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パリ・東京雑感|男尊女卑の風土が醸す御殿女中的妬み心 |松浦茂長

男尊女卑の風土が醸す御殿女中的妬み心
The Twilight of the Entrenched Male-dominated Power Structure?

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

もう20年近く前のことになるが、僕がフジテレビのパリ支局長をしていたとき、日本から報道局長とニュース編集長がやって来て、特派員M(女性)を連れてノルマンディーに出かけた。特番の企画を練るにしては妙に静か。マル秘めいた気配があった。……よほど特殊な極秘計画でもあるのかと、東京に探りを入れてみて驚いた。なんと局長出張の目的を知らなかったのは僕ひとり。真相は、Mが会社をやめると言い出したので、局長自らパリまで引き留め工作に来たのだった。「松浦に知られると、Mの気持を悪い方向に引っ張りかねない」とでも思い込んだのだろう。僕は見事に蚊帳の外に置かれてしまったのだ。
フジテレビは以前からパリに女性特派員や女性アナウンサーを送り込んできた。それも選り抜きの優秀な女性たち。でも、パリで1年も生活すると東京に戻るのがいやになるらしく、次々と退社してしまった。以前、モスクワからパリに出張したとき、Mの3代前の女性特派員から「国際弁護士になりたい。フジテレビをやめようかしら」と相談を受け、「それは素晴らしい」と激励したことがあった。
フジテレビが特別女性に冷たい職場だからやめたくなるというのではないだろう。社会全体、日本とフランスの落差があまりにも大きい。パリでは女性がこんなに楽に、生き生きと、自由に仕事できるのを知ってしまったのだ。日本に戻ることを考えると、息が詰まるような、重苦しさを感じるのだろう。

パリには頭の良い自己主張のはっきりした女性(森喜朗氏に従えば『わきまえないおんな』)が異常に多い。だからテレビ番組のコーディネータを探したり、ガイドさん、翻訳家を探したりするには苦労しない。完璧な仕事をする女性たちがいくらでもいて、買い手市場なのだ。
安倍首相のとき、パリに『憲法カフェ』が生まれ、山口二郎さんなども講演に来てくれたので、僕も出席させて貰った。男は数も少なく存在感希薄だったが、食事中に周りの女性たちと話してみて、話題の豊富さ、知識の深さに驚嘆した。大学教授、美術評論家といったプロ知識人の話が面白いのは当たり前だが、主婦と称する方の話も面白い。フランス人と結婚して家庭を持てば、フランス式にお客を招かなければならない。オードブルからデザートまでを用意した上、深夜まで続く食卓の会話をはずませる重責が主婦にかかっているのだから、会話力に磨きがかかるはずだ。個性的で表現力豊かな女性は日本にいて『わきまえない』と煙ったがられるより、フランスに脱出してのびのびと生きる方を選ぶ。貴重な才能の流出が起こっているのだ。
突拍子もない比較かも知れないが、ロシアからの才能流出を連想した。フランスで出会うロシア人には、モスクワではお目にかかれないタイプ=貴族的インテリゲンチャ型が異常に多い。彼らは革命を逃れてきたエリートの子孫達であり、この頭脳大移動のおかげで、たとえば20世紀ロシアの哲学・神学はロシアではなくフランスで花開いた。日本もこのままだと、「東京でお目にかかれない個性的日本女性に会いたければフランスへ」という事態になりかねない?

女性にとってフランスの方が生きやすい理由は何か?
1)超過勤務がない。
週35時間労働で、1週間の上限44時間と決められているから、我がアパートの医者も6時過ぎに帰って来る。それからお客を招いたり、ルーブルの美術史講座に出かけたり、たっぷり余裕がある。朝早くパパが子供とおしゃべりしながら幼稚園に連れて行ったり、夕方早く父親が子供を学校に迎えに行ったりする光景をよく見かける。

