Menu

雅楽-現代舞踊との出会い|能登原由美

雅楽-現代舞踊との出会い
ROHM Theatre Kyoto Traditional Theatre as Contemporary Performing Arts Series Vol. 4: Gagaku

2021年1月10日 ロームシアター京都
2021/1/10 ROHM Theatre Kyoto

Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 山地憲太/写真提供:ロームシアター京都

【第一部】開館5周年を寿ぐ雅楽演奏    →foreign language
演奏:伶楽舎、音輪会

芝祐靖作曲「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」
双調音取/催馬楽「新しき年」
声明「普賢讃」/舞楽「陵王」

【第二部】『残影の庭―Traces Garden』
演奏:伶楽舎
演出・振付:金森穣
出演:Noism0(ノイズムゼロ)

武満徹作曲「秋庭歌一具」(伶楽舎+Noism0)

 

「残影の庭」―。その庭に静かに広がる音の輪をかき消さんばかり。3人の男女が肢体を大きくくねらせ、線や弧を描く。その度にひるがえりはためく衣の裾の、柔らかく明滅する色と色に管弦の音(ね)は溶け込み、やがて霧消していく。からん…ころん…。鳴っている。鳴っているけれども聞こえない。何も聞こえない。目の前にあるのはただ、暮色蒼然たる秋の庭の静けさばかりである。

ロームシアター京都が行なった開館5周年記念の公演。日本古来の音楽である雅楽に現代舞踊を掛け合わせた。舞台芸術全般に力を入れる同館ならでは、いや、古きものと新しきものとを巧みに和合させていく京都という土地ならではと言ってもよい。白羽の矢が立ったのは気鋭の舞踊家、金森穣。自らの率いるNoism0と、古典から現代雅楽まで幅広い演奏を行う伶楽舎とともに、「残影の庭―Traces Garden」と題した舞台を作り上げた。

その異色のコラボレーションの源泉として選ばれたのは、武満徹の《秋庭歌一具》。1970年代に創作された新作ながら、すでに雅楽のレパートリーとして名高いもの。

「秋庭」を司る楽人たちが中央に、その後方と両側面に「木魂」を象る楽器群が配される。前方中央に設えられた方形の、のちに舞踊の場となるこの空間も「庭」の一部なのであろう。時に現れては消える一本の老木がそれを物語る。けれども、背後で奏される音楽が具体的描写というより象徴的表現であるのと同様、ここで繰り広げられる演技も多分にシンボリックなものだ。

幕開けとともに踊り手が「庭」に現れる。彼らは直列や交差、時にリフトも交えるなど様々に形を変えつつ縦横無尽に行き来し、円やかに舞い交じる。激しい跳躍こそないものの、緩急を伴いながら全身を使って見せる動きは、なんとダイナミックなことか。

やがて舞台のあちこちに散らばっていた小さな炎が緩やかに上空へ昇っていくと、ほどなくして天井から紅い衣が降りてきた。中央にいた女性がまとうと風に揺らめくひとすじの炎のように、華やかな舞を見せ始める。残る2人も大地を思わせる濃茶と黒の衣裳を身に着け、紅衣の女性と絡み合う。

 

それが炎であるならば、世界に光を与えると同時に闇をも作り出す。なるほど。ここでは影も光と同様、重要な演じ手だ。光に照らし出された舞台上の人物と、それが生み出す影。影は時に主(あるじ)を置き去りにして自らの意志で自由に動き出す。

ふと、舞台から人影が消えた。不意をつくように時折響き渡る音だけをあたりに残して。目の前の空間はもぬけの殻だ。何もない。いや、ないわけではない。「かつていた」その存在が、瞼の裏から浮かび上がってくる。彼らは確かにそこにいる。その「不在の在」は、四方から浮かび上がる音霊によって次々と呼び覚まされる。

こうして、「残影の庭」は現れた。次に踊り手が現れるまでの束の間のことではあったけれども、不在であることによって、その存在が露わにされたのだ。なんという逆説だろう。

