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小清水漸「垂線」|原塁

小清水漸「垂線」
Susumu Koshimizu, Perpendicular Line

東京画廊 期間:2021年 3/16~4/17
Reviewed by 原塁 (Rui Hara)
写真提供:東京画廊+BTAP

 

垂直と水平のあいだで——小清水漸《階の庭》/森円花《生成》

小清水漸の個展「垂線」が銀座の東京画廊で開催された。2020年制作の4つのレリーフが架けられたギャラリーの展示空間では、円錐形をした真鍮性の分銅を吊った《垂線》(1969/2012)と、大小11個の石を吊り下げた《階の庭》(2015)とが特異な時空間を形作っていた。

小清水漸《垂線》(1969/2012) 真鍮とワイヤー、79.5×68.5×4.5cm

《垂線》は、関根伸夫の《位相―大地》(1968)に触発されて制作された作品である。「もの派」の起源として戦後日本美術史のエポックメイキングとなった《位相ー大地》、その制作に自ら携わった小清水は、その後、オブジェを通じた抽象的観念の表現から、観念を具体化する物体の提示の方へと向かうことになる

もっとも今回ギャラリーのメインスペースに展示されたのは、この《垂線》ではなく《階の庭》の方である。そして、この作品について語る上で欠かせないのが、もうひとつの出品作、森円花によって作曲された《生成》(2020)である。《生成》は展示空間に水平方向に張られた太いテグスと共鳴ボックスを用いたパフォーマンス的性格の強い作品であり、《階の庭》が展示されたメインスペースにて森自身の手で初演された。会期中は、その記録映像が流され、あわせて楽譜を拡大したもの(82×57cm)が展示されていた。東京画廊では2018年に作曲家の一柳慧と陶芸家の近藤高弘による二人展『消滅』が開催されたが、今回の小清水と森による協働は、この『消滅』展のテーマを引き継ぐかたちで「垂直と水平の交差が、音楽と美術の新たな対話につながることを期待」して企画されたものである

森が演奏に用いたテグスは《階の庭》の石を囲むかたちで中央に3本、正面右手前と右奥に2本ずつ、計7本張られた。このように設置された水平線は展示空間に少なからぬ作用を及ぼす。床すれすれに置かれた石を眺めるのに最適なローアングルから撮られた記録映像から十分に読み取ることは難しいが、それほど高い位置に張られている訳ではない中央の3本の水平線は、石を吊る垂直線と交差することで私の眼の高さにグリッド的な空間を形成し、それが分節化や秩序づけの印象をもたらすのである。だが《階の庭》に十分近づき、床すれすれに吊られた石を上方から眺める段に至って、私の視線はこうした分節化された知覚から解放される。こうして私は節目のつけられた空間から滑らかな空間へと移り、石たちとの関係のなかへと入ってゆくことになる。

小清水漸《階の庭》(2015) 石とワイヤー、サイズ可変

《階の庭》は見立ての作品だ。「庭」という言葉の通り、この作品は観者を作品のなかへと招き入れるのであり、飛び石のように配された石たちは観者の位置、眺める角度や距離によって表情をかえる。《垂線》の均整のとれた円錐とは違って、《階の庭》の石たちはゴツゴツとした不均整な形ゆえ、絶えずゆっくりと揺らめいている。そのことを気づかせてくれるのは影である。絵画の起源とは異国に旅立つ恋人の姿形をなぞった影であるというのはよく知られた伝説であるが、《階の庭》における影は、このように「不在/現前」が戯れるようなイメージとしての影とはおよそ関係がない。《階の庭》において影はありありと実在し、石たちが生きるそれぞれ固有のタイムスケールを具体化しているのだ。

小清水漸《階の庭》(2015)(部分)

《階の庭》が見立ての作品であるとすれば、《生成》の内奥で働いているのは、うつしの原理である。《生成》の各フレーズは11音からなるモチーフを徹底的に操作することで構成されている。11個の音たちと11個の石たちは互いを映し合う。だが、ほんとうの問題は数ではない。考えなければならないのは、どうしたら石たちの実在性と測りあえるほどの強度を持った音を手にすることができるのかということだ。

