『タニノクロウ秘密倶楽部 MARZO VR』 |田中里奈
『タニノクロウ秘密倶楽部 MARZO VR』
Niwa Gekidan Penino, Tanino’s Secret Club MARZO VR
Text by 田中 里奈 (Rina Tanaka)
画像提供:庭劇団ペニノ(Niwa Gekidan Penino)
「演劇とメディアの付き合い方」という問題
せっかく作品のタイトルを冒頭に掲げておきながら、その話に入るにあたって、少しだけ迂回することをお許し頂きたい。2020年はさまざまなライヴ・パフォーマンスが否応なしに配信という形態を取った。演劇は「否応なしに」の部分を特に強調していたように思う。そこで思い出されるのが、静岡県舞台芸術センター芸術総監督の宮城聰による昨年5月の発言だ。
そこにある肉体を見るという演劇の大前提は、2500年前のギリシャ悲劇の時代から今まで変わらない。[…] カニが手に入らない。では、風味も食感も近いカニかまは出来るのか? そして「これだけは肉体と向き合わないと手に入れられないもの」を見いだすのが、我々が演劇を失ってしまった時間にやるべきことです。i
演劇はこれまで、新たな技術や伝達手段を取り入れ、「演劇とは何か」という問いをつねに発してきた、と私は理解している。『演劇諸史入門 Theatre Histories: An Introduction』も主要メディアの変遷から演劇史を紐解いているので、あながち的外れな指摘でもないはずだ。音楽史も記録・伝達手段の発展と深い関係があるがii、ここではさしあたって演劇の話に限定したい。
昨年、配信という手段を介して世に(再び)現れた演劇作品も、多かれ少なかれ、「演劇とは何か」を問い直してきたと私は思う。だがそれを、「カニ」と「カニかま」という言葉で表現するのは話が違う。一見するとわかりやすい例えに聞こえるかもしれないが、この言葉選びは、ライヴ・パフォーマンスを真、配信を偽に置き換えてしまう危険性と隣り合わせである。
私は正直、「肉体」という感覚すら今日では曖昧なものだと思っている。その時代の「日常」にいかなるメディアが根付いていて、私たちが何(またはどのメディア)に対してライヴ感をどの程度覚えるかによって、私たちの身体を介して知覚可能な体験の質は変化するからだ。このことはフィリップ・アウスランダーがテレビとの関連で論じているしiii、マーシャル・マクルーハンの言うところの身体拡張/切断の話とも関わってくる。2500年前のギリシャ悲劇ではそりゃあマイクもアンプも無かっただろうが、今から1世紀と少しだけ時代を遡れば、1881年のパリ国際電気博覧会でテアトロフォンを介してパリ・オペラ座の公演が生中継されていたし、エルヴィン・ピスカートアがアルフォンス・パケの『旗』の舞台化にあたって、同時代のドキュメンタリー映像を幻燈で舞台上に投射したのは約100年前の1924年のことだiv。
2020年の荒波の中で、改めて注目された面々――山田晋平とともに「映像演劇」という演劇の形態を宣言した岡田利規や、2003年にベルリン市内で同時中継を組み合わせた演劇作品を生み出していたゴブ・スクワット、観客投票型演劇をオフラインとオンラインの双方で実施したクリストファー・ルーピング――に共通するのは、彼らがメディア毎に生じる新たな美学との付き合いを経験的に獲得してきたということだ。たしかに、Zoomひとつ考えてみても、アプリをダウンロードしたら、その使い方も私たちの脳に直接インストールされるわけではない。実際にアプリを開いてみたり、あるいは誰かとZoom上で話してみたりすることで、そこで〈できること〉と〈できないこと〉がだんだんわかってくる。それは与えられたおもちゃや遊具との付き合い方に似ているのかもしれない。
『タニノクロウ秘密倶楽部 MARZO VR』
前置きが長くなってしまった。庭劇団ペニノの作品は、私の知る限り、緻密な舞台美術と、小説のジャンルに例えると「奇妙な味」を伴った観劇体験に特徴づけられる。ちなみに本誌2019年11月号では、チコーニャ・クリスチアンが『蛸入道 忘却ノ儀』を取り上げているv。