だがそれだけではない。これほどの動態が目に飛び込んでくるのに舞台上には時が止まったかのような静けさが漂っている。全身を使って目まぐるしく形を変えていくその姿は、先に上演された古典舞楽のゆったりとした動き、そこに見られる鷹揚な時間の流れとは対照的ですらある。何よりも、あたりは楽の音に満ちている。にもかかわらず、眼前に広がるのは深閑とした「音のない世界」である。あるのにないと感じるこの光景。なんと説明すれば良いのだろう…。

と、ある情景が頭をかすめた。

雨やんで 庭しづかなり 秋の蝶

永井荷風が詠んだこの句。花の時期も終わり、雨で全てが洗い清められ何も残されていない秋の庭に、閑雅に舞う一匹の蝶。ひらひらと絶え間ない動きにもかかわらず辺りは静まり返っている。今、目の前で繰り広げられているのはまさにこの光景ではないか。その羽の動きが優雅であればあるほど、それに意識を向ければ向けるほど、あたり一帯を包み込む静けさばかりが一層冴え渡る。アイロニカルではあるけれども、いやそれだからこそ、その存在がより愛おしく肌に迫ってくるのである。

では背後に鳴り響く音は何なのか。単にその舞を支えるためだけのものなのだろうか。いや違う。それらは物音ひとつしないひっそりとした庭先で、ふとした瞬間に気づく無数の生命の息吹に等しい。そうだ、今しがたここに現れたのは、雨後の庭に舞う蝶が露わにした静寂であり、森羅万象の世界だったのだ。

****

最後に、公演全体を俯瞰しておこう。

この演目に至る前、第一部では雅楽の古典と新作、声明とのコラボレーションや舞楽の名作「陵王」などが演じられた。いずれも興味深いものではあった。が、それは理屈としてのことであり、体の内部にほとんど残らなかったと言わざるを得ない。ひとえに、第二部の印象が鮮烈だったのもあるけれども、やはり西洋音楽で育ちそれが習慣となっている今の私には、日本の伝統音楽を受けとめるだけの感性がまだ養われていないということなのだろう。と同時に、その第二部の楽曲である武満の作品《秋庭歌一具》の性質に起因しているようにも思える。というのも、この舞台の委嘱を引き受けた金森自身も述べているのだ。「雅楽で創作することが前提」であったために様々な雅楽作品を聞いたが、いずれも「インスピレーションが湧かなかった」こと。ようやくこの《秋庭歌一具》に巡り合ったことでこの舞台の創作に至ったことを。

現代の多くの日本人の耳には、千年以上も昔の古代から受け継がれてきた雅楽はもはや、異質な響きをもつと言わざるを得ない。が、それに比べるとたかだか50年前、言わば、我々と「同時代の」者によって生み出された新たな作品であれば、こちら側の耳を拓く何かがあるのではないか。もちろんそれは、西洋音楽でもないが「日本古来の音楽」でもない。けれども、この楽曲が世界の様々な地域で演奏されると同時に、日本でも度々上演されていることが、何よりもその証左ではないだろうか。

もちろん、こうした新作を通して、いずれその源流にまで遡らんとする欲求が出てくる時が来るであろう。が一方で、こうした創作舞台をもっと見たい、西洋でも日本でもない何か新しいものを、もっと生み出してほしいとも思う。なんとも贅沢な願いだ。だが不遜と思いつつも、この舞台を思い返すにつれそんな考えがふつふつと沸き起こってくる。

関連評:雅楽―現代舞踊との出会い|チコーニャ・クリスチャン

 

(2021/2/15)

—————————————
〈cast〉
Music:Reigakusha, Otonowakai
Directed and Choreographed by Jo Kanamori
Performed by Noism0

Part 1: Gagaku Celebrating Five Years of ROHM Theatre Kyoto
Performers: Reigakusha, Otonowakai
“Kinkarinzetsu” by Sukeyasu Shiba (Reigakusha)
Sojononetori, Saibara “Atarashiki Toshi” (Reigakusha)
Shomyo “Fugensan,” Bugaku “Ryoo”

Part 2 : Zanei no Niwa―Garden of Traces
Music Performer: Reigakusha
Directed and Choreographed by Jo Kanamori
Dance: Noism0
“Shuteigaichigu” by Toru Takemitsu (Reigakusha + Noism0)