが、そんな昔の話はよそう。少なくとも20世紀まで戻ってくると、乳児の研究で最も名を馳せた学者の一人に構造主義心理学者ジャン・ピアジェ(1896-1980)がいるが、彼はジュネーヴ大学の教授を務めていたし、わたしが地元のオーケストラでよく練習場に使っていた大学のホールはその名も「ピアジェ・ホール」という(そしてこのオケでフルートを吹く知人の母は、ピアジェのもとで修士号をとったなんていう話も聞いた)。そんなこんなで大学の庭園にはピアジェの彫像が屹立しているのだが、驚いたことにこれはピアジェを慕う大阪の学者たちからの贈り物であるという。お祭りのシーズンになるとなぜかこのピアジェ像の前に日本人経営のお好み焼き屋の屋台が建つのだが、これは大阪と関係あるのだろうか。
ピアジェの事細かな解説は心理学者に任せたいところだが、彼の本を読むと、乳児が、たとえば「物は外部から働きかけなければ永続する」とか「手を放したら物は落ちる」といった、一見はじめから理解していると思い込みがちな認識論的カテゴリを、リズムの異なる複数の反射の組み合わせのなかで学習していく様子が観察されている。驚いた、このような手続きは、まるっきり18世紀の哲学者と地続きのものではないか!フランス感覚主義の祖・コンディヤックは、主著『感覚論』において、大理石の彫像に五感を一つずつはめ込むことによって、自我を獲得し、複雑な精神行動をとることができるようになっていく過程を描いた。ビュフォンは、アダムのごとき「最初の人間」が聴き、嗅ぎ、触り、観て、味わい、恋をする(第六感はいつでも「性感」なのだ)過程を、がらにもなくロマンティックに描いて見せた。だが単純な話、タブラ=ラサ(白紙)からの人間精神の発生を考えるのならば、なぜ赤ん坊のことを考え、観察しないのだろう?彫像など持ち出さなくとも、それが最も自然な発想ではあるまいか。ここでただちにこういう反論がありうる。赤ん坊は生育環境の文化的なコンテクストにあらかじめはめ込まれてそれを模倣している点で白紙状態の観察にふさわしくないというものだ。もっともらしい理由だが、思うに18世紀の哲学者たちは、そもそも実際のところ、乳児を間近でよく眺めたことがなかったのではないだろうか(昔の話はよそうと言っておきながら、また遡ってしまった)。乳児と過ごせば、自然と明白な模倣がはじまるずっと前から、乳児が世界の法則を学ぼうと大きく目を見開いて、手足をばたばたさせていることはすぐわかる。自由な身体的体験からはじめる経験主義的学習といえば、音楽においてはジャック・ダルクローズ(1865-1950)のリトミック教育だが、これもまたジュネーヴで花開いた(詳しくは知らないが、おそらくピアジェと交流もあっただろう)。わたしは1〜2歳のみぎり母にこれを標榜する教室に連れて行かれては嫌がり、音楽の流れるコンポを止めて顰蹙を買ったりしていたので、その効用について何も語る権利はないが。いずれにせよ、0歳であっても、手を動かし、目でよく観て学べというのは、スイス・ロマンドの地に根付いた実践精神なのかもしれない。
さて、気ままな滞在者の視点こそ失ったが、今度は娘のように、手足を振り回し、目を落ち着きなく動かして、耳をそばだてて吸収するつもりで、つまりあらかじめ狙い撃ちするだけでなく、ある程度手当たり次第にフィードバックする蛮勇をもって、生地・東京の催し物を向き合っていくことはできそうである。スイス紀行は従ってここで終わりである。少なくとも不満だらけのゲーテのそれよりは、スイスに良い印象をもたらしたのではないかと自負している。

(2021/7/15)