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評論|西村朗 考・覚書(10)光、来たれり〜『オーケストラのための耿』(1970)〜|丘山万里子

西村朗 考・覚書(10)光、来たれり〜『オーケストラのための耿』(1970)〜|丘山万里子
Notes on Akira Nishimura (10) 『Kō pour Orchestra 』(1970)

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

西村の最初の管弦楽作品『オーケストラのための耿(こう)』(1970)は、日本音楽コンクール(1932~)への応募で、当時16歳。自筆譜の表紙には、

『オーケストラのための耿』

『Kō pour Orchestra 』管弦楽のための「耿」。
(1970)
晩春〜6.15脱稿

とある。めくると、

杉山寧氏の絵画「耿」に寄せる

と一行、書かれている。

最終ページには二つのコメントがある。
・曲は冒頭に現れる2つの要素 すなわち、
(としてA、Bの楽句が提示されており)
この自由な発展により進行する
・これは春の日ざしへの賛歌です
西村朗(16)

なんとも初々しい。
耿とは、あきらか、明るい、ひかる、ひかりの意。
彼の名、あきら、と重なるが、朗は、朗らか、たからか、の意があるから、なるほど、と思えてしまう。
だが、何と言っても「光」だ。小学校の放送室でシューベルト『軍隊行進曲』をかけながらぼんやり見ていた校庭、「だれもいなくて、いい天気で、光がきらめいている。」
彼にとっての「一種の神秘体験」「音楽というものに全身で震えるように引き寄せられた瞬間」。その光。

杉山寧「耿」

着想は日本画家杉山寧1)の名作からで、その縮小プリントを国語の教科書の口絵で見た。以下、改訂版(2013初演)CDライナーノーツから。

自然界を照らす一瞬の美しく神秘的な光。その風景画の具象と抽象の中間域での夢幻的表現に強く魅せられた。そしてそのようなオーケストラ曲を書きたいと思った。具象と抽象の中間域に夢の風景のように漂う音楽。武満徹からの影響らしきものが感じられる(まだまだ未熟にして本当の影響と言えるほどのものではないが)。演奏時間は7分程度。後年の作に比べかなり音(音符の数)が少ない。

「光」。その具象と抽象の中間夢幻領域。
彼はそれをどんな音にしたか。
まずCD一聴、ゆったりと息の長い、非常に繊細で幻想的な響きの音楽だ。
オリジナルから43年後、室内オーケストラ用に楽器編成を縮小したが、改変は最小限に抑えたとのこと。
オリジナル自筆譜を見て、軽く驚く。
曲冒頭に「Fontaine」(Izumi)とあるのだ。
泉か...ページを追うと3部構成となっている。
21小節~46小節 Reflexion(Hansha)
47~54 Lueur (Bikō)
55~59 Ombre (Kage)

冒頭

ここでは改訂版CDの音を参照しつつ、オリジナルから聴こえる(見える)ことを拾っておく。
冒頭、vnが(p)でh~a, eaと順次入り、低弦が(f)で単音を鳴らす。その上にvibとflなど管が浮かぶ、このvib(p)がまず幻想を立ち昇らせ、楽句Bがvn4声部で現れそこに管が楽句 Aを重ねる。この Aにかぶってarpaが(fp)で下降グリッサンド、vn2部グリッサンドが。と、xil(pp)の鹿おどしのような連打音とともにvib(p)のトレモロ、そこから弦がメロディーラインとトレモロとを重ねて響きの帯を生む。
この10小節で、彼の全手駒が出そろっている。
すなわち、グリッサンド、トレモロ、帯状の響きの動かし方。

