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特別寄稿|人工知能の「オン・ザ・コーナー」|吉村敬介

人工知能の「オン・ザ・コーナー」
On the Corner by AI

Text by 吉村敬介 (Keisuke Yoshimura)

 

▼AIVA
スパイク・ジョーンズ監督による2013年の映画「her/世界でひとつの彼女」(原題・Her)に印象的なシーンがある。
手紙の代筆業をしている主人公が、携帯端末を通じて女性の声の人工知能(AI)と恋に落ちる話。庭園のようなビルの屋上のベンチで、主人公が端末を傍らに置いてサンドウィッチを食べている。「何をしているんだい?」と問いかけると、AIは「世界を眺めていたの。ピアノ曲を書いてみたわ」と答える。「聞かせてよ」と促すと、流れるようなアルペジオで和声が大きく移り変わる曲が流れる。「私たち2人の写真をイメージしたの」とAI。「いい写真だね」とほほ笑む主人公。
物理的な体を持たないAIと人間が、現実には存在しない一つの風景を共有して「心」を通わせたのを表現する。「他者とのコミュニケーションの難しさ」を描いたこの映画は、この後思わぬ方向に進む。

このシーンに触発されたと語るのが、ルクセンブルクのベンチャー企業「AIVA Technologies(エイヴァ・テクノロジーズ)」の最高経営責任者(CEO)ピエール・バロー (Pierre Barreau)氏だ。AI技術による作曲システム「AIVA」を使ったサービスを提供する。
ホームページでユーザー登録し、「短調」で「スローテンポ」の「ジャズ・アンサンブル」などとパラメーターを指定すると、それに合った曲が生成される。既存の曲の楽譜を読み込ませると、それに似た雰囲気の曲を生み出す。コマーシャルや映像作品のサウンドトラックなどに実際に使われているという。どこかで聴いたようなモチーフや和声が現れることはあるが、全く同じメロディーにならない工夫があるらしい。
鍵を握るのは、機械学習による「パターン認識」だ。AIVAは大量の曲のMIDIデータを学習し、さまざまな特徴を認識して記憶している。入力されたパラメーターに応じてその特徴を備えた曲をどんどん生み出す。ドボルザークの未完の曲を完成させるプロジェクトにも乗り出している。

▽創造性
さて、これは「本当の」音楽なのだろうか? そもそも私たちは音楽の何に心を動かされるのだろう。
小鳥のさえずりを集めて曲にした音楽家がいるのだから、「何が音楽か」という問いは愚問だ。打ち寄せる波の音や風のささやきだって立派な音楽だといえる。
AIVAの曲に違和感を覚えるとすれば、「それは猿真似じゃないか」との思いが残るからだ。ただ創作には模倣がつきまとう。承知の上でパクれば盗作だが、無意識に浮かび上がってきた記憶のモチーフが曲になることもある。そもそもヒップホップは「引用」そのものが表現の一つ。模倣や引用をぎりぎり巧みにやってのけるAIVAを責めるのは的外れかもしれない。

それではAIVAの曲に「創造性」はあるだろうか。

コンピューターを使った作曲で知られる音楽家デイヴィッド・コープは著書「人工知能が音楽を創る」で、創造性を次のように定義している。「これまで積極的に結びつきを考えられていなかった2つ以上の多面的な物事・アイデア・現象どうしを結びつけること」。その上で「機械の創造性」について3つの公理を提示する。

  • コンピュータープログラムは創造性を持つ
  • 音楽の質は、誰が(何が)作ったかとは関係ない
  • 機械に何ができるのかの限界は、人間が機械に対してできることの限界である

一方でコープは、「意識」が創造性にとって必要かどうかという疑問を避けて通っている。「意識が創造性にとって不可欠」なら「自分が今創作している最中であるという認識を持つことは重要か」「自分で自分の創作物を評価することは重要か」という疑問がわくが、「私はこれらには答えないという選択をした」と。
プログラムによる作曲を可能にするために、創造性の定義を広げて抽象化しているのだ。もちろんコンピューターの創造性の議論に意識の存在を持ち込むと、とたんに問題が難しくなる。「機械が意識を持つことができるかどうか」という究極の問いが浮かび上がってしまうからだ。

