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4月の3つ目の日記|言水ヘリオ

4月の3つ目の日記

Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)

 

2021年4月2日(金)
午前中は病院で定期検診。昼過ぎからは仕事の打ち合わせ。そのあと、麻布十番、銀座で展示を見る。暗くなってから、新しいカーテンを買って、帰宅して古いものとつけかえる。
歩いている途中、水路があり、散ったさくらの花びらが浮かんで風におされて流れていった。その手前の植え込みでは、まだ早いつつじの花が咲いていた。三月が渡る橋とすれば、四月はたどり着いた岸。今日からなにか漠然としたものごとが始まったような気持ち。
家で、秋野ちひろの作品の前ですごした時を思い出そうとする。だがその時はすでに光に包まれている。作品と私との間で起こったことは、もう言葉には届かない領域に保管されたのかもしれない。紙のようにあつかわれた薄い真鍮、ざくざくと切っていったような切断面、叩かれた表面、塗られた色、微動するようにたたえられた光……

 

 

秋野ちひろ 春
Gallery SU
2021年3月20日〜4月4日
http://gallery-su.jp/exhibitions/2021/03/post-135.html
http://gallery-su.jp/exhibitions/2021/03/post-138.html

●撮影/平地勲

 

4月13日(火)
夕方、かかりつけの医院で健康診断の結果を聞く。別の医院で眼底検査を受けてから、近所の牛めしのチェーン店でカレーライスを食べる。食べていると、ダダカン似の方が券売機でご希望のうな丼を選べなくて、店員に金で払うから、と訊ねる。彼は席に着き、店員に代金を渡し、ほどなくうな丼は運ばれた。彼の食べる様子をチラ見する。

 

4月16日(金)
午後、すこしだけ仕事をしてから、駅の立ち食いで食事して銀座へ。いくつか展示を見て、印象に残ったものがあった。
小さめの絵が壁に並んでいる千葉鉄也の展示。「ダイヤモンドとして」など、宝石の名称が含まれるタイトルの作品が多くある。絵の具を塗りつけたような、削りとったような表面。近づいて斜めから見ると、盛り上がっている様子がわかる。異なる色の絵の具が、描く際に画面上で混ざり合ったようにも見える。また、絵の側面に注目すると、キャンバスが、塗ったのか染めたのかわからないが、その絵の色調の色になっていることに気づく。見えているのは表面にすぎないはずなのに、絵の奥まで見えていてそこに光が封じ込められているように感じたり、絵の具が絵になるまでを想像したりしているうち、なんだか楽しくなってしまった。
となりのスペースには、瀧田亜子の絵が並んでいる。絵の具を含んだ筆先が面に触れ、おしつけられあるいは移動して、離れていく。瀧田は書家でもある。塗るというのではなく、書のように筆は運ばれるのではないだろうかと思い、本人に確認する。点描のように見えた絵の具の跡も、書のように描いていると聞いた。全体に色彩が鮮やかというよりは色を帯びた影のようで、触れたらしっとりとしていそうな質感。タイトルはあとから付けているらしい。自身の描いた絵を前に、作者自身も知らなかった光景と出会っているのかもしれない。

 

 

 

千葉鉄也展
Cross View Arts
2021年4月12日〜4月24日
http://gnatsuka.com/chiba-tetsuya-2021/

●千葉鉄也「ワインの底に」 油彩、キャンバス H227×W158mm(SM) 2021年(上の写真)

瀧田亜子展
GALLERY NATSUKA
2021年4月12日〜4月17日
http://gnatsuka.com/takita-ako-2021/

●瀧田亜子「遠くの空」 H1420×W950mm 画仙紙、顔料、岩絵具、膠、アクリルメディウム 2021年(下の写真)

 

4月17日(土)
図書館へ本とCDを返却しに行く。今日はなにも予約していなかったので、借りるものがない。館内をぶらぶら見て回る。芸術のコーナーにあった『書く──言葉・文字・書』(石川九楊、中公文庫、2009年)という本を借りる。

 

