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神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第368回定期演奏会|齋藤俊夫

神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第368回定期演奏会
Kanagawa Philharmonic Orchestra the 368th subscription concert

2021年5月22日 神奈川県民ホール
2021/5/22 Kanagawa Kenmin Hall Main Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 藤本史昭/写真提供:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

<演奏者>        →foreign language
指揮:沼尻竜典
首席ソロ・コンサートマスター:石田泰尚(**)(***)
ゲストコンサートマスター:三上亮(*)
ヴァイオリン:石田泰尚(*)
ピアノ:石井楓子(**)
ソプラノ:中村恵理(***)

<曲目>
武満徹:『ノスタルジア アンドレイ・タルコフスキーの追憶に』(*)
三善晃:『ピアノ協奏曲』
(ソリスト・アンコール)
武満徹:『リタニ―マイケル・ヴァイナーの追憶に』より第2曲
マーラー:交響曲第4番ト長調(***)

 

まず武満徹『ノスタルジア』、一般的なクラシック音楽向けの大ホールよりかなり大きい2433席のこの神奈川県民ホールでスコアの指示通り、8-6-4-4-2(+ソロヴァイオリン)の弦楽編成でどのようにこの作品が響くのか、演奏前には正直危うく感じていた。
演奏が始まると、音との距離が遠く感じられ、音に包み込まれるような感触はないが、演奏者各人の澄んだ音が細やかに聴き取れる。上行を主題的な音型とするソリスト石田の音は甘く優しく。対して周りの弦楽は禁欲的、もしかすると攻撃的とすら言えるかもしれない鋭く厳しい音。だが、演奏のどの一瞬を切り出しても音が「棒読み」になっている所がなく、後期武満の豊かな情感、音楽だけが持ち得る悲しみが見事に再現され、自分の息の音すらはばかられる気持ちで最後まで聴き入った。

沼尻竜典の作曲の師匠・三善晃の『ピアノ協奏曲』、石井楓子のピアノの音の粒が一つ一つ際立っており、高速パッセージでも決して音が団子になることがない。オーケストラもまたミヨシ・サウンドを精緻かつ強烈に表現する。カデンツァで「三善の音楽ならばこうあらねばならない」という音の当為のど真ん中を石井が全て打ち貫き、そこから神秘的・秘教的なアンダンテに移っていく。先の武満とは全く異なる性格の弱音に手に汗握りながら耳そばだてざるを得ない。このアンダンテの音の大きさと持続に見合った速度を保つことは相当に難しかろうが、さすが沼尻・石井・神奈川フィル、完璧である。ピアノの高速強打から終結部分のプレストに入り、スチームパンク的歯車を大量に噛み合わせた巨大な機械が、ガシガシと整然かつ問答無用で突き進むような溢れんばかりのパワーに満ちた音響にあっけにとられながら大興奮し、実時間はわずか数分だが、体感時間ではその数倍の音楽を聴けた。

石井によるアンコールの武満『リタニ』より第2曲、三善の大音量から一転して静寂を味わったが、ピアノの音に迷いや濁りが一切ないのは三善も武満も同じく。

後半はマーラー交響曲第4番。あくまで個人的な見解だが、この作品は狂気じみた音楽が全編に渡って聞き取れる、相当に怖い交響曲ではなかろうか。CD録音などを聴き流す分には「マーラーにしては迫力に欠ける」などと平和な感想で終わるかもしれないが、ホールで謹聴すると、実に危ない音楽だ、と筆者は感じてしまう。
まず、第1楽章は中心的な楽想が目立たず、前後の脈絡なく全く異なる性格の楽想群が繋がって構成されている。一つの楽想だけを切り取れば美しいものでも、前後が合わさると音楽の人(?)格が分裂しているように感じる。ある楽想の美しさに身を委ねることも不可能ではないが、やがて来る唐突な楽想の切り替わりにより、眠りながらベッドから落ちるような音楽体験をせざるを得ない。
第2楽章「ゆっくりとした動きで、急がずに」の牧歌的音楽に心温められ、心委ねることもできようが、そうすると(筆者は)見たことのないどこかに連れ去られてこの現世に戻れなくなるような気がする。
さらに第3楽章「安らぎに満ちて、ややアダージョで」の極々遅い弱音の音楽、なんとも芳しい音楽だが、これもまた彼岸の音楽、この世の音楽ではない。短調に切り替わり、彼岸は彼岸でも天国ではない方の彼岸だと気づいたと思えば、何故か舞曲風の楽想に切り替わる。と思えばホルンと木管のアンサンブルから弦楽が悲劇的な楽想を……これらを過ぎてやっと安らげると思えば狂ったサーカス団のような音楽が……シンバルの一撃で追い払われてアダージョに戻り、今度こそ安らげると思えば……ヴァーグナー調の金管がドンチャンと鳴り響く……そしてやっとのことでアダージョで終わってくれる。
第4楽章、ソプラノ中村恵理は感情表出より構造・リズムを重視するアプローチで歌っていると筆者には聴こえた。第1、2、3楽章を通過した後では何が「うつつ」で何が「夢」なのか、それとも全て「夢」なのか、「悪夢」なのか、もはやわからなくなっている。ソプラノが歌う天上界の有様も清らかなものではない。どこに我々は向かっているのか?第1楽章と第4楽章で打ち鳴らされる鈴の音は我らを現実に戻そうとしているのか?夢の入り口へと導くものか?
音楽は応えず、ただ鳴り響くばかりで、静かに去っていき、終曲。
沼尻・神奈川フィルの本曲へのアプローチは、無駄な感情・感傷を避け、明晰に音楽を腑分けすることによって、筆者を上記のような考察に導くものであった。

全体を通して、沼尻の正確な譜読みに裏付けられた冷静な采配――それは三善晃の熱い音楽と相反するのではなく、むしろ三善音楽にこそ必要なものだ――が演奏者ではなく一介の聴衆であっても感じ取れ、それによって極めて高純度の音楽が完成されていたように聴こえた。来年、沼尻が神奈川フィル音楽監督に就任したあかつきにはどんな音楽を聴かせてくれるのか、楽しみでならない。

(2021/6/15)

 

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<players>
Conductor: Ryusuke Numajiri
Principal Solo Concertmaster: Yasunao Ishida(**)(***)
Guest Concertmaster: Ryo Mikami(*)
Violin: Yasunao Ishida(*)
Piano: Fuko Ishii(**)
Soprano: Eri Nakamura(***)

<pieces>
Toru Takemitsu: Nostalghia – in Memory of Andrei Tarkovskij (*)
Akira Miyoshi: Concerto pour Piano et Orchestre (**)
(soloist encore)
Toru Takemitsu: 2nd piece from Litany
Gustav Mahler: Symphony No.4 in G Major(***)