ここで森が平均律によって調律された楽音を選ばなかったのは必然だろう。彼女は、五線譜を用いて作曲し、それをこの特異な楽器によって演奏することで、整序された楽音と即興によるノイズとの中間領域を立ち上げた。楽器が爪弾かれるたびに楽音とノイズの境界は揺さぶられる。この極端に太いテグスの振動は、音というものが物体、それから空気の振動であることを、ありありと示してくれる。網膜に映り、鼓膜に移る物理的な振動は、精神へと伝わり、私たちがなにげなく聞き流すことに慣れてしまっていた「音」というものについて、思考をめぐらすように促す。

《階の庭》の空間的広がりは、スティックを片手に裸足で踊り、音に生気を取り戻させる呪術者のような森を包み込む「庭」として佇んでいる。石たちが持つタイムスケールと瞬時に飛び交ってゆく音のタイムスケールもまた対照的だ。だが、ときに二つの作品の関係は逆転もする。とりわけ、彼女がsfで爪弾くとき、そして楽曲中間部に顕著なように共鳴箱を素手で叩くとき(とりわけ低い音域を中心としたセクションGなど)、ギャラリーの空間全体が揺さぶられ、それこそがひとつの楽器であることが強く意識される。このとき《生成》は《階の庭》を包み込む側にまわる。包むものと包まれてあるものとの関係性の絶えざる交換。目指されているのは、音楽と美術の安易な融合などではなく、それぞれの作品が持つ固有の時空間のスケールが観者を巻き込みながら絶えず変化してゆく、いわば「トランス・スケール」とでも呼びうる在り方である。両者がその特異性を保ったまま共進化のように生成変化してゆくこと、賭けられているのはそうしたことだ。

既に述べたように、このパフォーマンスは一柳と近藤による二人展を継ぐかたちで企画されたというが、今後もこうした取り組みのますますの深化が期待される。今回の協働にあたって小清水の作品と切り結ぶほどの力を持った《生成》を自ら演奏した森の労は相当なものであっただろう。ここに畏敬の念を表し結びとしたい。

(2021/5/15)

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原塁 (Rui Hara)
1989年仙台市生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専門は音楽学、美学・芸術学。現在、京都芸術大学(旧名称:京都造形芸術大学)非常勤講師、日本学術振興会特別研究員(PD・東京大学)。

(註)

  1. 1960年代末から1970年代初頭にかけて、木や石、紙、鉄板といった素材をほとんど未加工のまま提示することを通じて新たな世界の開示を試みた動向。代表的な作家として小清水や関根の他に菅木志雄、李禹煥など。もっとも、これらの作家たちが自ら「もの派」を名乗った訳ではなく、この呼称自体の出処には不明な点も多い。作家たちの当時の関心を知る上では『美術手帖』1970年2月号「特集=発言する新人たち」が貴重な情報源である。他に椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年や本阿弥清『〈もの派〉の起源』水声社、2016年等も参照のこと。
  2. 小清水は《位相―大地》の衝撃を「ビッグ・バン」や「大爆発」といった言葉で表現している。小清水漸「闇の中へ消えていく前の藪の中へ」『美術手帖』、1995年5月号、267-270頁を参照のこと。
  3. 初演は2021年3月13日に招待制で行われた。
  4. 当展示の解説資料より。なお、筆者は招待制でなされたパフォーマンスの現場に居合わせることはできなかった。以下の記述はギャラリーで記録映像を通じてなされた経験に基づく。
  5. 残念ながら水平線と垂直線が交差する様子を写した記録写真は残されていない。
  6. プリニウス『プリニウスの博物誌』中野定男・中野里美・中野美代訳、第Ⅲ巻、雄山閣出版、1986年。
  7. 筆者は幸いにもギャラリー訪問時に実際にこの楽器が鳴らされるのを目/耳にし、その強度を体感することができた。
  8. なお、森によるプログラムノートには次のようにある。「セクションAは美術作品の誕生から音が奏でられるまでの時間を示し、セクションLは次に音が奏でられるまでの時間を示す。これは美術作品と完全に共存する、終わりのない音楽である。」楽曲の開始部と終結部分にあたるセクションAとLには、それぞれフェルマータを付された休符が書き込まれている。したがって《生成》のタイムスケールは、演奏時の刹那的で瞬間的な時間を超え出て、《階の庭》と拮抗するものでもある。