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木下正道個展「双子の音楽」|齋藤俊夫

木下正道個展「双子の音楽」

2021年6月23日 近江楽堂
2021/6/23 Oumigakudou
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 稲木紫織

<曲目・演奏>
(全て木下正道作品)
『双子素数I』(2011)
『双子素数I-b』(2013)
  低音デュオ(バリトン:松平敬、チューバ:橋本晋哉)
『双子素数II』(2018)
『双子素数II-b』(*)(2021、新作初演)
  うたx箏(ソプラノ:薬師寺典子、十三絃箏、十七絃箏(*)、箏歌:吉原佐知子)
『昼の中の眠りの群島VIII』(2016)
  土橋+山田ギターデュオ(ギター:山田岳、土橋庸人)

 

批評を書いていると、「どう書いても実体験、実物にたどり着けない」と頭を抱えることがある。ある意味では全ての批評がそのような宿命を背負ったものなのかもしれないが、それでも書いている身としては「少しは実体験、実物にかすった」という感触がなければやっていけない。しかし実体験、実物があまりにも高いところにあり、記憶の中のそれをただ見上げているしかなくなってしまった時、自分の批評の非力に泣きそうになる。

今回の木下正道個展「双子の音楽」はそのようなあまりにも高いところに達した演奏会であった。

バリトンとチューバのための『双子素数I』『双子素数I-b』、鯨の鳴き声のようなチューバの重音グリッサンドで始まり、バリトンは『I』では百人一首に所収されている柿本人麻呂ら5名の和歌を、『I-b』では在原業平朝臣ら2名の和歌を、堂々たる、というより、轟々たる風情で、和歌の通常の文節からずれた箇所で反復し(たとえば柿本人麻呂「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む」であれば、「ひとり」を延々と反復する)、元の和歌が意味していた意味内容を剥奪して、それを音響素材と化す。
バリトン、チューバ、共に超絶技巧が延々と続くのだが、それによって現れる全ての音が音楽的必然にのっとっていて誤ることがない。作品構造はバリトン、チューバがそれぞれ線的にメロディーのようでいて、そうではないかもしれない音響を跛行的に紡ぎ出し、お互いが無関係のようでいて、絡み合うようでもあり、ぶつかり合うようでもある。メロディーなのかそうでないのかわからない音響は進みゆくようでもあり、堆積していくようでもある。
……といった風な「~~のようで、○○のようでもあり……」「~~のようで、~~ではないかもしれない」が連なってしまう事にこの2作が文章では到底描写・説明できない事実が現れていよう。あまりにもこれらの音楽作品の謎は深く、重く、暗黒のようでいて、光明とも言い得るエネルギーに満ちていた。

同じく百人一首をテクストとして用いたソプラノと十三絃箏・箏歌のための『双子素数II』、ソプラノと十七絃箏・箏歌のための『双子素数II-b』。これらもまた、単に美しいという形容だけでは済まされず、異形の典雅、冷たくも燃える火のよう、とでも形容すべき。先の『双子素数I』と『I-b』とは異なり、和歌からの意味の剥奪はなく、和歌の音楽的ヴァリエーションのように聴こえたが、それが正しいかどうかは定かではない。ソプラノは華美なフォルテシモから幽玄な、あるいは枯れ寂びたピアニシモまで幅広く多彩に歌い、箏歌は淡々とした声を空間に置いていく。2人で対位法的なデュオを形成する場面もあるが、2人の距離・関係は離れては近づき、近づけば離れ、と、刻々と変化して留まることがない。『II-b』で「秋はかなしき」(猿丸太夫の歌の末尾)と呻くようにソプラノが歌い、十七絃箏が弱音で下行して終曲するまで、美しくも背筋が凍るような音楽体験をした。

そしてプログラム最後のギター2台による『昼の中の眠りの群島VIII』、演奏時間が40分程もあるこの作品もまた二律背反的な記述をせざるを得ない。多種多様なギター奏法で奏でられるのは、沈黙と多弁の共存する音楽。フォルテシモの中から静寂が滲み出てきて、その静寂の中からまたフォルテシモが滲み出てくる円環がずっとぐるぐると回り続ける。しかし何故この作品はかくも強い求心力を持っているのだろうか?音楽の形式・構造は先に述べた円環構造以外ほぼ何もわからないのに、聴いていて音楽的論理破綻は皆無。ゆえに約40分間聴いていて飽きを感じることは全くなかった。何故、何故この音楽はこの音楽足り得ているのか?

静寂へと2台のギターが消えていき、演奏会は終わった。以来、筆者の心と頭の中には木下正道という作曲家とその作品への驚嘆と謎が渦巻き続けている。彼は、彼の音楽は、何故にかのように音楽、もしかすると音楽以上のもの足り得ているのか、と。

(2021/7/15)