ピアノ (ff )部分

フェルマータのち、arpaの上下グリッサンド2回、長いvibのトレモロも印象的、それを受けて木魚が鳴るのも効果的なアクセントで、このへんの呼吸はいかにも西村だ。
21小節目Reflexion もトレモロ多用だが、おお、と思うのは弦打総勢での3小節トレモロ・クレッシェンド(f)の後、pfが (ff) で跳躍、高音煌めく2小節の輝き。続く管(mf)でのcantabileとの対照も鮮やかで、ここらはReflexion中で最も映えるシーンではないか。
43小節からのvnソロh(f)のくっきりとした弧線、さらに弦tuttiでの(pp)ののち、47小節からLeuer。「微光」だが音の動きはそれなりにある。flでの楽句Aが余情の尾をひく。Ombreはvn4声が(pp)<で静かに楽句Bを奏し、(f)><と膨張収縮の果て(mf)で帰結。
冒頭の2つの楽句はなるほど自由な発展を見せるがいかにもシンプルで、穏やかな流れの中に打の響きが幻想を広げ、管は色彩を、弦は時に高揚と減衰を見せつつ曲の底部を支える。
泉と言うより、寂光院のようなひなびた小さな庵の池面にたゆたう春光を想起させる作品だ。

さて、武満の影響だが、筆者は『テクスチュアズ』(1964)との相似を強く感じる(ただし作曲家本人は「拙い内容ながらも武満徹の影響(例えば『地平線のドーリア』の影響)が見られ、響は薄く透明で旋法的。5分程度の小品に過ぎないが、高校を2週間ほど休んでの作曲で、その長さを作るのが精一杯だった。この時はじめて作曲の困難さと喜びを感じたように思う。」『光の雅歌』p.218
だが、筆者はやはり『テクスチュアズ』を思ってしまう。演奏時間も近く、ゆったりした呼吸も似るが、間合いは武満の方が長い。武満の音の持続の勁さ、響きの密度、管弦打の配分による多彩な表情、設計(時空のカッティング)などには及ぶべくもないが、全体の筆致はこちらの方が近いと思う。終尾の静寂の色(影)など、武満をそのまま追うような造りではないか。
『耿』作曲時点で手元にあった武満のスコアは『弦楽のためのレクイエム』(1957)、『地平線のドーリア』(1966)、『遮られない休息』(pf)だったという(『ソン・カリグラフィー I~Ⅲ』(4vn,2va,2vc/1958~1960)も?とか)。LPレコードは積極的に買っていたが、ほとんどの作品は楽譜無し、耳からだけの吸収だった。『テクスチュアズ』もむろんそう。
当時の武満作品への傾倒を語るに、
「非常に魅惑されたのは『地平線のドーリア』で、抽象的な点と線が無重力で浮遊して、夢幻的な光のような響きを生んでゆくのは驚きだった」。
「『樹の曲』(1961)は点描的に断続する様々な形と質感を持つ響きと沈黙が、聴き手をエクスタシーへと導く魔法のようなオーケストラ曲だった。」
「『テクスチュアズ』は、連作オーケストラ曲『アーク(弧)』全6曲中の1曲だが、「『弧』全体に循環主題として登場する極めて官能的な旋律があり、それは美しい生き物のように微妙に姿や気配を変化させる。『テクスチュアズ』での後半の登場シーンは特に魅惑的に感じられた」。2)
『ノヴェンバー・ステップス』(1967)も耳からの聴取のみであったが、その影響はオーケストラ曲『リムーブス・フォア・オーケストラ』(1972)に現れているという。作品目録には記載がないが、70年の落選以来毎年トライした日本音楽コンクール応募作で、「室内楽の拡大形としてのオーケストラ曲を意図したもの。60段の大型スコアで、不定量記譜表などを用いたが、全体としては足に地が着いていない感じで、作曲としての手応えはあまりなかった。コンクールは第一次審査ではねられた」。3)

