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郷古廉 ヴァイオリンリサイタル|丘山万里子

郷古廉 ヴァイオリンリサイタル
Sunao Goko Violin Recital

2020年12月16日 トッパンホール
2020/12/16 Toppan Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール

<曲目>        →foreign language
ビーバー:《ロザリオのソナタ》より 第16曲〈パッサカリア〉(1674~ca.76)
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 Op.27-2 (1924)
〜〜〜〜〜〜
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004 (ca.1720)
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz117 (1944)

(アンコール)
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調 Op.27-4より IIサラバンド

立ち上がりのビーバーから最後のバルトークまで270年。
とてつもなく長い旅をしたような疲労と衝撃に、ありふれた拍手ができなかった。
十分だから、もういいから。
鳴り止まぬ拍手の中、凝然と座席に沈んでいると、現れた郷古、アンコールを一つ弾いた。
イザイだ。
一緒に歩いてくれてありがとう。最後にこれを。
そんな感じで、静かに手渡してくれた。
この夜、この若武者が成し遂げたことを、筆者は忘れない。

コロナ禍でホセ・ガヤルドpfが来日出来ず、曲目全取っ替え、無伴奏でのリサイタル。
ステージに出てきた時から厳しい表情だ。
ビーバーの「パッサカリア」はローズ色のロザリオを指先で手繰るような感触で精緻に淡々と弾かれ、ゴシック教会の内陣から見あげる薔薇窓、柱、アーチ、並ぶ聖画など細密な一つ一つに込められた職人の祈りと技量をそのまま音でなぞりあげるようであった。
だから筆者もまた粛々と心洗われる気持ちでその流れに黙して沿う。ただ、挟まれる上げ弓微細スケール部分が常にシュウッと宙に放擲(ほうてき)されるようで、その音列(弓でなく)の描く弧線の先が、天界とかそんな常套のものでなく、その句が弾かれるたびに筆者は言い難い感触に襲われ息を凝らし、やがて弧線のその先は「虚無」とでも言ったものではないか、と思い始めた。

イザイはバッハ『パルティータ第3番』とグレゴリオ聖歌『怒りの日』を撚り合せた作品。冒頭引用楽句の軽やかな飛翔感が一気に下降旋回、目まぐるしい変転と変貌ののち「怒りの日」の旋律の上をほとんど小悪魔的に飛び回るアルペッジョの超速、熾烈な音の極細流でほぼ一息に弾ききる。一息、というのは全身に溜め込んだエネルギーを針穴放出のさまで、そこに「Obsession」(妄執)がちらちら姿を見せ、どこか狂気を孕むのだ。
その不穏はたちまち筆者を現代(今)へと連れ込んだが、すぐに「Malinconia」の密やかな歌の慰撫を受け、「Dance des ombres」のピチカートやメロディの音色にふとケルトを想い、「Les Furies」強弱剛柔の波乗りとみっしり重音の冴えの中に、ある種の求道を見る。
つまり、非常な禁欲でありつつ、一面棘の刺さった帯を苦行の一つと締めた修道士が抱いたであろう僅かな快の色が走る、そこに、17世紀神の存在と19世紀末その喪失への道程が描かれる気がしたのだ。絶対なる「祈り」でありつつかすかな疑念の差す、それでも人は祈らずにはいられないのだろうか、そういう疑問形の求道、と郷古はそう弾いた。

さらにバッハとなって筆者は先の上げ弓ばかりか、フレーズの弧線すべてが尋常でないと感じるに至る。聴き慣れた音楽がふつりふつり消えてゆく、いや、かき消すのだ。流れないというのでなく、断ち切れてしまう寸前での持続をつなぐ、といったら良いか。どれもこれも緻密で突き詰められた美音とフォルムであり、シャコンヌもまた息詰まる流麗に貫かれており、弾き終えた時、筆者は何か強く胸元を衝かれ立ち尽くしてしまった。
————こういうことだ。
音は生まれ、消える。
人は生まれ、死ぬ。
その真理から目を逸らさぬこと。
だから自分は今、この音楽を、そのように弾く。
永遠とか神とか、そういうものへの憧憬を湛えるような眼差しでなく。
希望とか愛とか、そういうものの幻影をまとわせるのでなく。
必ず消えゆく音として放ち(だから消す)、けれどもそれをつなぐ、自分として奏でる。

そうしてバルトーク裂帛の冒頭、緊密な響きと鋭いボウイングで弾き進む中にビーバー、バッハ、イザイが陰画のように重なるのが見えてくる。270年間「祈らずにいられぬ人々」が居たこと、そうして人間の人間による暴力と破壊で壊滅したこの20世紀現実世界でなお神を口にし得ようか(イザイもまた)、というバルトークの慟哭を、一瞬たりとも怯むことなく郷古は突き付けてくる。ゆえ、Fugaの重音には彼の全質量がかかる。Melodiaでのトレモロは小鳥のさえずりどころか神経の震えのように思えるし、弱音の羽音にも不安を掻き立てられ、フラジオレットは痛覚すら伴う。そして無窮動Prestoから振り下ろされる旋律の刃とトレモロの相克、ピチカート、グリッサンドの果て、小さな喘ぎと一瞬の途絶、その底から最後の一刃が宙を突き上げるに至り、筆者は息が止まった。

どのような神であれ、「教会」という精神の鋳型を持つ人々の魂の旅路。
人間同士の殺戮の世界規模化、地球という星の「今」を含む破壊と破滅への私たちの旅路。
あらゆるものに、永続はない、という真理。
何ものも、時々刻々である、という真理。
郷古がコロナ禍を音楽と生き抜いたその日々の刻苦が成した当夜の演奏を貫いていたのは、それではないか。
長く重く深く厳しく、270年の時空を背負った清廉な音楽。
弧は、虚無、ではなかった。
弓にかかっていた全質量とは、彼の「実存」(懐かしい言葉だ)そのものだった。
そこから音を呼び覚ましていた。
こうした人をこそ、筆者は「音楽家」と呼ぶ。
こんなぎりぎり、精魂つきた奏者に、これ以上、何を?
けれど最後のイザイ、こちらも精魂つきた筆者の手のひらに、彼は優しいピチカートをほろほろ草葉の露のように零(こぼ)してくれたのだった。

(2021/1/15)

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<Program>
Biber: ‘Passagalia’ from “Mysterien-Sonaten”
Ysaÿe: Sonata for Violin Solo No.2 in A minor Op.27-2
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J.S.Bach: Partita for Violin Solo No.2 in D minor BWV1004
Bartók: Sonata for Violin Solo Sz117

(Encole)
Ysaÿe: Sonata for Violin Solo No.4 in E minor Op.27-4 II Sarabande