モルゴーア・クァルテット第51回定期演奏会|西村紗知
モルゴーア・クァルテット第51回定期演奏会
MORGAUA QUARTET The 51st Subscription Concert
2021年6月23日 東京文化会館 小ホール
2021/6/23 Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:ミリオンコンサート協会
<演奏> →foreign language
モルゴーア・クァルテット
第1ヴァイオリン:荒井英治
第2ヴァイオリン:戸澤哲夫
ヴィオラ:小野富士
チェロ:藤森亮一
<プログラム>
ヴィクトール・ウールマン:弦楽四重奏曲第3番 Op.46 (1943)
フーゴ・ディストラー:弦楽四重奏曲 イ短調 Op.20-2 (1939)
エルンスト・クシェネック:弦楽四重奏曲第3番 Op.20 (1923)
※アンコール
パウル・ヒンデミット:舞曲集 Op.19より
エルヴィン・シュルホフ:スージー
今回のモルゴーア・クァルテットの定期演奏会のテーマは「退廃音楽展」。
筆者のうちに「自由が丘クラシック音楽祭2019」で聴いた、「強制収容所に消えた天才作曲家III「シュルホフの世界」」というプログラムでの荒井英治の熱演が未だに印象深く残っている。今回モルゴーアの定期演奏会のプログラムでは、アンコールを除いてシュルホフの作品は演奏されなかったものの、近いカテゴリーの作品群で構成されているため(もちろん、「退廃」と「強制収容所」とを事柄として直結させることには慎重になるべきだろうけども)、筆者は足を運んだ。
池辺晋一郎によるプログラムノートの一字一句が力強く眩しい。特に「少なくとも僕は、きょうの3曲のどの一瞬にも「退廃」など露ほども感じないのだが……。」「退廃の影すら、ない。」「いったいどこが退廃的なのか……。」といったように、どのブロックの結尾にも「退廃」と断罪する側に対する批判が突き付けられている。
それは確かにそうだ。全く正しい。そのプログラムノートにおいては「退廃」と断ずることというのは、すなわちナチスによるユダヤ人抹殺のことと同義である。加えて、ジダーノフ批判や文化大革命のことにも触れてある。正しい。
さて、筆者は「退廃」というカテゴリーとの遠さを、特にウールマンの作品に感じた。もとより、シェーンベルク(マックス・レーガーも含めてよいかもしれない)のやろうとしたような、音楽の形式自体を散文的な方へ崩していくことを、ウールマンの作品は目指していない。音調は確かに無調の類かもしれないけれども、それよりも、無調的なものをどういう形式でまとめあげるかという取り組みの方が耳に残る。
適度な長さの楽段、フレーズの長さもなんとも常識的だ。パート相互の絡み合いも過度なところがない。展開部はいかにも展開部といった設え。総じて、甘美な響きと几帳面な形式とのギャップに驚くばかりであった。
ディストラーの作品もまた、比較的形式のしっかりしたものであろうし、そこまで厳しい音響体もなく、褒め言葉になるはずもないが中庸ですらあった。だが冒頭の第二ヴァイオリンの独奏が本当にかっこよく、この独奏のために楽器を始める人もいるのではないかと思うほどであった。第二楽章の祈るようなアダージョは、なるほど確かにこの作曲家が敬虔なプロテスタントであることが伺える。
クシェネックの作品は、退廃というより猥雑さを目指しているように思えた。ワルツやフーガなどの種類の異なる楽想が自由に互いに織り交ぜられ、音楽によるコラージュが縷々続いていく。それは肉感的というより乾きであり、演奏者の身体は火照って没頭するのでなく、音楽のもつショック作用に比すればどことなく冷静である。それというのもこの複雑なコラージュを完成させるには神経質にアンサンブルせざるを得ないからであろう、と思った。
そうして、シュルホフの沸騰するような熱っぽさに比べ、ウールマン、ディストラー、クシェネックそれぞれの作品の、なんと形式主義的なことか。
「退廃」について話を戻そう。
思えば、作品の抹殺を試みることは、なにも「退廃」という判断の元だけでなされるのではない。
確かに実際には、政治の問題として作品の質など関係無しに芸術家・作品が断罪されてきた、というのが「退廃」にまつわる事情だろう。もちろんそうだ。しかし、作品の質を断罪する側から擁護するとしよう。すると、その作品の怪しい魅力を感じるとき、「退廃」というカテゴリーに含めること自体が禁じられているのは、なんともつらいものがある。一方的に「退廃」という判断を禁じられた状況下で、音楽作品のポテンシャルへと手を伸ばすのは、どうも心地が悪い。
音楽、もとより芸術全般はエロースへの志向をもっていて、それゆえ本来的に退廃的なのだ、というのもまた雑な話ではあるが一理ある。精緻なものが乱雑なものへと移行していくという芸術史の捉え方だってあるだろう、と言われればそれもそうだと一応頷く。
ただ、私は「退廃」というカテゴリーの簒奪が本当に憎い。この日の演奏会で感じたことはそれに尽きる。「どこが退廃的なのか」と擁護するよりも前に、その退廃という言葉が先んじて相手に奪われているということに、どうして気づかないことがあろうか。ある言葉の含意が政治的な方向性にのみ切り詰められた途端、私と作品との極私的な出会いすらままならなくなっていくというのを……。
この日筆者は不安だった。それは、筆者自身が「退廃音楽展」をもはや歴史的なものと感じてしまい、その冷たい感触は池辺のプログラムノートから読み取れる熱意とはもはや離れてしまっているということに由来する。ある程度は仕方のないことかもしれない。
けれども、なにより批評文を書くものとして、これから近いうちに訪れるであろう「退廃」と近しい言葉で断じる側の動機を、その原因となる作品のポテンシャルというものを、的確にくみ取れるのかどうか。なんだかあまり自信がない。
(2021/7/15)
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<Artists>
MORGAUA QUARTET
1st Violin:Eiji Arai
2nd Violin:Tetsuo Tozawa
Viola:Hisashi Ono
Cello:Ryoichi Fujimori
<Program>
Viktor Ullmann:String Quartet No.3 Op.46(1943)
Hugo Distler:String Quartet e moll Op.20-2(1939)
Ernst Krenek:String Quartet No.3 Op.20(1923)
*Encore
Paul Hindemith : Tanzstücke Op.19
Erwin Schulhoff:Susi