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プロムナード|混沌の中でアメリカ音楽について考える|谷口昭弘

混沌の中でアメリカ音楽について考える

Text by 谷口昭弘(Akihiro Taniguchi)

自宅にあるアメリカ音楽関連書籍の一部+α

せっかくの機会なので、自分自身について語ることから始めたい。筆者は2003年にアメリカの大学院での勉強+論文執筆を終えて帰国し、ずっとアメリカのクラシック音楽について何か一冊の本を書いてみたいと考えてきた。ただクラシック・リスナーの数が少ない中で、アメリカのクラシックを聴く人は極々少数である。2012年に今の職場に入るまではアカデミアにもほとんど関係を持っておらず、そんな筆者がいきなり売れなさそうな本を出すのは難しい。知り合いとそんな話をしていたら、最初に「売れる本」を書いて次はより専門に近いものを書くのが良いというアドバイスをもらった。それが結果的にディズニーの映画音楽の本『ディズニー映画音楽徹底分析』(スタイルノート)になった。このディズニー路線はそれなりの手応えがあったと考えられたのか、大学に職を得てからも『ディズニー・ミュージック』(同じくスタイルノート)という改訂増補版の一冊を書くことができた。
という訳で、専門のアメリカのクラシック音楽について留学時代から資料もそれなりに集めてきたし、出版に向けての話もし、事実いくらか書き始めてもいた。つまり、ここまでは、とても順調に思えたのである。だが、それからがいけない。執筆作業は途中で止まったまま、長い時間が過ぎてしまった。出版の話をしてから7〜8年は経っただろうか。困ったものである。
執筆が進まない理由の一つは、アメリカ滞在時に必要と思った資料をとにかく集めることばかりを考えていて、実はそれらをうまく消化吸収していないということだろう。いざアメリカのクラシックについて書くぞとパソコンに向かってみると、意外とアイヴズやコープランド、バーバーやケージなどについて知識が怪しいと感じ始めたり、この曲もあの曲も、CDこそ手元にあるけれど聴いていない、ということが分かってくるのである。

研究室のアメリカ音楽のCD (実験音楽中心)

もちろん資料集めはそれなりに意味があったと感じている。日本国内で入手できる米国クラシック音楽情報が圧倒的に少ないのも事実だからだ。アメリカ音楽といえばジャズやロックといったポピュラー音楽が世界的な影響を持っている。少なくとも国内にもそういった音楽を取り上げるライターが多くおり、同じ「アメリカ音楽」でもポピュラー系の本を書くための情報を集めるには困らなかっただろう。しかし「クラシック」になると、とたんに情報の量が限られてくる。それにはアメリカのクラシックが「つまらない」という根本的な問題もあるだろうが、日本人の「本物志向」といったものもあるのだろうかと勘ぐることがある。ヨーロッパ人たちがアメリカ音楽に出会う機会よりも、日本人がそれに出会う機会の方が限られているのではないだろうか。
さて、米国クラシック音楽の本が書けない理由のもう一つとして、これはアメリカに限ったことではないのだが、いわゆる「前衛後」の音楽状況をどのように捉えていけばいいのかを見極めるのが非常に難しいという問題がある。戦後であればジョン・ケージの偶然性が一方に、ミルトン・バビットの総音列主義が他方にあり(本当はいわゆる「調性音楽」も並行して存在していたが)、その後は1960年代のジョージ・ロックバーグや80年代以降のジョン・コリリアーノのように調性音楽に無調とされてきた音楽を混ぜる流れがあり、スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーのようなミニマル・ミュージックが不協和音を中心とした音楽表現をますますマージナルな存在に見せていったことなど、割と歴史的には見通しが良いところもあった。

研究室のアメリカ音楽のCD (実験音楽以外のもの中心)

しかし「ポストモダン」という言葉が使われるようになってからの「新しいアメリカのクラシック」をどう見たら良いのだろう。というのも、前述した「過去の音楽」という時代的なもの、そしてクラシックの内外というジャンル的なもの、この2つをクラシック側に寄せる形で「混ぜる」という流れがずっと今日まで続いているだけというのが1990年代以降のアメリカ音楽のように、少なくとも表面的には見えてくるからだ。もちろん何が混ざってくるのかという微妙な変化はあるけれど、「それだけ?」という感じにも思えてしまう。
いわゆる「無調」と言われた音楽も、過去のものとされている傾向がある。数年前にアメリカ音楽の授業を芸大でやった時に80年代以降の音楽を聴いた学生が「無調もジェネリックな存在になったのですね」というコメントを書いてきて、思わずうなずいてしまった。その良し悪しはともかくとして。
もちろんハードコアな実験音楽の伝統も続いてはいるが、その聴き手はいわゆるクラシックからは離れていく傾向があるようだし、クラシックの方は、このまま「混ぜる」音楽が延々と続いていくのだろうか、と思わされるのだ。作曲技法や作風で時代を区切ったり、音楽を考えることがますます難しいとも思わされる。いや、本来はその「何でもあり」の状態が「ポストモダン」であって、それは単に混ぜている「ポストモダニズム」(とアメリカ国内では呼ばれているように思われる主義)とは違うのじゃないのか、という問いもある(そのことは、またいずれ別に考える必要がありそうだ)。
そんなこんなと混沌としたなかで、アメリカ音楽について、まとめることを悶々と考える毎日が続いている。とりあえず手を動かすしかないのだろうなあ。

(2021/6/15)