同劇団の代表作『ダークマスター』(2003年初演)は、昨年10月にVR映像版となって、東京芸術劇場で上演されたvi。その時は、シアターイーストの場内がネットカフェのように小さなブースに区切られ、各観客は入場前に趣旨説明を受けたうえで入場し、各ブースの中でVRゴーグルとヘッドセットを装着して作品を体感した。まるでスパイク・ジョーンズの映画『マルコヴィッチの穴』(1999)――人形師が実在の有名俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中につながる穴を見つけて商売を始める話――のような、プライベートを覗き見る愉しさと、それを劇場内の他者と一緒に行っているという気まずさを同時に味わうという、良い意味でなんとも風変わりな上演だった。
それでは、ペニノVR演劇の第二弾にあたる『タニノクロウ秘密倶楽部 MARZO VR』は、いったいどのような作品だったのか。『MARZO VR』は北千住にあるBUoYで上演された。各回の定員は5名。カフェを兼ねた2階のスペースに上がると、「問診票」を示される。発熱や呼吸器症状の有無を確認する内容だが、意表を突くのが、やけに詳細な次の文言だ。
下記臓器に違和感や異常はありませんか?(食道、肺、胃、脾臓、膵臓、肝臓、胆管、胆のう、十二指腸、小腸、大腸、盲腸、虫垂、膀胱、直腸、肛門、脳)
ちなみに、庭劇団ペニノの主宰であるタニノクロウは医師免許を有した精神科医でもある。にしても、こんな風に書かれると、なんだか『注文の多い料理店』に入る気分になる。これから健康な内臓を抜かれでもするのだろうか。
それはさておき、上記の文章を読みながら開演を待っていると、別室に続く戸が開いて、ナース服の女性二名がなにやら機器を抱えて現れた。普段、病院で見掛ける看護師がカフェにいるというだけでコスプレ感が出るのはなぜだろうと思いながら、上演開始を待つ。さながら、病院の待合室である。
開始時間になると、さきほどのナース姿の女性が戻ってきて、観客一人ひとりを別室に案内していく。間接照明に照らされた薄暗い部屋の中には、五台の長椅子が置かれている。各々はパーテーションで区切られているので、一見するとマッサージ・ルームのように見える。椅子に深く腰掛けると、私の担当らしき看護師がVRゴーグルとヘッドセットを消毒して、私に丁寧に取り付けてくれた。普段、劇場で演劇を見る時のプロセスとはまったく違うので、緊張半分ワクワク半分である。
さて、私の視界いっぱいにVRゴーグルの画面が拡がっているわけだが、一人称視点のVR映像では〈私〉の両足が見えている。どうもベッドに寝かされているようだ。大きな窓に面した明るい室内で、複数の女性看護師がやけに甲斐甲斐しく…というか非常に親密な感じで、〈私〉の世話を焼いている。看護師の一人が〈私〉の足を拭おうとして、〈私〉に声を掛けてくる――「こっちの足を曲げてください」。VRゴーグルを付けている私もなんとなく片足を曲げてみる。このVR作品はモーションキャプチャが導入されているわけではないので、見ている私と映像内の〈私〉の身体は同期していないが、看護師にやさしく足を持ってもらったら、なんとなく足を浮かせたくなるものである。快い空間でお世話されるこの状況を、私と〈私〉がひとしきり楽しんだ頃、暗転とともに次の場面が訪れる。
次の場面も同じ室内のようだが、〈私〉の両足はベッドに拘束されている。防護服を着た人が視界に入ってきて、ただならぬ状況だ。現状、防護服といえばCOVID19を即座に連想してしまうので、心中穏やかではない。が、防護服の中から出てきたのは、きわどいナース服(明らかにプレイ用)を身にまとったエッチな看護師である。先程飲まされた薬のせいで「四肢の感覚ないでしょ?」とけだるげに言われ――実際、私は〈私〉の感覚を共有していないので、その通りなのだが――、看護師に弄ばれる。再びの暗転。暗闇の中、ストレッチャーで運ばれていく音を聞く。
今度は手術台に載せられている。開腹手術のようだ。〈私〉は慌てているが、そんなことはお構いなしに女医が執刀する。痛みは無いが、ぐちゃぐちゃという粘着質な音とともに、私は〈私〉の内臓を目の当たりにする。体内は、血や脂肪が省略された、学校の人体模型をちょっとリアルにしたような作りである。女医の手によって内臓が乱雑に取り出され、最後に心臓が暴き出される。心電図モニタの音が〈私〉の急変を告げている。が、〈私〉の心臓をひっくり返すと、そこには…。
