特別寄稿|作曲家と演奏家の対話・II|『音楽と感情』|ダムニアノヴィッチ&金子
作曲家と演奏家の対話・II 『音楽と感情』
テキスト:アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ(作曲家)、金子陽子(演奏家)
YK (金子陽子)
メルキュールデザール3月号では、時間の観念、とりわけ音楽における時間について対話をした。音楽に於いて時間は『宇宙』ではなく、より広い意味での『時空』、音楽が演奏される実際の『場所』(コンサートホール、劇場、教会、野外競技場、お城の中庭など)に位置する。楽器から発生した音もしくは声(空気の振動)が、その会場が持つ音響によって、音量 と美しさを増しながらその空間を横断して聴衆まで届く。
高さ(音の周波数)、広さ(振動と響き)そして長さ(音の長さ、音楽の内容)を備えることから、音楽自体は、実は目に見えない建築物である。
今月は音楽にとって重要な要素であり、音楽における時間と結びついて時間の感じ方に大きな作用を与える『感情』について2人で話を進めて行きたい。素晴らしく実現された和声の根本的な変化(作曲家による)や音色の変化(演奏家による)は、聴衆に強烈な感動を与え、その一瞬は時間を超越したものとなる。
この魅了された一瞬を前に、時は停止したかのように感じられ、深い感動が沸き上がって、時にはこれらの瞬間が永遠に私達の胸に焼き付く。演奏家としてはこれまでに楽器の前で費やしたあらゆる努力の数々が報われる。
感情=耳を傾けるべき真実?
私が思春期に音楽の道を選んだのは、恐らく(文学、美術、その他の学問以上に)音楽が私に与える感動のためであり、そこに自分に啓示された明白な、追随すべき真実を感じたからだと思う。
感情は2種類に分類できる。
- 第一次の、生来の奥深い反応としてのもの。ダーウインの『人間と動物に於いての感情表現について』によると、我々が備え持つこの第一次の感情は動物にも共通で『理性』や『判断』の干渉を受けていないもの。『理性』『判断』とは動物が持たずに人間のみが発達させたものである。
- 人間特有の『気持ち』、個々の感受性や、様々な経験が編み込まれたものの反映としての感情。
話題になる機会が少ないにも関わらず、感情は常に、芸術作品の源泉、動機、エネルギーである。
AD (アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ)
貴女が『理性』『判断』という言葉を使ったのは興味深い。というのは、古代ギリシャ時代以来、哲学者達は音楽が感情に及ぼす力があることを認めていたが、理性によってそれを制御する必要性を強調していた。彼らにとっては作曲家と演奏家(当時は同一の人物だった)、つまり音楽を扱う人間は、哲学者のように音楽について考察をする人々より下の階層と見なされていた。聖アウグスティヌス(354−430、仏語では聖オーギュスタン)は古代文明と我々の文明の橋渡しをした。彼は古代最後の哲学者であったと共に、初めてのキリスト教徒の哲学・神学者だった。彼は(『音楽論・デ・ムジカ』において)初めて音楽について書き残した稀な人物である為、我々は興味がある。
フランスの著名な聖アウグスティヌス派の歴史学者、アンリ・イレネー・マル−(Henri-Irénée Marrou (1904-1977, アンリ・ダヴェルソンHenri Davensonのペンネームで執筆)は、『判断される音楽』と『官能的な音楽』の区別をつけている。
『精神が感受性の領域を超え、音楽による昇華と段階的な純粋化の同行を探求する(中略) 音楽的現実が下層から上層に移るため、原始的な形から完結した物に、鳴り響く音楽から記憶の中の音楽に、肉欲の音楽から判断される音楽に、そして遂には内面的な、最も静かな最も秘められた音楽へ。』
彼は次のような音楽は上記とは違うと説明を続ける。