4月22日(木)
夕方近く、展示に出かけるため最寄駅に着いたのだが、電車が止まっていた。しばらく復旧しそうにないので、今日はあきらめて、ともかく食事することに。牛めしのチェーン店でカレーライスを食べる。食べていると、ダダカン似の方が来店し、うな丼を食べ始めた。店内の客席には彼と私のふたりしかいない。しかもふたりとも先週とまったく同じ席で、まったく同じものを食べている。実際に起きていることであるが、現実感に乏しく、まぼろしのなかにいるみたい。

 

4月23日(金)
きのう出かけるはずだった展示へ。五反田駅から池上線に乗る。この線に、かつて沿線の久が原にあった現代美術のギャラリーへ行ったとき以来およそ20年ぶりに乗る。車内で、突発的に大きな音を発する人がいる。それに反応して小声で汚い言葉を発する人がいる。自分はそれを目前にしなにも発しない。洗足池駅で降りて、会場近くのカフェで食事する。コーヒーを飲みながらサンドウィッチにかぶりつき、なにを考えていたのだろう。
展示会場は普段は医院として開いており、年に一回程度の短期間、ギャラリーとして展示が行われる。そして現代美術の作品が古美術とともに置かれる。それがここでの展示のひとつのコンセプトとなっている。
1時間半くらいいて、まだまだ見ていたかったが終わりの時間が来た。絵は静止しているものなのかもしれないが、変化しているものごとのただなかにいて中座したような感覚が残っている。瀧田の、筆が触れてから離れるまでの息づかいの集積、さとうの、線の上に絵の具が沸き立つようなざわめき、そして古い仏像や陶器などの存在。3階には茶室があり、そこには作品と古美術が数点。なかに、

しみかな
しみか
しかな
かなしみ

というさとうのことばを、瀧田が書にした作品もあり印象的だった。
茶室にはほかに人がいなかったので、椅子に座り、作品に囲まれ、目を開いてじっとしていた。意図したことではないのだろうが、なにかのビーという低い音が、それがこの場に必然的に発生している音のようにずっと鳴っていた。

 

 

 

瀧田亜子&さとう陽子
ギャラリー古今
2021年4月15日〜4月25日
http://cocon.main.jp/exhibition2021-4.html

●瀧田亜子「オミナエシ」 95×142cm 2021年(上の写真)
●さとう陽子「すきをすく」 73×91cm 2020年(下の写真)

 

4月28日(水)
歩いていたら、壁にボールを投げて遊んでいる知らない少年から「こんにちは」と挨拶された。都心部でこのような体験をしたのは初めてかもしれない。その後、乗り換えの駅に向かう途中でギャラリーらしき建物に展示の案内があったので、入ってみるか、と階段を上ると受付があり、「1000円になります」と言われた。入場するのにそれだけかかる、ということで辞退して駅に向かう。
外苑前駅から歩いて、ラーメン屋の角を曲がる。階段を降りてスペース内に入り、展示を見始める。どう見たらいいかな、とまごまごしていると、なにかが始まった。作者のからだのスケールに合わせた枠が区切られている、ひとりでなんとか運べるくらいの大きな、片面が黒板のようになっている板状のものを、壁に立てかけ、そこに、クロード・レヴィ゠ストロースの『悲しき熱帯』からの一節と思われる文を書いて、すぐに消す。そういうことが短時間行われ終わった。場の空気に招かれたように板に近づく。あたりには、テーブルのようなもの、枠だけになった椅子、ばらばらになった木製の椅子、地球儀の地球部分と軸の部分、『悲しき熱帯』の本、円周率が載っている本、その他。それらが展示中にありようを変え、いま仮にこのようになっている。完成のない進行中のものごととして、時間を定めず散発的に行われる丸山の「アクション」によって「変異(移)」(作者の言葉)していく作品。やがて再度アクションが始まる。ひとたび配置したものがバランスを崩し倒れても、それを元に戻すことなく、倒れたところからさらなる変容が始まる。このアクションを、観客として集中して見るというあり方でいいのだろうか?という疑問が生じる。目にするつもりではなかったものごとを偶然見る、ように、よそ見をしたり、揺れてみたりする。

 

 

丸山常生展 “CLINE”—私たちはどこにいるのか? #7
トキ・アートスペース
2021年4月20日〜5月2日
http://tokiart.life.coocan.jp/2021/210420.html

●撮影者/MARUYAMA Yoshiko

 

(2021/5/15)

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言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わっている。