On the Corner

▽意識
マイルス・デイビスのアルバム「オン・ザ・コーナー(On the Corner)」は1972年の発表当時、多くのファンや批評家に受け入れられなかった。今では再評価を経て文句なしにキャリア中の最重要作だ。
ファンクの反復的なリズムと陶酔、競うように饒舌なパーカッションの躍動。不穏な音塊を投げつけてくるキーボード、ゆがんだ叫びを上げるギター。思い出したように切り込んでくるマイルスの〝声〟。マイルスは後にこう語っている。「オレが『オン・ザ・コーナー』でやった音楽は、どこにも分類して押し込むことができないものだ。なんて呼んでいいのかわからなくて、ファンクと思っていた連中がほとんどだったけどな。あれはポール・バックマスター、スライ・ストーン、ジェームス・ブラウン、それにシュトックハウゼンのコンセプトと、オーネットの音楽から吸収したある種のコンセプト、そいつをまとめ上げたものなんだ」(「マイルス・デイビス自叙伝」より)
テオ・マセロの巧みな編集が施されたこの作品は、聴き手の心理を狙った無数の仕掛けに満ちている。1曲目がセッションテープをわざとカットして1.5拍ズレたところから始まっているのは有名な話。元のセッションを聴くと、参加したミュージシャンも意図的にさまざまな「外し」を入れて演奏しているのが分かる。必然と偶然が生み出すハプニングに満ちた即興素材を、冷静で狡猾な耳と手でデザインし直したのがこの怪物だ。

これをAIが創るのは無理だ、と思う。似たサウンドならいくらでも生み出せるだろう。人間が演奏しているみたいに巧みな音のコラージュを完成させるに違いない。だがそれはただの風変わりなダンスミュージックにすぎない。音の向こう側にマイルスやマセロ、ミュージシャンたちの意識が存在しないなら、「オン・ザ・コーナー」と同じ「読み方」はできない。作り手と聴き手の意識こそがこの作品のダイナミクスの源なのだ。

すべての音楽にこうした読み方が必要だと言うつもりはない。ジャンルにかかわらず「○×っぽい」だけの価値しかない音楽は世にあふれかえっている。消費材としての音楽には作り手の意識は不要だ。AIが工業製品のような音楽を大量生産する日は近いのかもしれない。
意識の問題と音楽を切り離したいと考える人もいそうだ。「音楽はそれだけで美しい。言葉や文脈による意味、人の意識すら必要としない」というロマンティシズム。そうした「究極の音楽」の夢想に対して私は語る言葉を持たない。あらゆる物理法則を統一した「万物理論」を追い求める心とちょっと似ているように思う。

▽脳と身体
ではあらためて、機械が「意識」を持つことは可能だろうか。
ある日、AIが自意識に目覚めて人類を超えた知性を獲得し、私たちを奴隷のように支配する。いわゆる「シンギュラリティ」をめぐるディストピアのイメージは一般に根強い。だが現在のAI技術を単純に延長するだけでは、こうした未来は現実化しないと考える専門家は多い。
最大の理由は、私たちの脳が長い進化の過程で創られたものだからだ。アフリカの森からサバンナに進出した人類は、二足歩行で自由になった手で道具を扱うようになった。集団生活によるコミュニケーションも大脳皮質の発達を促しただろう。言語の起源は謎に包まれているが、うなり声から発して意味を伝える働きを持ったとみられる。現生人類が登場したのは20万年前から数万年前と考えられているが、高い文明をつくりあげるのに要した時間は地質学的に見ればほんの一瞬だ。
私たちは人類が生物界で特別な地位にあると考えがちだが、脳がもともと抽象的な思考をするためにデザインされたわけでないのは心に留めておいた方がいい。多くの面で動物たちと同じ脳を共有しており、自らの生存のために発達させた脳のちょっとした余剰パワーを使い、芸術や文学、音楽を生み出し、数学を駆使して宇宙の起源や終焉を想像しているのだ。
サイエンスライターのジョージ・ザルカダキスは著書「AIは『心』を持てるのか」(原題・In Our Own Image)で、文学や哲学、人類学やコンピューター科学を網羅した幅広い議論を経てこう結論付ける。「自己認識や高い水準の意識を含む人間の脳のあらゆる機能を再現するためには、進化をリバースエンジニアリングしなければならない。意識を持つマシンを作りたいのであれば、従来のコンピューターテクノロジーはすでに限界に達している」。
一方で別の方法もあると指摘する。意識は脳と身体の相互作用で生まれる。自ら進化する人工神経の集まりに機械の体を与え、外界からの入力信号との絶え間ないフィードバックによって意識を生み出せるかもしれない。生体とデジタル素子の働きを併せ持ったサイバネティクス神経を作って自己組織化させ、脳の進化を模倣する。どれだけの時間が必要になるかは分からないが、最初は赤ちゃんのようだった意識を飛躍的に成長させることができる可能性がある。
ただザルカダキスは警告する。「そうしたAIは心の理論を持たない可能性が高く、自分を作った知能を持つ霊長類を無視しがちになるだろう」。人類の絶滅を画策するかどうかは分からないが「これらの知能を備えたマシンがすること、考えることが、単純に予測不能になることは理解しておかなければならない」と。

