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マックス・レーガー クラリネットソナタ全曲演奏会|西村紗知

マックス・レーガー クラリネットソナタ全曲演奏会
Max Reger Clarinet Sonatas

2021年5月29日 王子ホール
2021/5/29 Ouji Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:オーパス・ワン

<演奏>        →foreign language
小谷口直子(クラリネット)
岡崎悦子(ピアノ)

<プログラム>
マックス・レーガー:
クラリネットソナタ 第1番 変イ長調 Op.49-1
クラリネットソナタ 第2番 嬰ヘ短調 Op.49-2
クラリネットソナタ 第3番 変ロ長調 Op.107
※アンコール
マックス・レーガー:ロマンス ト長調
リヒャルト・シュトラウス:万霊節

 

主題が先か変奏が先か、それが問題だ。
1900年という世紀の変わり目に、レーガーがクラリネットソナタの第1番と第2番を世に送り出したのは、今から振り返って示唆的なことに思えてならない。のちの音楽史上の展開の一部を、レーガーのクラリネットソナタは隠し持っている。あのウェーベルンの変奏曲を懐胎している、とすら思えてくる。
ウェーベルンの変奏曲なら、主題がないのに変奏などあり得るのか、と聴き手に問い質してくるだろう。いや、実際にウェーベルンの変奏曲は確かに主題なき変奏と言ってもよいはずだ。そしてレーガーの変奏も、後期ロマン派特有の優美な音調を纏いながらも、その辺り引けを取らない。
筆者は戦慄する。主題より変奏が先に立つということに。それは、主題があらかじめ後々の変奏のしやすいように決められている、といった作曲技法の専門的な話題のみで片付けられることではないように思う。もっと、何といえばよいのか、時間とか認識にかかわることであるから。
この日のクラリネットソナタ3作品のインパクトは、その辺りの事情に由来するものだろう。

レーガーのクラリネットソナタは主題をもたない、とまでは言えないのだろうけども、非存在に向けて走り出している。少なくとも、主題と変奏はある程度相対化されてしまった。主題と変奏の主従関係の不確かさが、この日の作品の原動力だ。主題が対立し合ったり、どれかの主題が優位に立って曲の性格を決定づけたり、というのはもうなされていない。
第1番第1楽章。ピアノの伴奏は散文を紡ぐ三連符。そこにぴったりと沿うようにクラリネットは歌う。各楽段の終わり方は明白だ。だが、楽段がどれくらいの長さになるかは予想がしにくく、次にどういう楽段が来るかも見通せない。楽段の終わりを示す音楽上の身振り、それを聴き手が認識してはじめて、そこまでにどういう時間が流れていたのか、やっとわかってくるといった感覚だ。
どの音型も、なにかの音型の拡大か縮小か、そんなふうに聞こえる。そして、どこに音楽のクライマックスが訪れるのかもわからない。作品においてずっと何事もProzeß(過程、係争中)である。出口のない万華鏡に閉じ込められた心地だ。
第2楽章。愛らしい曲調だが、音型の反復もほどほどに、変奏の海に飲み込まれていく。しかし、三部形式の形式感はきちんと守られている。中間部はグラーヴェで、しっかりと対比をなしている。
第3楽章ではピアノとクラリネットが縦の線をそろえた合奏をおこなう。ただ、急に激するのでどきどきしてしまう。
第4楽章。ピアノが刻むように伴奏し、クラリネットの旋律と対比をなすので、クラリネットの旋律のかたちは把握しやすくなっている。音型の反復をピアノが鳴らすだけで、徹底した変奏によって不安定になった音楽は、だいぶ平衡を取り戻すのだった。

主題と変奏の主従関係の不確かさ。だが、レーガーのそうした作法は、心拍数や呼吸の仕方、個体の有り体といった人間の自然にまで、及んでいる。
第2番第1楽章で、クラリネット奏者の呼吸は乱れていた。ピアノソロの間奏で、必死に呼吸を整える。

第2番第1楽章は短調か長調かがあまり判然としない。だが第2主題がどれかというのはわかりやすい。音の数が減って曲調が明るくなるからだ。
第1番の第1楽章もそうだが、ソナタというより、ところどころ引き延ばされて、中間部の破棄されたインテルメッツォのようだ。一体、なにとなにの間を取り持つインテルメッツォだというのだろう。ここに時間の方向はないのだ。
そして、クラリネットはピアノの内声部の一部になるようにして、己の長音を捧げているようでもある。ピアノとクラリネットの独特の親密圏がそこにはあった。
息苦しい。筆者の呼吸も少し苦しくなってきていた。万華鏡に酔っている。

だが、第3番でやっと外気が流れ込んできた。
使用する音域が少し広がり、音の数も少しはまばらになったのだ。「間」が設けられ、演奏者の裁量がやっと与えられたと感じられるほどである。
全楽章を通じ、穏やかで、インテルメッツォというよりノクターンの趣だ。加えて、反復や、ゼクエンツのようなパターンや、クラリネットとピアノの互いの立場が明確な掛け合いも増え、なんと安らぐことだろう。

この日を通して、レーガーという作曲家はシェーンベルクよりもリヒャルト・シュトラウスに近いという印象を得た。つまり、徹頭徹尾首尾一貫して自らにルールを課して進歩主義的に音楽史をつくりあげていく作曲家、ではなく、当人の自覚や思想はところどころ不明瞭なものの、うっかりすごいものをつくりだしてしまった作曲家、という印象だ。
筆者は第3番を聞いてやっと人心地がついたようであったが、穏当なノクターンのような静寂は、第1番第2番の徹底した変奏の織り成す散文の理念に照らせば、反動的だと思わざるを得ないのであった。
だが、冷静になって考えてみよう。進歩の停滞、反動の訪れ――レーガー一人で20世紀現代音楽史を、彼の死後の展開も含めて、それとなくなぞっていやしないか。
そうして、音楽家の才能というのはげに恐ろしいと、ふたたび戦慄する。

(2021/6/15)

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<Artists>
Naoko Kotaniguchi, clarinet
Etsuko Okazaki, piano

<Program>
Max Reger:
Sonate As-Dur, Op.49 Nr. 1
Sonate fis-moll, Op.49 Nr. 2
Sonate B-Dur, Op. 107
*Encore
Max Reger : Romance G-dur
Richard Strauss : Allerseelen