ところで筆者は『耿』に、コンクール落選のちの晩秋、寂光院を訪れ、八瀬手前での停車が生んだ全くの「無音」と、古知谷阿弥陀堂への道に佇んでの「生と死の臨界域」を想起してしまう。「その数分間の特別な感覚」と黄昏道で感じ取った「冥界」「生と死の臨界域、トワイライト・ゾーン」
この時、大阪の賑やかさとは別界の静寂と光を感知するわけだが、それは万博以前から傾倒していた武満の音楽が彼の中に蒔いたものの一つの領域(ゾーン)であったのではないか。
16歳が描いた春光(特にReflexionでの上述ピアノは、おぼろな中間域での幻想光に一瞬射すクリスタルなきらめきで清新に耳を打つ。「だれもいなくて、いい天気で、光がきらめいている。」その輝き)の明るさと、晩秋の黄昏光、冥界への道でのトワイライト・ゾーンは、今なお西村の創作の道にかかる二つの光(日昇日没と逢魔時と言っておく、そこに生死が横たわるのは当たり前のことだが)であろう。
自分を魅了・侵蝕する武満の響きや音に、何と知れぬ「神秘」の発色、不可思議を感触し、それがそのまま春光の明らかな『耿』の形姿を生んだ。創作とは、「何と知れぬもの」の具象化によってはじめて自身に「それが在る」と知れるその抽出であれば、その春光の向こうに、もう一つの光、消えゆく晩光(と静寂)を寂光院の1日に感触する感覚がすでに胚胎していたのではないか。拙くとも『耿』によって外部へと抽出された明るい幻想光、その抽出がはじめて彼に、その身裡にひそむもう一つの光の存在を拓いた、啓示した、そしてそれが古知谷阿弥陀堂への道で顕になった(感触した)。その時、踵を返した若き西村の逡巡、いや、ある種の畏怖を筆者はありありと思い浮かべる。
光の感知が常に闇を伴うことを思うなら、創作とはこの両者を往還、もしくは回遊するダイナミズムそのものに他ならない。それを「来たれるもの」「去りゆくもの」と言い換えるなら、ここにあるのは西村の「光、来たれり」(聖書の「光あれ」”Let there be light,”ではない)の最初の形象なのだ。
もっと言えば、シューベルトの音と校庭に体感した「光」の形象化。
であれば、武満の不可思議なテクスチュアと響きは、前述での相似云々レヴェルでなく、西村の「内的宇宙」の所在を知らせる契機として彼に作用した、と言うべきだろう。
この「光、来たれり」が世界の創造神話、ひいては彼の「内的宇宙」に直結するのは言うまでもないが、現時点ではその指摘のみにとどめる。4)
ちなみに西村は後年『光と影の旋律』(2000/orch.)を武満に捧げている。1999年春、カナダのヴァンクーヴァー滞在のおり、その夕暮れの夕陽に武満の『How  Slow the Wind』(1991)の夢見るような旋律が浮かんだという。これについてはいずれまた触れたい。

ここで、大阪万博を訪れ、衝撃を受けたもう一人の少年、当時中学3年だった細川俊夫(西村より2歳年下)に触れておきたい。
細川は学校のクラスで一度、次に両親と再訪、西村同様鉄鋼館でのレーザー光線も体験したが、何より武満の『ノヴェンバー・ステップス』の実演(小澤征爾とニューヨーク・フィル)に興奮した。
幼少からピアノに親しみ、即興で遊ぶような子供だった細川もまた武満に強く惹かれ、「一番決定的だったと思うのは、武満徹さんの『ノヴェンバー・ステップス』との出会いです。」と後年、西村との対話で語っている(『作曲家がゆく〜西村朗対話集』)。5)
ただ、その出会いは、中学生期から細川のアイドルだった小澤征爾のレコード全蒐集によってで、「こういうのをつくるようになりたいと思った」
興味深いのは広島で少年期を過ごした細川もまた、その頃夢中に聴いていた作品としてドヴォルザーク『新世界』を挙げていることだ。また後年、ベルリン留学(イサン・ユンに師事)にあたって、「ドイツの音楽、特にバッハ、ベートーヴェン、シューベルトがすごく好きで、ドイツに行きたいという気持ちがあった」6)とシューベルトが出てくるのも目を引く。レコードその他、当時の音楽享受環境が似通っていれば、重なるのは当然ではあろうが。なお、シューベルトについて彼は『魔王』を引き合いに、「着想、テクスト、音楽が一つになっている」と、西欧の作曲家の論理的思想を超えた作品と生命の根源力の発露を指摘しているのもまた興味深い。7)
細川も中高生期で現代音楽に触れるが、何といっても武満の『ノヴェンバー・ステップス』で、憧れの小澤征爾指揮、ニューヨーク・フィルの万博での生演奏に接し感動している。細川少年はこの公演後、武満に花束を持って行ったとか。8)
その万博体験をもう少し拾ってみよう。
「そこで私は、音楽と建築の遭遇を特別な空間で上演してみせるインスタレーションを体験したのです。例えば、ヤニス・クセナキスは、音響とレーザー光線によるインスタレーションを作っていました。あるいは球状の形をしたドイツ館ではカール・ハインツ・シュトックハウゼンの作品の上演がありました。このとき私は、電子音楽というものを初めて聴いたのでした。」9)
万博では他にアフリカの伝統音楽、インドネシアのガムラン音楽にも触れた。ただ当時は、ベートーヴェン生誕200周年イヤーでもあり、日本のメディアでも盛んに取り上げられたそうで、ベートーヴェン、古典派、ロマン派に強く惹かれてもいたという。
まだ心身柔らかな成長期であれば、当然のことだろう。
だが西村も細川も万博の熱気の中でレーザー光線をよけながら、新しい音と空間を体感し、多様な文化の一片に触れた。それぞれにとってやはり強烈な体験であったことは確かだ。

