辻彩奈ヴァイオリンリサイタル|小石かつら
辻彩奈ヴァイオリンリサイタル
Ayana Tsuji Violin Recital
2021年3月10日 宗次ホール
2021/3/10 Munetsugu Hall
Text by 小石かつら(Katsura KOISHI)
写真提供:宗次ホール
〈曲目〉 →foreign language
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 K. 380
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第7番 ハ長調 Op.30-2
権代敦彦:Post Festum 〜ソロヴァイオリンのための Op. 172
フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調
〈演奏〉
ヴァイオリン 辻彩奈
ピアノ 阪田知樹
圧倒的な技術。これに尽きるだろう。完璧に弾くとはいかなることか、初めて知ったと書いても嘘ではないと思う。ものすごく大きな身体の動きと、弓と弦が触れる部分の繊細さとのギャップに、釘付けになってしまって、目が、ものすごく忙しい。そして、そこから出てくる音の種類の多さに驚く。しかも多彩なそれらが、瞬時に入れ替わるのである。
モーツァルトでは、ピアノの阪田とのバランスが、完璧だった。ヴァイオリンだけが主役ではないことを、きっぱりと提示した上で、自由なヴァイオリンを堪能することができるのだ。ヴァイオリンにからみつくように主張するピアノは、次から次へと音がすすんで、湧き立つようにパッセージが立ち上がる。そうして、上述のとおり、圧倒されつつ忙しく過ごしていたら、第二楽章の辻のロングトーンの、ふくよかな響きが、人間のあたたかさをたたえて迫ってきて、ほんとうにごくりと、大きく息を飲んだ。こんなモーツァルトがあるのだ。
続くベートーヴェン。またもや技術に圧倒される。ヴァイオリンの主張が前に出るが、それを、ピアノが確信をもって支える。モーツァルトでは2つの楽器が混じり合っていたが、ベートーヴェンでは2人が共働で世界を構築していく。この、モーツァルトの作品とベートーヴェンの作品への接し方の差も、明確だ。そしてモーツァルトと同様、第二楽章がすばらしかった。準備された完璧さとあたたかい響きとの共存。これが魅力だと感じた。
権代敦彦の「Post Festum〜ソロヴァイオリンのための」は、アンコールピースとして、辻が委嘱したもの。なにより、「アンコールピースを委嘱する」という発想に膝を打った。オーケストラの演奏会でコンチェルトを弾いたあと、無伴奏で弾く作品を、自分のためにつくってもらうのである。それに応える権代も粋だ。どんなコンチェルトの後に弾くのが最適か、というはからいと共に、3分程の作品を3曲まとめてひとつの作品としている。しかもタイトルは「祭りの後=後の祭り?」だと言う。ニヤニヤするしかない。本来、アンコールとして独立して演奏される作品だが、3曲まとめた全曲として観客の前で演奏されるのは、この日が初めてだったとのこと。1曲ごとの時間が短い故か、狐につままれたような感触があるにも関わらず、ヴァイオリンひとつで限りなく高揚できることに驚き、浮遊する感覚に囚われた。
フランクは、辻の大きな動きとよく合っていた。膝からしなやかに踏み込んで、ぐいと伸びる。ヴァイオリンに覆いかぶさるように前屈みになる。それらが、自然に弓に乗る。フランクの音色が床から伸びる。ちょっと控えめそうに見える(けれども芯が太い)阪田のピアノとの混じり合いは、豪壮でありつつ妖艶で、しかも儚く、うねりながら天へ向かう竜を思わせた。
最後に、辻が放つオーラについても記しておきたい。演奏会が始まる時、舞台に姿がちらりと見える、まさにその瞬間から、存在感が際立っていた。舞台全体の空気の方向性を変えるほどの存在感である。地に足がついて、一点を見据える。弓と弦の接点には揺らぎが微塵も無い。骨格のしっかりした演奏は、ここからくるのだろう。そしておそらく、辻は自分に足りないものを知っている。私にはそれが何かはわからないけれども、自分をどこか遠くから眺めることのできる視点が、次なる変化をもたらしてくれるのだろうと感じた。
(2021/4/15)
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<pieces>
Mozart: Violin Sonata Es-Dur K. 380
Beethoven: Violin Sonata No.7 c-moll op. 30-2
Atsuhiko Gondai: Post Festum for violin Op.172
César Franck: Violin Sonata a-moll
<players>
Violin, Ayana Tsuji
Piano, Tomoki Sakata