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『Toshi伝説』一柳慧芸術総監督就任20周年記念 エクストリームLOVE|齋藤俊夫

『Toshi伝説』一柳慧芸術総監督就任20周年記念 エクストリームLOVE
Legend of Toshi Ichiyanagi Extreme Love

2021年3月20日神奈川県立音楽堂
2021/3/20 Kanagawa Prefectural Music Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 青柳聡/写真提供:神奈川県立音楽堂

<曲目・演奏>
《Classical》
一柳慧:『フレンズ』
  ヴァイオリン:成田達輝
武満徹:『一柳慧のためのブルー・オーロラ』
  ブルーオーロラ サクソフォン・カルテット(平野公崇、田中拓也、加藤里志、本堂誠)
  空間演出:荒木遼、アニメーション:中村葉月
C.フランク:ヴァイオリン・ソナタイ長調
  ヴァイオリン:成田達輝、ピアノ:萩原麻未
アルヴォ・ペルト:『鏡の中の鏡』(ヴァイオリンとピアノのための)
  ヴァイオリン:成田達輝、ピアノ:一柳慧

(休憩)クロストーク:「一柳慧を読み解く3つの「裏」キーワード」
片山杜秀、有馬純寿

 

現代音楽はかつてどのように始まった?今の現代音楽とは何か?現代音楽とはこれからどこへ行く?

「エクストリームLOVE」、ジョン・コルトレーンの“Love Supreme”にならった(と筆者は見たが、正解が他にあるならばご教示願いたい)このタイトル、日頃つつましく活動している日本現代音楽界の演奏会としては妙に豪華というか、派手である。だが、演奏会の中身は豪華・派手というより、冒頭に掲げた問いを改めて自分たちと我々に投げかけるものであった。

演奏会は “Classical”, “Traditional”, “Experimental”の3つに分かれ、間の休憩に片山杜秀、有馬純寿、一柳慧らのトークがロビーで開かれた。

“Classical”での4作品を聴いて驚いたのは、一柳『フレンズ』、武満徹『一柳慧のためのブルー・オーロラ』、ペルト『鏡の中の鏡』といった、年代的には「現代音楽」の範疇にあるはずの作品が「クラシック音楽」であるフランクのヴァイオリン・ソナタと全く違和感なく共鳴していると感じられたことである。
『フレンズ』で用いられる特殊奏法などの現代音楽の技法は音楽を異化するものではなく、あくまで音色の一種としてあり、それによって作られる静謐な音楽に心地よく耳をそばだてた。
舞台中ほどに垂らされた紗幕の向こう側に奏者が配置され、紗幕に青いオーロラ状の光が投影された『ブルー・オーロラ』、点描音楽的→ヒーリングミュージック風→フリージャズ的な荒々しい音楽(ここで紗幕に投射されたオーロラが激しく動く)→ヒーリングミュージック風→次第に暗闇の中に消えるというこの即興音楽も、極めて楽しく美しいと、何の抵抗もなく受け止められた。
一柳、武満ときてのフランク、この曲目・曲順に全く違和感がない。第2楽章の激しい部分が『ブルー・オーロラ』のフリージャズ風の部分と共鳴し、第3楽章の思索的な調的に複雑な部分は武満と重なり、「クラシック音楽」と「現代音楽」の区別など無くなっていた。
第1部最後、一柳慧がピアノを担当し緊張感に満ちたペルト『鏡の中の鏡』まで、現代音楽は確かにクラシック音楽の血脈を継いでおり、もはやこれら2つを截然と分けることはできない、ということを知らされる音楽体験であった。

 

 

 

《Traditional》
<演奏>
J-TRAD ensemble-MAHOROBA
三味線:本條秀慈郎・本條秀英二、尺八:川村葵山、二十五絃箏:木村麻耶
十七絃箏:吉澤延隆、囃子:堅田喜三郎
監修:本條秀太郎
<曲目>
高橋悠治:『花筺』より「水」
  三味線:本條秀慈郎
高田新司(本條秀太郎):『魚の涙』
  三味線:本條秀慈郎、胡弓・低音三味線: 本條秀英二、尺八、川村葵山
  二十五絃箏:木村麻耶、十七絃箏:吉澤延隆、囃子:堅田喜三郎
J.ケージ:イン・ア・ランドスケイプ
  二十五絃箏:木村麻耶
森円花:『三番叟』祝一柳慧神奈川芸術文化財団芸術総監督就任20周年、大鼓、尺八、三味線、十七絃箏のために
  三味線:本條秀慈郎、 本條秀英二、尺八:川村葵山、十七絃箏:吉澤延隆、大鼓:堅田喜三郎
P.H.ノルドグレン:日本の伝統楽器のための四重奏曲op.19より第5楽章Canto
  三味線:本條秀慈郎、 本條秀英二、尺八:川村葵山
  十三絃箏:木村麻耶、十七絃箏:吉澤延隆
高田新司:『雪火垂』
  三味線:本條秀慈郎、 本條秀英二、尺八:川村葵山
  二十五絃箏:木村麻耶、十七絃箏:吉澤延隆、囃子:堅田喜三郎
B.スメタナ(編曲:中村匡寿):VLTAVA[モルダウ]
  三味線:本條秀慈郎、胡弓:本條秀英二、尺八:川村葵山、
  二十五絃箏:木村麻耶、十七絃箏:吉澤延隆、囃子:堅田喜三郎
一柳慧:『密度』
  三味線:本條秀慈郎、 本條秀英二、尺八:川村葵山、十三絃箏: 吉澤延隆、木村麻耶
本條秀太郎:俚奏楽 花の風雅
  三味線:本條秀慈郎、 本條秀英二、尺八:川村葵山
  二十五絃箏:木村麻耶、十七絃箏:吉澤延隆、囃子:堅田喜三郎