細川の武満がまず『ノヴェンバー・ステップス』だったことに立ち戻ろう。
西村との対話で、彼は「『ノヴェンバー・ステップス』は尺八のあのすごい響きに惹かれたんだと思います。」と楽器の響きから受けた衝撃を語っている。
西村の大阪の「賑やかなはじまり」と異なり、細川は広島郊外、瀬戸内海の見える小高い山麓の一軒家に住み、海、山、川と自然の中で育った。父は朝鮮半島に出兵駐屯先で原爆投下を知ったが、投下およそ1年後に二人の兄を放射能で失っている。復員後、壊滅した地から郊外へ移り住んだわけだが、その父が愛した自然と音楽がそのまま彼の土壌となったという。
ちなみに父方の祖父は建築士で父はエンジニア(研究職)、母方の父は生け花師範、能謡、能舞もたしなみ、尺八も吹き、書にも通じていたが、彼が生まれる前に視力を失って以降はこうした芸事から離れ、彼が実際に触れることはなかったという。大好きだったのは母方の祖母で「自我というものがないに等しかった」典型的な日本の老婦人(仏教徒)で、その温かさと寛容さを「信じられないくらい親切」だったと回想している。10) 母は箏(琴)が上手かったが、手の空いたわずかな時間に自分のためだけに弾くことがあったそうで、その響きを彼は「どちらかというと退屈に聞こえた」と語る。
つまり母方は「伝統的な日本の姿と芸術家的な面が強く」、父方は「合理的、近代的」であった。
何れにしても、西村の原光景との相違は明らかだが、そのどちらも「日本」の原型であることは確認しておきたい。母の職場のお泊まり宴会乱痴気騒ぎと、典型的な日本家庭婦人の独り静かな琴の爪弾きの間にあるものを新旧聖俗などで分けるのは愚であろう。ただ、両者の原光景からそれぞれの音の道・世界が拓けて行くのは自然なことだ。
「家のまわりでいつも遊んでいたところは竹林で、僕はそこがとても好きでした。ああいう風景と武満さんの尺八の音というのは、ぴったりくるものがあったんだと思うんです。」11)
細川の言う竹林と尺八の音とのぴったり感はまさに武満ワールドだが、邦楽器の持つ「一音成仏」的世界観は竹林にも母の琴の音にもすでに沁んでいたもので、そこに反応したのではないか。もっとも、西村との対話ではこれらの伝統的な芸道を「古臭いものだと思っていて大嫌いだった」と言っている。12)