労働時間の法律は努力目標ではない。フジテレビでも、上限を超えそうになるとあわてて休ませ、戦々恐々として調整した。うっかり上限を超えると、給料計算を任せている会計事務所から、この状態では給料表が作れないと警告してくる。「勤務時間を書き換えるとあなたが実刑を食らいますよ」と弁護士に脅かされたこともある。
我が支局のような13人の小組織でも、職場代表を選出しなければいけない。彼は、全員(ほとんどが女性)の不満を聞いて、毎週僕に突きつける。違反があれば労働監督局に報告するのも彼の仕事だ。ボスからみれば労働監督局のスパイみたいなものだから、「職場代表は解雇できない」法律によって守られている。実はこの職場代表Sと日本から来た特派員の関係が険悪になり、本社からSを解雇しろと言ってきた。Sも解雇の条件を受け入れたが、労働監督官の許可がなくてはクビに出来ない。労働監督官に「○ヶ月分の解雇手当を出します。本人も納得し、辞めたいといっています」と正直に説明したのでは絶対許可が出ないので、僕とSそれに双方の弁護士の4人で、イラク侵攻とニュース番組を織り込んだ壮大なストーリーを組み立てて訊問に備えた。当日、聖職者のように厳かな労働監督官の前での弁明は、パリの任期中、最高に緊張させられた1時間だった。

2)男が料理上手。
フランスの家庭に招かれ、料理を作るのが男だと例外なくおいしい。完璧な日本語をしゃべるシンガポール出身のポリーさんの家に招かれたら、ご主人がエプロンを掛けて、精密機械を仕上げるみたいな細かい作業をしていた。美しいオードブルに専念していたのである。彼の職業は刑事。犯人と取っ組み合ってズボンを引き裂かれた話など、武勇談を聞かせて貰いながら、会席料理みたいに繊細な作品を食べるのはミスマッチで可笑しかった。
奥さんが作る料理は必ずしも傑作と言えないことがあるが、日本女性がフランス人と結婚した家庭に招かれると、とびきりおいしいものにありつける。料理上手の才能も流出してしまったようだ。
もっとも、僕がパリに留学した1967年頃のフランス人は家に帰って昼食をとる習慣だったから、マダムたちの負担は大変だったろう。のちに厚相として妊娠中絶を合法化し、フェミニストに感謝されるシモーヌ・ヴェイユは、司法省に勤務しながら毎日家族に昼食を食べさせたそうだ。

3)サロンの伝統。
ケネス・クラークに案内して貰おう。

ジョフラン夫人のサロン

男性的な本質と女性的な本質を釣り合わせることが、文明にとって絶対不可欠であると私は考えます。フランスの女性たちは、サロンという18世紀のあの珍しい制度を創り出しました。ヨーロッパ中から引き付けられた知的な男女が才長けたホステスの客間で出会ったあのささやかな社交の集いは、40年間ヨーロッパ文明の中心をなしていました。
彼女らは、いかにしてその役割を果たしたのでしょうか。人間的な共感によって、人々をくつろがせることによって、機転によって、その役割を果たしました。孤独はむろん詩人や哲学者にとって必要ですけれども、活力源となるような考えは会話から生まれますし、会話は高慢ちきな人間がまじっていない少人数の仲間うちではじめて花を咲かせ得るのです。そういう状況は、宮廷内には存在しません。(ケネス・クラーク『芸術と文明』)

4)レディーファースト。
エレベーターに乗り降りするのは女性から。レストランのテーブルでご馳走が並ぶのは女性から……。
男は何をするにも周りを見渡し、優先すべき女性がいないか確かめてから行動しないと恥をかく。日本で身についたがむしゃらに突進する癖が、パリで暮らすと矯正され、一拍おいて動く心の余裕が身につく。(ロシアではもっとストレート。僕がスキーを履いて森の中を散歩していると、向こうから女性が滑って来る。脇によけたら僕の技術ではひっくり返るに違いないので、そのまま前進すると「男は女にゆずるものよ!」と鋭い声で叱られた)
ロンドンのBBC海外放送に出向していたとき、日本語放送の責任者だったトレヴァー・レゲットさんに、「武士道と騎士道の違いは何ですか」と聞いたことがある。彼は柔道黒帯で日本武術に詳しく、『紳士道と武士道』の著者。レゲットさんによると一番大きな違いは女性への態度だそうだ。騎士には女性を守る崇高な義務がある。いや、守ると言うより、心を寄せる貴婦人への度外れの絶対服従。たとえば、こんな調子だ。

