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小人閑居為不善日記|エヴァンゲリオンと3つの歌 | noirse

エヴァンゲリオンと3つの歌
Evangelion and the Three Songs

Text by noirse

※《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》、《君の名は。》、   
《新世紀エヴァンゲリオン》の結末に触れている箇所があります

1

初めてのルーブルは
なんてことはなかったわ
私だけのモナリザ
もうとっくに出会ってたから
初めてあなたを見た
あの日動き出した歯車
止められない喪失の予感

宇多田ヒカル〈One Last Kiss〉の歌詞だ。エヴァンゲリオン・シリーズ最新作、《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》主題歌とあってネットでは様々な解釈が飛び交っているが、そうしたファンの心情を考えると、「私だけのモナリザ」とはまず、ファンにとっての「エヴァ」なのだろう。熱心なファンにとっては、ルーブルに所蔵されているどんな美術品よりも、エヴァの方がずっと価値があるはずだ。

このキャッチーなフレーズは早くもミームになりつつあるが、引っかかったのはルーブルやモナリザというチョイスだ。単純に「世界一有名な肖像画」を比較として使いたかったと言えばそれまでだが、日本人にはルーブルはあまり身近なものではない。14年前、同じく宇多田が提供した《ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序》(2007)の主題歌〈Beautiful World〉の一節をピックアップしてみよう。

寝ても覚めても少年マンガ
夢見てばっか 自分が好きじゃないの
何が欲しいか分からなくて
ただ欲しがって ぬるい涙が頬を伝う

少年マンガならば、日本の、特にエヴァを見に行く層には、ルーブルよりずっと身近だろう。ルーブルという言葉から生じる落差がいい距離感を導き出しているとも言えるし、フランスでも人気のあるエヴァを日本という尺度で測るのがもう間違っているのかもしれない。しかしそれでも、この十数年の間に生じた「少年マンガ」から「ルーブル」の距離感からは、《シンエヴァ》の特質を感じてしまう。

2

《新世紀エヴァンゲリオン》は、もともとは1995~96年にTVで放送したものが原点だ。その後1997年に《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生》、《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを、君に》を劇場公開(通称「旧劇」)、「エヴァ現象」と呼ばれるほどの人気を得るも、一旦はここで完結した。

ところが10年後の2007年、監督の庵野秀明自らの手でリメイクが決まり、《ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序》が公開。その後《ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破》(2009)、《ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q》(2012)を経て(通称「新劇」)、今回四部作の完結編として《シンエヴァ》が公開された、というのが簡単な経緯だ。

さて、この《シンエヴァ》、賛否両論を呼んでいる。その焦点のひとつがラストだ。成長した主人公・シンジが屈託なく未来へ足を踏み出す姿は、いつも物事に悩んで何も決断できず、すべてから逃げ出そうとしてきた旧シリーズの彼とは真逆だ。

一部のファンはシンジがそういう性格だからこそ共感したし、そこまで熱中していない者でもそれこそエヴァの特徴だという了解があった。《シンエヴァ》肯定派はシンジたちが様々な葛藤や困難を乗り越えて成長した点を評価するが、そもそもそんなテンプレな結末はエヴァらしくないというのが否定派の見解だ。

そこで思い出したのは、庵野と並び日本を代表するアニメーション監督となった新海誠だ。社会に馴染めず、意中の人とも結ばれることのない。そうした物語が新海のトレードマークだったが、空前の大ヒットを記録した《君の名は。》(2016)では十八番を封じ、希望をもって社会に参加していく主人公にヒロインとの再会と、真逆の結末を用意した。当然、それまでの新海ファンからは否定的な意見が投げかけられることとなる。

《シンエヴァ》と《君の名は。》は、示し合わせたかのように相似形を描いている。カルト的人気を持った作家が成功を収め、かつてのファンからセルアウトと批判される、これはこれでよくある話だが、ひとつ補助線を引いてみよう。

3

エヴァが放送された頃はどういう状況だったろうか。TV放送から旧劇上映までの1995年から97年は、阪神・淡路大震災やオウム事件、神戸児童殺傷事件などが立て続けに起き、頻繁に関連付けて語られたが、経済動向も忘れてはならない。バブルの余韻はまだ漂っていたものの、就職氷河期は既に押し寄せていて、旧劇上映前後にはデフレに突入。引きこもりやニートという言葉が注目されるようになっていった。