『記憶の最も下層に留まる音楽、豊かにさせずに神経を苛立たせる音楽、型にはまって覚え易すぎるメロディーを備えた音楽、うるさすぎ、決して精神性をもたらさない音楽(中略)余りに容易に理解されてすぐ飽きが来てしまうような音楽。』(アンリ・ダヴェルソンHenri Davenson 著、聖アウグスティヌスの精神による音楽論、Les Cahiers du Rhône – Série blanche – Editions de la Baconnière – Neuchâtel, 1942年3月発行, 117-120ページ)
音楽の良さを理解するには感情だけでは足りないと私は結論する。
ここで音楽における感情の客観化を試みてみよう。
音楽には感情(悲しみ、喜び、哀愁、英雄的、恐れ)が含まれると言われる。古代の哲学者達は、音律が穏やかな人間を暴れさせたり、怒り狂った人間を落ち着かせる程の超越した力を持っていたと考え、カトリックの信者達はグレゴリウス聖歌の音律(モード)を、gravis, tristis, mysticus, angelicus (深刻な、悲しい、神秘、天使)のように命名し、ロシア(ギリシャ)正教徒達は、異なったビザンチンの唄の音律(モード)を人間の性格と合致させるまでに至った(暖かい、勇気ある、苦しむ、重々しい、戦いの軍を率いて戦意を高める、官能に導いて魂を崩れさせる、、)
しかし、19世紀に入って音楽とその感情的な意味について(とりわけ、シューベルト、シューマン、ブラームスの幾つかの歌曲が証明するように、音楽と詩の親近のお陰で最高潮に達していた折)、エドワルド・ハンスリック*(1825-1904)が1854年に『音楽美論』(Vom Musikalisch-Schönen)を発表した。彼はここで、音楽は速いもしくは遅いテンポで、強く又は弱く、高音か低音で、スタッカートかレガートに、、、聴き手に悲しみ、喜び、興奮などの気持ちを呼び起こす、、しかし、それは音楽が悲しかったり喜ばしかったりするのではなく、聴き手が音楽によってそのような気持ちを感じるからである!という科学的な事実を著書の中で主張する。(*エドワルド・ハンスリックは、ウイーン大学で教鞭を取り、音楽美学の先駆者と考えられている.ブラームスの熱心な庇護者でとして知られ、ワーグナーの音楽に大変手厳しかった。)
『音楽によって引き起こされた』、ということならば、音楽と感情には関連性が存在するという訳であろうか?
我々は、最も客観的な方法で、感情と、音楽がそれらを呼び起こすための音響的な手段の関連性を、著者自身が指揮をしたこともあるベートーヴェンの交響曲第6番『田園』と、自分が作曲して、ピアニスト金子陽子に献呈した『パリ、サン・セルジュの鐘』と共に検証を試みよう。
交響曲第6番『田園』(ベートーヴェンが『田舎に到着した賑やかな(快適な)印象』というサブタイトルを与えている)は、旋律とリズム、和声による大変シンプルな構成を呈し、中央ヨーロッパの民族音楽からインスピレーションを得ている。一楽章の中間部はベートーヴェンに於いては通常なら、激昂したドラマチックさを伴った正に戦いの場となるのであるが(『田園』と同年代の第5交響曲を見れば一目瞭然である)ここに於いては大変に簡素で落ち着き、尋常でない数の繰り返しが見られ、同じ主題が変ロ長調の和音の上に8回も、ニ長調で12回、ト長調で12回、続いてホ長調で12回繰り返される。ベートーヴェンの如何なる他の作品も、ここまでテキストの繰り返しはしていない!
これらが客観的な要素であり、この楽章が『心地よい』気持ちをもたらして、ほとんど聴き手を催眠、あるいは鎮静させる要因となっている、、、
第2楽章は(ベートーヴェンが『小川のほとりの光景』とサブタイトルを付けている)は、3拍子系、周期的で素晴らしく流動的に築かれており、それは旋回する舞曲(例えばワルツ)だけでなく、舟歌(水に象徴される)にも最適な拍子である。ベートーヴェンはここで8分の12拍子を選択したことにより、一つのフレーズの息づかいがおよそ6秒も持続する。この楽章(延々と続くが為に当時この交響曲は好意的に迎えられなかったのだ)は一種の無窮動であり、音の流れが停止する箇所が極めて少なく、ほとんど常に休みない、、、正に小川の流れのようである!