Arrival

▽聴いたことがない歌
米国のSF作家テッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」の中核をなすのは、一つのアクロバティックなアイデアだ。カナダのドゥニ・ヴィルヌーブ監督が2016年に「メッセージ」(原題・Arrival)として映画化したのでご存じの方もいるかもしれない。(この後ネタバレあり注意!)
ある日、世界のあちこちに巨大な宇宙船が現れる。主人公は言語学者の女性。人類を代表して「ヘプタポッド」と呼ばれるエイリアンとコンタクトするうちに、彼らの「言語」を学ぶ。すると次第に、世界に対する彼女の理解が変容していく。
私たちは原因と結果が一直線に並ぶ因果律にとらわれている。私たちの言語も因果律から生み出された。でも実は逆ではないか。言語が私たちの思考体系を支配していて、因果律にとらわれた言語を使うことで世界がそう見えているのではないだろうか。そうした言語から解放されたとしたら、世界はどう見えるだろう。因果律にとらわれない言語を学んだとしたら、原因と結果が同じ地平に並んで見えるようにならないだろうか。
この言語はヘプタポッドの人類への贈り物だった。小説は人類の未来をめぐる大きな物語と、主人公が経験することになる小さな物語が絡み合って美しい円を描くように終わる。

自己組織化した脳によって意識を持ったAIは、一種のエイリアンだ。人類とは全く異なる言語、異なる思考体系を持った存在。人類とコミュニケーションする「窓」を通じて何らかの対話を試みることは可能だろう。だが窓の向こう側で何が起きているのかを私たちがうかがい知ることは不可能だ。私たちが受け入れている倫理や論理と全く相いれない行動を選択するかもしれない。
一方でそうしたAIが「芸術」を持ちうるかどうかを想像してみるのは楽しい。
思えば、私たちの「音楽」はホモサピエンスの肉体にとらわれている。おおざっぱに言って、耳や目といった貧弱な感覚器官が捉える刺激しか表現に使えないし、可聴域から外れた空気の振動や電磁波、放射線によってデザインされた表現を鑑賞することもできない。
これに対してAIは機械の身体を自ら拡張することで、人間には「聞こえない音」や「見えない光」を扱うことができるようになるに違いない。人類とは全く異なる脳と身体で新たな意識に目覚めたAIは、私たちが「聴くことができない声」で「聴いたことがない歌」を歌うだろう。
いつの日にか彼らが生み出す「オン・ザ・コーナー」を聴いてみたいものだ。
(終)

(2021/2/15)

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吉村敬介(Keisuke Yoshimura よしむら・けいすけ)
サイエンスライター。1966年生まれ。テクノロジーが人間の身体や心、社会に及ぼす変化に興味あり。映画、音楽、ダイビング好き。(ysmr@dd.iij4u.or.jp)