武満徹『Crossing』

のち、細川は武満について「『ノヴェンバー・ステップス』において武満さんは、日本の音楽とヨーロッパの音楽のあいだにある矛盾を開かれたままにしようとし、両者を融合させようとはしませんでした」と指摘する。尺八の音、でなく、文化の対比へと視点が移るのはベルリンへ留学、ユン・イサンに師事してのこと。この言葉に続くのは「のちに彼は、自分は鯨のように、東も西もない大海原を泳ぎたいと語るようになります。彼は普遍的であろうとしたのです。私にとって武満さんの音楽が面白いのは、70年代の終わり、ないしは80年代の初めまでです。それ以降の彼は、少しばかりフランス的になり、ロマン主義に傾くようになってしまいました。そうなると私の興味を惹くことは少なくなります。」13)
国際的作曲家としての細川のスタンスと自恃が知れる言葉ではなかろうか。
がとにかく、ここで見ておきたいのは、細川の「竹林と尺八の親和性」で、西村の「幻想的神秘性」との相違、それだけだ。
ちなみに西村が『ノヴェンバー・ステップス』の影響を語るのは次作『リムーブス・フォア・オーケストラ』であることは先述した。万博での先鋭なアートシーンを創出すべく、「オーケストラの扱いも斬新を求め、各パートのコントロールと記譜にも前衛的なアイデアを積極的に盛り込もうとし、いわゆる非定量記譜法といったものもためらわずに用いることにした」14)そうだが、筆者の手元に資料はなく、武満の影響を見定めるすべはない。

武満徹没後10年特別企画『武満徹|Visions in Time 』Takemitsu Golden Cinema Week(2006)冊子表紙より

お互いにそれと知るべくもなく、万博の饗宴に衝撃を受けた西村と細川。
内外の前衛と「武満」との遭遇のち、それぞれの道を歩むことになる。
彼らにとって「武満」とは何だったか。
欧米前衛の最盛期に刺激を受け、その技法を吸収した、もしくはしなかった世代の放つ輝きの中でも、武満の特異なカリスマ性は桁外れのものであったろう。万博でそれを目撃した彼らが、いわば武満越えから各自の登攀を開始するのは東京へ出てから。
1973年、西村は東京芸大へ入学、適応不全を起こす。
一方、細川は一足早く国立音楽大学付属高等学校に入学するが(1971)、こちらもその教育の保守性を嫌い、74年来日したユン・イサンの『礼楽』(1966)、『次元』(1971)、『洛陽』(1962)に感激、彼の下で学ぶことを決意する。ベルリンヘ渡るのはその2年後だ。
ちなみに彼が最初に書いた作品は『夜半に台所でぼくはきみに話しかけたかった...。』(pf 1977)で、のち『メロディアⅡ』として改訂、初演は1979年。
まさに「一音成仏」そのもの、単音ぽつん………ぽつん………..と長い長〜い間をおき鳴らされる冒頭から武満の音と間の影響色濃く、が、細川らしいモノクロ感漂う10分ほどの作品。彼が『序破急』(fl,vn,va,vcのための)でヴァレンティノ・ブッキ国際作曲コンクール第1位を獲得するのは1980年、国際舞台での活躍の第1歩を踏み出している。
海外へ渡ることなく、適応不全にもかかわらず芸大で院生3年を含む7年を過ごす西村は1974年、5度目の日本音楽コンクール挑戦で『オーケストラのための前奏曲』が念願の一位を獲得、国内でのスタートを切る。同年『弦楽四重奏のためのヘテロフォニー』でヘテロフォニー第1作。2年後の卒業作品『交響的変容』(1976)がダラピッコラ賞受賞、さらに『弦楽四重奏のためのヘテロフォニー』もエリザベート国際音楽コンクール作曲部門大賞を受賞、国外でも頭角を現す。
と並べれば順風満帆に見えるが、それぞれようやっと「自分の音楽」のスタートラインについたばかり。模索の日々である。

さて、『耿』の後日談。
改訂版初演(2013)15)には杉山寧の子息夫妻が来られたそうで、その一ヶ月後、氏の案内で日本橋高島屋での展覧会に赴き、この名画に対面する。「実物の絵画は肉厚の質感で、見る角度を変えると画面の色光が神秘的に変化しました。その技巧に感嘆し、感動を新たにいたしました。」16)
なお『耿』改訂版の入る CDには同年作曲の室内交響曲『沈黙の声』(2013)も収録されており、その作品解説に「両曲の作曲には43年の時間的隔たりがある。その間に大きな変化があったように思っていたが、並べて聴くとそうでもなく、近親性は明らかなようにも感じられる。」と記している。確かにその通り。
「ここにいう“沈黙”は死の向こう側のゾーンをイメージしたものといえる。生の側から死の向こうに呼びかけるような室内交響楽」
二つの光、がおぼろげに見えるようではないか。