ここでも、無窮動的リズムという要素により、聴き手の気持ちが、静かに流れる時間と同じ物、、、休みなく、優しく揺さぶる絶え間ない進行、となることを検証しえたのではないか。
第3楽章は(ベートーヴェンが『村人の楽しい集まり』とサブタイトルを付けている)は同じく3拍子系(舞曲を連想させる)で構想されているが、ここでの拍子の呼吸はとても短く、およそ一秒の半分である! もしも聴き手が息切れを感じるならば、それは速いテンポの客観的なデータが、拍子の短さが、心臓の鼓動に作用するからである。つまりこれも更なる客観的要素が感情、ただし今回は他の二楽章が喚起したよりは平穏でない感情を喚起している。
YK
貴方が『要因』と『結果』を以って立証したように、すべての芸術は知性が科学的な現象(音楽の場合は音響として)を伴って、レトリックの規則と技術を駆使することによって発展してきたことが理解できる。このようにして当初の作曲家の『感情』が形を取って『気持ちの表現』と化し、演奏の際に聴衆の元に再び現れるという訳だ。
アレクサンダーの最新作『パリ、サン・セルジュの鐘』は、前月号で紹介した『6つの俳句』と同じように、感情が凝縮された驚くべき作品である。私はここに、それぞれの声部が、束縛から解放され、発展し、語り、拮抗し、苦悩するという切なる意志を感じる。
作品の持つポリフォニーが生むこの豊かさ(感情)、声部の重なり、不協和音やリズムの繰り返しによる緊迫感が私達の心を揺さぶる。
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『パリ、サン・セルジュの鐘』* « La Sonnerie de Saint Serge de Paris » の行程は以下のように要約される。ピアノの高音部で速いテンポで始まり、音楽が中声部、中庸なテンポと進展、最後には低音部で穏やかなテンポとなり、平穏な純5度の音で終息する。
作品はパリのサン・セルジュ教会(ロシア正教)の鐘の音からインスピレーションを受けている。冒頭に、高音部でのこの鐘の音のピアノによる模倣から始まり、長2度の音程(ピタゴラスが発見した物理的な自然音程のひとつ)がはっきりと聴き取れる。1分54秒の時点で、長2度の高音部が下降し、短2度に縮む。(短2度はピタゴラスの自然音程には所属しない)この収縮は緊張を伴う(収縮とは、心臓の収縮、又は、フランス語で悲しみを表現する時に『胸が締めつけられる』« j’ai le cœur serré » のように使われる) 。
この縮みはメランコリーの感情を生み出し、この後更に、音楽が少しずつ低音部へと下降して行く。鐘の音は短2度でより哀愁を帯びてピアノの右手で弾かれ続け、左手は男性合唱と同じ音域で歌の役割を担う。
楽曲を通じて感じられるメランコリーは、物理的な、音響の規則、一秒における振動数の減少(ヘルツという単位が使われる)、そして一秒間の鼓動の減少(テンポの緩暖化)、そして下降型音程から築かれたメロディー、というリアリティーに基づいている。
この作品の金子陽子によるピアノ演奏を(実際のサン・セルジュ教会の鐘の音に続いて)こちらでお聴きいただけます。
AD
このように、ここにも聴き手に感じられる感情と、音楽の物理的現実(音響学的、科学的)に関係が見られる。この点に於いて、古代の哲学者が、音楽家が危険な力を備えていると指摘していた事実が理解でき、トルストイが『クロイツェルソナタ』の中で『音楽、それは私を造作も無く、一瞬にして作者の魂に入り込ませてしまう。私は自分の心と作者の心を混同し、両方を行き来する(中略)そのために、音楽は時において実に恐ろしく、手強い作用を及ぼす。中国では、音楽は国家が司っているという(中略)何者でも独りで一人又は沢山の人間を陶酔させ、好きなように操るということが認められて良いものであろうか?』
YK