ある貴婦人が、彼女に愛を捧げる3人の騎士に、日ごろ身につけている肌着を贈った。夫の催す馬上試合に、ヨロイのたぐいを一切つけず、くさりかたびらの代わりにただこれだけを着て、出場して欲しいというのである。
3人のうちふたりは、恐れをなして、引き下がってしまった。3人目の貧乏騎士は、夜その肌着を胸に抱きしめ、情熱をこめて接吻したという。当日、彼はこれを着こんであらわれた。肌着は破れちぎれ、彼の血に染まった。彼は深手を負った。
人々は、彼のなみはずれた勇敢さを賞賛し、貴婦人は彼に心を許した。
愛を勝ち得た騎士は、血染めの肌着を貴婦人に送り返し、祝宴の席にその血染めの衣装をまとって出るよう求める。彼女はそれをやさしくかき抱き、要求された通りの恰好で宴席にあらわれた。(ホイジンガ『中世の秋』)

復活したイエスに触れようとするマグダラのマリア(フラ・アンジェリコ)

騎士道の女性崇拝は、キリスト教と関係あるかも知れない。イエスの時代のイスラエル人は男尊女卑だったはずだが、福音書に描かれたキリストは女性のもつ勇気・ぶれない忠実を最大限に引き出す良き教師だ。イエスが捕まると男の弟子達はさっと逃げ出したのに、女たちは十字架の下で泣き続けたし、香料をもって墓を訪れたのも女=マグダラのマリア。復活したイエスに最初に会ったのも彼女であり、罪の女とされるマグダラのマリアにイエスは最高の名誉を与えたのである。彼女は南仏に渡って来たと伝えられるためもあり、フランスでの人気はすごい。フランスで最も美しい建築の一つ、ヴェズレーの聖マドレーヌ大寺院やパリの中心にあるマドレーヌ寺院など中世から近代までマグダラのマリアに捧げる大教会が建てられてきた。

ところで、女性が生きにくいと感じる国は、男にとっても空気がカラッとしない。福沢諭吉はそんな空気の違いを敏感に感じて、日本は「猜疑嫉妬」の心が深い「御殿女中根性」の国と喝破した。文語の原文は読みづらいので丸山真男の要約を借りよう。

孔子は「女子と小人は養いがたし」と嘆いたけれど、女子や小人の輩を束縛して彼らの働きに少しも自由を得させなかったために、怨望(ルサンチマン)の気風が生じたので、孔子の嘆きは自業自得ではないかというわけです。人間においてその働きに自由を得ないときは、必ず他人を羨み恨むようになる。そこに怨望が出てくる。その最たるものが大名の御殿女中ということになります。
この御殿女中的社会では誰が殿様に気に入られるか、立身するか、その見通しが全く利かない。ただご寵愛を待っているにすぎない。見通しが利かないから立身する方法を客観的に明らかにできない。他人がお引き立てを受けても、客観的に認識できる方法がないのだからそれに学ぶこともできない。そうすると、ただ羨むだけ、嫉むだけとなる。
英米にもケチな人間、乱暴な人間などいろいろ居てその風俗は決してよいとはいえないが、ただ、怨望隠伏だけは日本よりずっと少ない、ルサンチマンが少ないと言っています。(丸山真男『「文明論の概略」を読む』)

お殿様のご機嫌に一喜一憂し、「忖度」に全精力を注ぐ今の高級官僚は、御殿女中根性のお手本ではないか?諭吉の言う怨望はもちろん維新前ガチガチの身分社会の精神状況を指していて、そこから脱出するためには、民選議院と出版言論の自由が大切だ、と諭吉は文明の進歩を説いたのだ。ところが、国会と自由な言論が実現しても、陰湿な空気はしつこく今も漂っている。
でも、森発言に対して、男も女もあらゆる年齢層の人々があれほど強く反発したのは、うれしい驚きだった。日本がルサンチマンの少ないカラッとした社会に変わるのもそう遠くないのでは?希望を持とう。

(2021/3/15)