ここまで書いておいてネタバレも何もないと思うが、ひとまず最後の部分は伏せておいて、あっという間に終幕である。VRゴーグルとヘッドセットを外し、まだ鑑賞中の観客4名を尻目に、会場を後にする……いったいなんだったんだ、これは。
身体の拡張から切断へ
スティーヴン・キングは、短編小説『第四解剖室』――エドガー・アラン・ポーの「早すぎた埋葬」の翻案で、生きながらに解剖される男の話――の中で一人称のナラティヴを使っているが、『MARZO VR』はVR演劇なので、文字通り〈私〉の目線で場面が進行する。
25分間のVR映像には、観客の私と映像中の〈私〉を無理なく同期するための仕掛けが散りばめられている。私の目線の高さが〈私〉と同じになるよう、客席として寝椅子を用意したり、私が〈私〉の動きを唐突に感じないよう、看護師が事前に声を掛けたり(「次は○○しますよ」「○○してください」)、狭い室内に限定することでVR特有の焦点感覚のずれを起こしにくくしたり……前作『ダークマスターVR』もそうだったが、VR酔いを起こさず、なおかつ体験度を高めるためには、VR技術にはまだ制約が多いvii。
前述したが、この映像における私と〈私〉は非同期型なので、私の方で「同期している」と意識した方が面白い。言い換えると、「(モーションキャプチャしていないから)動かない身体」ではなく「動かせない身体」として〈私〉を引き受け、VR映像の中で自分に割り当てられた役を演じるということだ。そうすることで、第二場以降の「四肢の自由を奪われた状態」を満喫することができる。
マクルーハンを援用するならばviii、『MARZO VR』の中で、私の身体はVR内の〈私〉にまで拡張され、その結果として、私の方の身体感覚は切断されてしまう。ちょうど私たちが靴を履いている時、足の皮膚を感じられないのと同じように。ただし、〈私〉の身体の生命がVR映像の中で突拍子もなく打ち切られることで、私は同期していたはずの〈私〉の身体からあっけなく追い出され、先程までの身体の拡張と切断が演劇のうちだったと認識するのである。
さまざまなサブテキスト
…と、ここまで真面目に書いたが、この作品は至極真剣に鑑賞するというよりも、ナース服を着た女性に足を洗ってもらって気持ち良くなっている私=〈私〉を感じつつ、「いや、どういうシチュエーションだよ!AVか!」とツッコミを入れながら観て、オチでズッコケるべき作品である。
そもそも、『MARZO VR』は〈私〉の身体への同期こそ促すが、〈私〉の身に起こる出来事以外にも多くのサブテキストが散りばめられている。例えば、『MARZO VR』の中には、タニノクロウによるセルフ・オマージュと思しき箇所がある。『MARZO VR』における手術シーンで、〈私〉の臓器を手に取った看護師が、「ふふっ、オカリナみたい」と無邪気に呟く――人体から取り出した胃を笛のように吹いていた『アンダーグラウンド』(2006)が思い出されるix。コンテクストが分かるとニヤリとする意匠だ。
さらに、手術のシーンに至るまでの一連の流れは、FANZAで配信されている有料のアダルトVR動画(「看護婦・ナース」というジャンルで百数件の動画が存在する)を彷彿とさせる。VR演劇を制作するにあたって、VR技術の応用先としてウェイトの大きいAVを参照するのは大いに頷ける話ではある。ただし、「男性向けAVのパロディを含んだVR演劇を女性看護師役の女優にお世話してもらいながら観る」というのは、秘密倶楽部らしすぎて正直いささか物足りない。
いや、キングがポーに付け足したのは倒錯した性的嗜好だったが、『MARZO VR』に表れたマゾヒズムは見た目以上に深刻かもしれない。四肢の感覚を奪われ、内臓を切り取られて電池式の心臓を暴かれるという物語には、多くのメタファーが隠れている。これまで当たり前に実施していた劇場公演が困難になり、さらに長期間危うい――ともすれば自己破壊的な――状況に晒され続けている現状ではなおさらだ。それにもかかわらず、『MARZO VR』という作品であらゆる解釈の検討よりも先に来るのは、分かりそうだけど全然訳の分からない出来事を体験する愉しみである。