主観的(私)、客観的に(アレクサンダー)図面化し、軌跡を追うことによって、これらの感情が全く違った次元で見えてくる。演奏家としての私は、楽譜と向かい合って、作曲家が作品を書いた動機、その主旨、様式、選んだ作曲技法などを注意深く検証しながら、感じた感情を大切に温め育てていく。そして、演奏芸術とは、感情と表現を、個々に見合った数々の技術(テクニック)を駆使をしながら伝えることである。
音楽に於いて感情は理性や判断ではなく、レトリックと表現の規則に従う。感情(ここではドイツ語のアフェクト・情緒という言葉が使われている)と表現を伝える方法については、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハが1753年に刊行した教則本が私達に膨大な教えを残してくれている。
『正しい鍵盤楽器奏法』 (ドイツ語の原本のタイトル «Versuch über die wahre Art, das Clavier zu spielen » 第3章『演奏について』の抜粋、
13)音楽家は自分自身が感動するのでなければ聴衆を感動させることはできない。従って彼は、聴衆の心に呼び起こそうとする総ての情緒(アフェクト)の中に自分もひたることがどうしても必要である。彼が自分の感情を聴衆に示し、そして彼らをそれに共感させるのである。悄然とした悲しい部分では自分自身悄然とし、悲しまなければならない。聴衆がそれを見、それを聞いて曲の内容を理解するのである。
(原注 しかしこの場合、過度の冗長、緩慢という誤りにおちいらないよう注意せよ。あまり多くの情緒、メランコリーはこの誤りを起こさせやすいものである)(後略)
14)音楽か惹起できる情緒の多様さから、完全な音楽家はどんなに非凡な才能を持たなければならないか、その才能を行使するのにはどれだけ高度な才智が必要かがわかる。彼は聴衆を吟味し、彼らの性向に従って演奏曲目の内容を考え、演奏会場やそのほかの異常も考慮にいれなければならないのである。賢明にも自然の女神は、だれでも音楽に興味を感じ得るようにと、音楽にさまざまの美しさを与えた。それゆえ音楽家は、自分の能力の及ぶ限り、ありとあらゆる聴衆を満足させる義務があるのである(後略)
(全音楽譜出版社、C.P.E バッハ『正しいピアノ奏法・上巻』東川清一・訳)
このように、C. P. E. バッハは、彼が生きた啓蒙時代(18世紀)古典派(クラシック)音楽時代の夜明けに於いて、鍵盤楽器の愛好者や教師に向けた数多くの『良識』を示唆している。
AD
C. P. E. バッハの著述(私もこの著述の大部分が理にかなっていると考える)の中で『演奏家が聴き手に感じてもらいたい感情を自身で感じることが必須である』という項について、ここでひとつ補足を加えたい。
この補足は、私自身の体験から来ている。ある時私の作曲した『エオリアンハープ』に感動したという聴衆の1人の女性と対話をした。彼女が私に述べたこの作品を聴いて感じたという感情は、私自身が作曲しながら感じていた感情とは全く関連がないものであった。だからと言って彼女の感じ方が間違っていたと言う訳ではないし、私自身(私が作曲した訳ではあるが)の感じ方が正解だったということにもならない。
大切なのは、この作品が特定はできなくとも、ある種の感情を聴き手に引き起こすということだ。聴き手が感じるすべての感情は、各人固有の物であるという意味で正当で真正な物だ。作曲家と聴き手の感情が一致する場合も、作曲家自身が作品を演奏する場合も、聴衆は他の何にも類似しない個人的なある感情を感じる権利がある。そしてそれは真実で合法性がある。
音楽とは、完全に客観的な音響による出来事であり、感情というものは完全に主観的なものなのだ。
YK
この作曲家による寛大な証言は、作品のもつ崇高さに恥じない演奏をしなければと常に悩む演奏者としての私を励ましてくれるようだ。