『耿』すなわち、「光、来たれり」をめぐって。
最後に『式子内親王の七つの歌』(1990/無伴奏混声合唱のための)からの一句を再度引いておく。
《花の光に》
此世にはわすれぬ春の面影よ 朧月夜の花の光に

あるいは、やはり高校時代に出会った吉井勇『祇園双紙』(1995/無伴奏女声合唱のための組曲)からの一句。
《祇園》
かにかくに祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕の下を水のながるる

註)

  1. 杉山寧(1909~1993)日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。長女瑤子は三島由紀夫と結婚。代表作は『野(の)』(1933年)、『穹(きゅう)』(1964年)、『洸(こう)』(1992)
  2. 武満の影響について少しお尋ねしたところ返ってきたコメントより。
  3. 『光の雅歌』西村朗+沼野雄司(春秋社)p.219
  4. 『光の雅歌』の沼野雄司「序〜西村朗の創造精神」には、なるほど西村の「闇」「光」「ゾーン」についての適切な言及がある。が、筆者もまた筆者の手掘りで進んでの了解点であって、行程はそれぞれだ。
  5. 『作曲家がゆく〜西村朗対話集』 p.283
  6. 同上 p.286
  7. 『細川俊夫 音楽を語る』 p.60,61
  8. 『作曲家がゆく〜西村朗対話集』 p.284
  9. 『細川俊夫 音楽を語る』  p.31
  10. 同上 p.22~24
  11. 『作曲家がゆく〜西村朗対話集』p.284
  12. 同上 p.283
  13. 『細川俊夫 音楽を語る』p.117,118
  14. 『曲がった家を作るわけ』p.28
  15. いずみシンフォニエッタ大阪2月定期公演『西村朗・作品特集』@いずみホール
  16. 『曲がった家を作るわけ』p.36,37&氏よりのコメント

参考資料)
◆CD
『沈黙の声』
いずみシンフォニエッタ大阪 プレイズ 西村 朗/沈黙の声【西村 朗 作品集 17】
VOICE OF SILENCE – Izumi Sinfonietta Osaka plays Akira NISHIMURA / THE WORKS OF AKIRA NISHIMURA
http://www.camerata.co.jp/music/detail.php?id=1300

◆ Youtube
武満徹:
『テクスチュアズ』
岩城宏之指揮/NHK交響楽団
https://www.youtube.com/watch?v=mDEhCoaOUQY
『地平線のドーリア』
若杉弘指揮/読売日本交響楽団
https://www.youtube.com/watch?v=de__3Adn74s
『ノヴェンバー・ステップス』
小澤征爾指揮/サイトウ・キネン・オーケストラ
尺八/横山勝也 琵琶/鶴田錦史
https://www.youtube.com/watch?v=Uz28EEKZJ7Y&t=284s

細川俊夫:
『メロディアⅡ』
Hiroaki OOI, piano
https://www.youtube.com/watch?v=caMwUr7yhh8

◆ 書籍
『光の雅歌』 西村朗+沼野雄司 春秋社 2005
『作曲家がゆく〜西村朗対話集』 池辺晋一郎、三輪眞弘、佐藤聰明、中川俊郎、近藤譲、三枝成彰、新実徳英、吉松隆、北爪道夫、川島素晴、野平一郎、細川俊夫、石田一志、高橋アキ/西村朗編 春秋社2007
『細川俊夫 音楽を語る』 細川俊夫 ヴァルター=ヴォルフガング=シュパーラー 柿木伸之訳 アステルパブリッシング2016
『曲がった家を作るわけ』 西村朗 春秋社2013

(2021/5/15)

『西村朗考・覚書』(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)