マクルーハンは『メディアの理解』の中で、「あらゆる時代の新たなテクノロジーからの手痛い一撃を脇に避け、その類の暴力を完全に察知して躱してきた芸術家の能力というのは、大昔からそうだった」と述べているx。ここでの「芸術家」は、私たちが一般的に呼ぶところの芸術家ではなく、メディアのごく当たり前にみえる諸前提に囚われない思考の持ち主を表しているはずだが、それは窮屈なところを庭に転じるということなのかもしれない。
(2021/1/15)
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Niwa Gekidan Penino, Tanino’s Secret Club MARZO VR
at BUoY, December 22-28, 2020
*Virtual reality performance
Written and directed by Kuro Tanino
Performed by Saika Ouchi, Manami Hirokawa, Hatsune Sakai, Masafumi Uchida
Stage direction: Masaya Natsume
Movie: Nobuhiro Matsuzawa
Sound: Koji Sato
Props: Ken’ichiro Onokogi
Publicity design: Emi Makita
Production: Chika Onozuka
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田中里奈 Rina Tanaka
東京生まれ。明治大学国際日本学研究科博士課程修了。博士(国際日本学)。博士論文は「Wiener Musicals and their Developments: Glocalization History of Musicals between Vienna and Japan」。2017年度オーストリア国立音楽大学音楽社会学研究所招聘研究員。2019年、International Federation for Theatre Research, Helsinki Prize受賞。2020年より明治大学国際日本学部助教。最新の論文は「ミュージカルの変異と生存戦略―『マリー・アントワネット』の興行史をめぐって―」(『演劇学論集』71、日本演劇学会)。
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i 朝日新聞「これからの舞台芸術の形は 芸術監督2氏に聞く」、2020年5月17日
ii 例えば、以下の著作など。
Kurt Blaukopf, Beethovens Erben in der Mediamorphose. Kultur- und Medienpolitik für die elektronische Ära, Heiden: Niggli, 1989;
Kurt Blaukopf, Musik im Wandel der Gesellschaft. Grundzüge der Musiksoziologie, Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 2005.
iii Philipp Auslander, Liveness, Second Edition, Abingdon/New York: Routledge, 2008 [1999].
iv 萩原健『演出家ピスカートアの仕事――ドキュメンタリー演劇の源流』森話社、2017.
v Mercure des Arts「人間を置き去りにしようとしている演劇へ|チコーニャ・クリスチアン」、2019年11月15日、
vi 庭劇団ペニノ「ダークマスターVR」東京芸術劇場、2020年10月9日~10月18日、
vii これに関して、2020年12月15日にタニノクロウと大屋友紀雄(NAKED Inc.)と対談した。本稿を執筆するにあたり、同じ回を鑑賞した大屋さんから大きな示唆を得た。
viii Marshall McLuhan, Understanding Media: The Extensions of Man, New York: MIT Press, 1994 [1964].
ix 庭劇団ペニノ『アンダーグラウンド』下北沢ザ・スズナリ、2006年9月15日~9月20日。
x McLuhan, op. cit.