私自身も、自分が演奏したコンサート評に関連して似たような体験をしたことがある。かつて、ガブリエル・ピアノ4重奏団の日本公演で頂いた評の中で、『彼らはこの曲が本来持つ以上の魅力を引き出す事に成功した』という表現を目にした。褒められた気がしたのはつかの間、私は当惑した。何故なら、私がある作品、とりわけ『知られていない曲』を演奏会に取り上げたり録音するからには、その作品の価値と素晴らしさに当然確信を持っているからだ。しかもこの評を頂いた当の作品はガブリエル・フォーレのピアノ三重奏曲、演奏会に出すまでに真の演奏スタイルを、15年もの間探求し続けたレパートリー。批評家の方がどのような理由で、どんな演奏を過去に聴いて来られたのか。「本来持つ以上の魅力」とのこの作品への過小評価が気になった。
勿論、この種の体験は、演奏家という職業を、探求を続けて行くことの意義と使命感を私に与えてくれる。
広い意味での感情と共に、感情のお陰で、私達は多くを学ばせられる。感情は決して個人的なことでも内密なことでもなければ、自制心や知性が足りない訳でもない。感情とは人間の普遍的なクオリティであり、私達を包む世界がその中に反映するからだ。
更には、感情についての教育と価値付けは本質的な事である。親、教育者として、子供達、とりわけ、音楽を学ぶ生徒達にとって、感情を観察して耳を傾け、それにまつわる様々な概念に適切な言葉を与えることが有益で大切であるということを私は確信している。
AD
教育は我々の次回の対話の主題となり得るだろう。演奏をする音楽家達の教育と共に聴衆の教育も。すぐ頭に浮かぶのは、聴衆と演奏家の教育として、聴衆の教育が洗脳的で押し込められたものにならない事、演奏家の教育が調教とならないこと。
そして、我々の初めの観察 -感情に加えて、理性と知性の音楽を愉しむ能力への参加- が教育についての対話に於いても役立つのではないだろうか?
(2021/4/15)
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アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ (Alexandre Damnianovitch)
1958年セルビアのベオグラード生まれの作曲家、指揮者。ベオグラード音楽院で作曲と指揮を学び、パリ国立高等音楽院作曲科に入学、1983年に満場一致の一等賞で卒業。フランスに在住して音楽活動。まず、レンヌのオペラ座の合唱指揮者、サン・グレゴワール音楽院の学長に就任し、オーケストラ『カメラータ・グレゴワール』並びに『芸術フェスティヴァル』を創設。1998年にはパリ地方のヘクトール・ベルリオーズ音楽院の学長に就任し『シンフォニエッタ』オーケストラと声楽を中心とした『Voie mêlées』音楽祭を創設。1987年には、フランスの『アンドレ・ジョリヴェ国際作曲コンクール』、1998年にはチェコ共和国の国際作曲コンクール『ARTAMA』で入賞。
作曲スタイルはポストモダン様式で、ビザンチンの宗教音楽並びにセルビアの民族音楽からインスピレーションを受けている。主要作品として『エオリアンハープ』、『キリストの誕生』、『フォークソング』、『聖アントワーヌの誘惑』、『パッサカリア』、『叙情的四重奏曲』、『フランスの4つの詩』、『エルサレムよ、私は忘れない』、、等が挙げられる。
近年での新作は、フォルテピアノ奏者、金子陽子との共同研究の結果生まれた作品、『アナスタジマ』、『3つの瞑想曲』、『6つの俳句』、『パリ・サン・セルジュの鐘』などが挙げられる。
音楽活動と並行して、サン・マロ美術学院油絵科を卒業した他、パリのサン・セルジュ・ロシア正教(大学)神学部にて神学の勉強を続け、神学と音楽の関係についての論文を執筆中である。
(ラルース大百科事典セルビア語版の翻訳)
アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ公式サイト(フランス語)の作品試聴のページ
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金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
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