真面目に大学受験や就職活動に取り組んでも、社会の側が受け入れてくれない。こちらが社会を受け入れれば向こうも応えてくれるという戦後日本の「常識」が、エヴァ放送前後には変わりつつあった。そうした不安がのしかかっていた若者が、社会に背を向けてアニメやゲームに没入していこうとも仕方がないことだろう。

一方《君の名は。》が公開された2016年は、売り手市場と言われるほど就職率が向上した頃だ。不況脱出とは言わないまでも、若い世代には未来が明るく映ったことだろう。《君の名は。》のラストは、そうした情勢と同期しているように感じられる。

《シンエヴァ》も同じだ。エヴァは今ではオタク文化の枠を超えた一大コンテンツになっており、放送当時に生まれていなかった世代にも支持されている。そうした層にも作品を届けるのであれば、未来に希望をもたせた結末にするのも充分理解できる(もちろん現在はコロナ・ショックによる社会不安の最中だが、製作期間を考えるとそれを反映させるのは困難だったろう)。

しかし年季の入ったファンからすればどうだろう。バブルに沸いた世代を横目に、就職難やデフレを潜り抜けて何とか生き抜いてきた彼らからすれば、《シンエヴァ》がエヴァの顔をした別の何かに見えてしまっても仕方がないのではないか。

宇多田の歌詞に戻ろう。元手のかからない「少年マンガ」から、敷居の高い「ルーブル」への変化は、そうした機会の格差、世代の亀裂を象徴しているように思える。エヴァンゲリオンは、簡単に手に入る少年マンガで夢を見た世代の隣人から、未来に希望を抱き、海外旅行だって簡単に手が届くと思える若者の作品へと変化したのだ。

4

わたしを月まで連れてって
星々の中で歌わせて
木星と火星の春がどういうものか、この目で見てみたい

TVシリーズのエンディングは、おなじみのスタンダード《フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン》が使われていた。月はエヴァのファクターのひとつゆえそうした理由での起用だろうが、この曲の背景についても補足しておきたい。

作曲されてしばらくのあいだはマイナーな曲だったが、何人もの歌手に歌われていくに従って知名度を増し、1964年のフランク・シナトラのバージョンが決定的となった。当時はアポロ計画の真っ只中。アポロ11号の月面着陸中、船内ではシナトラの歌う《フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン》が流れていた。シナトラも彼らに答え、TV番組でアームストロングやオルドリンたちのためにこの曲を捧げた。つまり同曲は、作曲当時には夢物語だった未来が、実際に現実のものとなったという意味合いを持つのだ。

エヴァTVシリーズの最終回は、主人公・シンジの心の中の葛藤を映像化したものだった。その過程で、あり得たかもしれない世界として、エヴァ本編とはまったく違う学園風景が挟み込まれる。通称「学園エヴァ」と呼ばれるセルフパロディだが、それを通して人には無限の可能性があることを説き、TVシリーズは幕を閉じる。

大量投下された伏線を一切回収せず、物語を丸ごと放棄して終わった最終回は、《シンエヴァ》以上に議論の的となった。そのため旧劇が製作されたが、伏線は一部しか回収されず、バッドエンドとも取れる結末のため(これは精神的に不安定となった庵野秀明の心境も影響していると思われる)、消化不良と判断する向きも多かった。

しかしわたしは、TVシリーズの最終回こそエヴァの本質だと考えている。最終回で投げかけられたのは、何を選び取るのも自分次第だということだ。たしかに《シンエヴァ》の結末は「公式」の回答かもしれないが、とすれば旧劇だって同じだ。《シンエヴァ》が絶対唯一ではない。TVシリーズを踏まえて言えば、「学園エヴァ」だってれっきとした可能性のひとつだ。旧劇と新劇、複数の〈エヴァ〉が完成されたということは、TVシリーズの複数可能性という呼びかけに対して、26年経って公式が応えたと見るべきなのだ。

だから《シンエヴァ》に納得できなくとも、それがエヴァにずっと付いてきたファンに対する否定と思ったとしても、作品を丸ごと拒否する必要はない。エヴァに託した何事かを放棄することはない。《フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン》が夢ではなく現実となったように――そして26年の時を経て、庵野秀明がエヴァを「完結」させたように――その「可能性」は夢物語ではないのかもしれないのだから。

僕の中の可能性
今の僕が僕そのものではない
いろんな僕自身がありえるんだ
(《新世紀エヴァンゲリオン》最終回)

(2021/4/15)

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noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中