(休憩)クロストーク「そして「Toshi伝説」は続く」
一柳慧、片山杜秀

第2部 “Traditional”, このパートが最も人によって受け止め方が異なるものではなかったか。
〈日本伝統音楽から離れてしまった日本人〉である筆者には時に共鳴し、時に違和感を覚え、〈日本的〉と感じる所もあれば、〈日本的〉ならざると感じる所もあった。
スメタナの『モルダウ』を日本伝統楽器アンサンブルに編曲したものは〈珍奇なり〉の一言で流すことができるが(会場のウケは非常に良かったが)、高田新司(本條秀太郎)の全曲に日本伝統音階を使ったと思しき『魚の涙』『雪火垂』『俚奏楽 花の風雅』の3曲は「日本的とは一体いかなるものか」と考えさせられた。
『魚の涙』の序盤、胡弓から尺八が独奏される所はその日本的哀感に心奪われたが、次第に楽器が増えてアンサンブルが大きくなっていくと先の独奏の哀感はどんどん失われていってしまった。
『雪火垂』、実在する民謡や長唄の旋律が用いられているそうだが、それゆえに和楽器合奏団による豪華かつメカニカルな音楽によって、それら本歌に内在するであろう〈土の匂い〉〈汗の匂い〉が合理化・機械化されて消えてしまったように感じられた。
だが、『俚奏楽 花の風雅』は筆者にも違和感なくスゥッと耳から心と体に入り込み、雅な〈伝統音楽の新曲〉として感じることができた。何が先の2作と異なったのであろうか?
これら高田新司(本條秀太郎)の音楽は現代音楽的技法は使われていなかったが(和楽器で合奏をするというのが十分に現代音楽的かもしれないが)一柳慧『密度』は日本伝統音階のような〈伝統音楽的〉と直感される要素は使わずに、あくまで〈現代音楽〉の手法で書かれていた。しかしその奥からは〈日本伝統音楽〉の魂が聴こえてきた。尺八、三味線、箏(十三絃)2面での複雑なアンサンブルの中に、協奏曲的にそれぞれの楽器の旋律が組み込まれており、技巧に逃げることがなくとも、それぞれの求心力が実に強い。〈日本伝統音楽〉の心を持ったたくましい〈現代音楽〉であった。〈日本的〉な音楽とは何一体なのであろうか?
高橋悠治『「花筺」より水』は彼らしい寂寥感、孤独感に満ちた三味線独奏。
ケージ『イン・ア・ランドスケイプ』は上行反復楽句によるエレジー。
ノルドグレン『日本の伝統楽器のための四重奏曲』より第5楽章は、所々カタコトの日本語のような音が交じり、日本伝統楽器の音が少々場違いに聴こえたことは正直に記しておきたい。
今回の委嘱初演、森円花作品は沈鬱で重苦しい特殊な音階を使っての、不吉とすら感じられる『三番叟』。大鼓の掛け声と打音に先導されてはじまり、最後は大鼓が異常に速く叩かれ、掛け声もその速度に合わさり、合奏全員が踊り狂うようにして終わる。「何か、恐ろしいものを聴いた」というズシリとした感触が残った。
日本伝統音楽にも「過去」だけではなく「現代」がある、そう知らされたステージであった。

《Experimental》
<曲目、演奏>
一柳慧:ピアノ音楽 第1~7
  ピアノ:河合拓始

第3パート “Experimental” では一柳『ピアノ音楽第1~第7』を河合拓始が順番に演奏した。『ピアノ音楽第1』は1959年9月作曲、『ピアノ音楽第7』は1961年3月作曲。「いずれも図形楽譜や言葉による指示で構成された楽譜」(白石美雪のプログラムノートより)により、内部奏法やピアノのプリペアを用いての1作品1コンセプトの作品群である。「肉体的・精神的に演奏が続けられないと感じるまで弾く」(プログラムノートより)『第6』を除いて、沈黙あるいは無音の時間が非常に長く、音楽作品を聴いているというよりは何かの〈儀式〉に立ち会っているように感じた。
作曲当時は、ピアノという西洋クラシック音楽の物質的権化ともいうべき存在を異化するためにこのような〈儀式〉が必要〈だった〉のだろうと筆者は受け止めたが、それは約60年前のこと。今では「ここから日本での実験音楽は始まったのか」と感慨深くはあるが、見聴きして感覚的に〈楽しい〉ものではない。知的には大変興味深いパートであったが、60年という時間による音楽と人間の変貌を感じざるを得なかった。

最後に休憩時間のトークでの一柳慧の言葉で印象に残ったものを記しておきたい(録音などはせずノートのメモ書きに基づくことをご了承願いたい)
「今の音楽を進めていくとか、テクノロジーを進めていくとか、そういったこととは違う世界を考えたい。動物や植物、自然が自由に生きられる世界を」
「テクノロジーに頼ってしまうことに大きな落とし穴があるのではないか。専門家の分業による社会ではなく、皆が等しくある社会が求められている」

単なるお祭りや回顧展ではない、「現代音楽のあり方」をその始まりから現在まで提示し、さらに未来へと歴史のバトンを渡す演奏会であった。

(2021/4/15)