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第3回 中島裕康 箏リサイタル―開く―|齋藤俊夫

第3回 中島裕康 箏リサイタル―開く―
HIROYASU NAKAJIMA 3rd Sou(Koto) Recital “Open”

2021年6月11日 東京文化会館小ホール
2021/6/11 Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:中島裕康

<演奏>
箏、十七絃箏(*):中島裕康

<曲目>
権代敦彦:『十三段調~13 Steps~ for 13 stringed koto』(2021)
唯是震一:『神仙調舞曲』(1951)
 I.羽根つき
 II.提灯行列
 III.アイヌの子の踊り
西村朗:『十七絃の書』(*)
野田暉行:『十七絃独奏のための夜想曲』(1980)(*)
沢井忠夫:『讃歌』(1978)
(アンコール)
J.S.バッハ:リュート組曲第4番ホ長調 BWV1006aよりI.プレリュード(*)

 

「新しい酒を古い革袋に入れる」、日本伝統楽器による新作品を書くときに突き当たらねばならない課題である。「新しい酒」とは西洋的楽想、「古い革袋」とは日本伝統楽器を指すが、通常「新しい酒が古い酒になってしまう」ことを戒めるこの箴言が、今回のリサイタルのような場合では反対の意味に変化する。「新しい酒を古い革袋に入れる」と、古い革袋の風味(?)が新しい酒の風味に潰されてしまう、つまり日本伝統楽器の歴史が醸してきた独自の味わいが西洋的楽想に潰されてしまうのである。

宮城道雄らが「新日本音楽」を提唱してからもう約100年になるが、この楽派は上記の「新しい酒を古い革袋に入れる」ことについて無邪気すぎると筆者には感じられる。今回は唯是震一『神仙調舞曲』、沢井忠夫『讃歌』がその流れを汲んだ作家・作品であった。何も考えないで向き合えば、『神仙調舞曲』は楽しいことこの上ないリズミカルな音楽、『讃歌』は夢幻的で豪華絢爛な音楽、と聴けるのかもしれない。だが筆者は聴きながらこの2作品の根幹を成すように聴こえる〈西洋音楽〉の風味に、〈日本人〉としての後ろめたさとでも言うべき感覚を禁じ得なかった。

他方、日本における西洋現代音楽の作曲家、権代敦彦、西村朗、野田暉行らは、箏を古い革袋として使用するのではなく、箏という楽器を自らの音楽に合わせて変革し、それを新しい革袋として自らの「現代音楽」を成立させていたように聴こえた。

権代敦彦『十三段調』、奏者の右側にある竜角付近をトリルする微細な音から、大胆に絃かき鳴らすアルペジオ、通常弾く琴柱の右側の絃ではなく、琴柱を左側に越えた部分の絃を手のひらで叩きつけるなど、静的な部分と動的な部分が綯い交ぜとなって、この世ならざる音楽世界を形成する。静的なれど安らぎはなく、動的なれども肉体的快楽はない。求道的とも言える観念的な音楽であった。

西村朗『十七絃の書』。十七絃箏の太く低い音をたくましく弾き、そこから聴こえるのは侘び寂びしおりなどとは無縁の、日本的というよりは汎アジア的な神秘的・秘教的響き。熱帯の温度と湿度が会場に満ち、官能的な音の運動に心と体が飲み込まれてしまう。十七絃箏の帯びる従来の伝統的イメージを覆し、西村ならではの音楽を作り上げていた。

野田暉行『十七絃独奏のための夜想曲』は、先の権代の音楽が観念的だが聴衆に開かれた世界を見せるものだったのに対して、安易な聴取を拒絶する恐ろしく厳しく難解な思弁的世界が見えてくる作品。1音1音の重たさが尋常ではなく、また音が連なって旋律が形成されても、その音の運動を聴いて楽しむのではなく、その音の〈意味〉を思考させられる。最後に最弱音から音が消え去って、筆者の胸の中には深い問いかけ――ただしそれにはもとより答えなどないだろう――が残った。

そして、アンコールで演奏されたバッハは、聴きながら全く得体の知れないモノと遭遇した心地であった。バッハからも日本からもはるかに遠い音楽……それはナニモノだったのであろうか?あるいは、そのはるかに遠い所から芽吹くナニモノカがあるのかも……?

西洋音楽畑をメインフィールドとしている筆者にとっては、「邦楽」はいささか〈遠い〉ジャンルである。新日本音楽の流れを汲む作品こそが「邦楽」のメインストリームなのかもしれないが、どうしても筆者にはそこに〈日本〉ならざるものの優位を感じざるを得なかった。〈日本〉は時代と共に変化していくが、捨ててしまってはいけない〈何か〉がきっとある。その〈何か〉が失われつつある、と今回のリサイタルで感じたのは西洋現代音楽畑の3人よりも、唯是と沢井の新日本音楽系の作品であった。

(2021/7/15)