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小人閑居為不善日記|マンクになれなかった男—《マンク》と《神様になった日》 | noirse

マンクになれなかった男――《マンク》と《神様になった日》
Man Who Couldn’t Become ―― Mank and The Day I Became a God

※《神様になった日》、《市民ケーン》、《Mank/マンク》の結末に触れている箇所があります

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2020年の大晦日も変わらず紅白歌合戦を見ていた。昨年のようなオリンピック騒ぎはなく(あれだけ喧伝しておきながら今回はほぼスルーというのも都合のいい話だが)、多少は落ち着いて楽しむことができた。

一方、コロナ・ショックに関してのアプローチは半端だった。元来祭りは慰霊の意味を持つし、音楽によって元気付けられるということもある。紅白もそういった役目は果たせるかもしれない。けれども今回は、たとえば最前線に立つ医者や看護師へのエールや、亡くなった人への慰霊がはっきりと歌われることはなかった。政府の広告塔の務めは果たしながら、慰霊や慰撫としての祭事という役目を担えないのであれば、紅白はただのプロバガンダに成り下がるだろう。

さて、慰撫の役目を果たすのは音楽だけではない。小説や映画にもそういった効果はある。まずはこの秋に放送されたTVアニメ《神様になった日》を取り上げたい。90年代後半からゲーム~アニメ界隈で活躍するシナリオライターで、カルト的な人気を誇る麻枝准が原作・脚本を担当している。

主人公は受験生の陽太。彼の前に突然、30日後に世界が終わると予言する少女、ひなが現れる。少し変わっているが人懐こい彼女と共に、陽太はかけがえのない夏休みを過ごす。だが30日後にひなは連れ去られ、楽しかった時間は終わりを迎える。彼女は不治の病に侵されており、本来は会話や歩行もままならないところを、特殊なチップを埋め込むことで普通に見せかけていたのだ。そのチップは除去され、ひなはふたたび抜け殻状態に戻ってしまう。陽太はひなの記憶を呼び覚まそうと懸命に看護し、彼女は幽かな記憶を呼び覚ます。陽太はひなを施設から連れて出て、彼女の病気を治すため、医学の道を志すことを決意する。

男の手を借りないと生きていけない少女。それにより自己実現を果たす男。見る人によっては感動的かもしれないが、これは典型的なマッチョイズムだ。これは麻枝のお家芸で、それにより熱狂的なファンを獲得してきた。麻枝に関わらず2000年代のオタクカルチャーではこの手の作品が氾濫し、しばしば批判されもしたが、今でもひとつの「型」として根強く生き残っている。

個人的にはこの手の形式はあまり好きになれないが、それ自体に何か言うつもりはない。とりあえず注目したいのは最終話だ。ひなが連れ去られるまで、陽太と仲間たちは自主映画に取り組んでいた。映画制作は中断を余儀なくされるが、ひなが戻ったことで完成し、内輪で上映会を開く。夏休み最後のイベントとなった映画の上映を通して、陽太たちは失われた夏を取り戻していく。

陽太たちの映画は中二病全開で、客観的に見ればつまらないものだ。しかし陽太たちにとってはそれ以上の価値を持っている。彼らの映画は、ひなや陽太たちの傷を慰撫する役目を担っているからだ。

創作は病などの回復に効果があると言われている。いわゆる作業療法の一種で、基本的には絵画や音楽、編み物や工作などが多い。PTSDに悩む兵士に対し、戦場を再現したVRシミュレーションゲームで治癒するという話もよく聞く。これはプロの創作者にも当てはまることだろう。村上春樹はこのように述べている(《村上春樹、河合隼雄に会いにいく》)。

小説を書くというのは、ここでも述べているように、多くの部分で自己治療的な行為であると僕は思います。「何かのメッセージがあってそれを小説に書く」という方もおられるかもしれないけれど、少なくとも僕の場合はそうではない。

もちろん《神様になった日》の場合、作業療法や村上のケースとは違う。けれど麻枝が最後の肝心な場面に映画制作を持ってきたのは示唆的だ。いくら批判されようとも麻枝が同じタイプの作品を作り続けるのは、彼自身にとってもそれが何かの意味を持つからだろう。《神様になった日》の自主映画は、その比喩ではないだろうか。

2

デヴィッド・フィンチャーの新作映画《Mank/マンク》がNetflixで公開されている。天才監督の呼び声高いオーソン・ウェルズによる映画史上の金字塔《市民ケーン》(1941)の脚本を手掛けた、ハーマン・J・マンキーウィッツ(通称マンク)を描いた作品だ。

《市民ケーン》は画期的な撮影技法や特徴的な長回し、マンクによる奇抜で巧みなシナリオライティングなどによって今では評価を確立しているが、当時は違った。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていた――というより批判的に描いていた――ため徹底的な上映妨害を受け、アカデミー作品賞も逃し(受賞は脚本賞のみ)、ウェルズのその後のハリウッドでの活動にも影を落とした、ある意味呪われた作品なのだ。何故マンクはこんなにもリスキーな仕事を引き受けたのか。その動機を探ることが物語の主軸となっている。

《マンク》で注目すべき点をもう二点挙げよう。ひとつは戦前のハリウッドの再現への挑戦だ。8Kカメラでモノクロ撮影されたスタジオやハーストの屋敷は、《市民ケーン》の撮影監督グレッグ・トーランドへのリスペクトに満ちている。ハーストやMGMのルイス・B・メイヤー、アーヴィング・タルバーグら大物プロデューサーたちを向こうに回し、ハリウッドの暗部に絡み取られてもがくマンキーウィッツの姿は、あたかもウェルズが撮ったカフカの《審判》(1962)や、同様にハリウッドを舞台にしたコーエン兄弟の《バートン・フィンク》(1991)やデヴィッド・リンチ《マルホランド・ドライブ》(2001)のように、まるで悪夢の中をさまようが如きだ。

もうひとつは政治的なテーマだ。《マンク》ではカリフォルニア知事選が焦点になっていく。民主党から出馬したのは社会主義的な主題にこだわり続けた小説家、アプトン・シンクレア。ハーストやメイヤーたちは彼をつぶそうと企み、偽のニュース映像――つまりフェイクニュース――をでっちあげる。もともと父親のシナリオに盛り込まれていたのかもしれないが、何ともタイムリーではある。

このように《マンク》は注目すべきフックが多く、概ね高評価で迎えられているようだ。しかしフィンチャーはマンクという男を、決定的に見誤っている。

3

フィンチャーは以前にも《市民ケーン》と結び付く作品を撮っている。フェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグの半生を描いた《ソーシャル・ネットワーク》(2010)だ。フィンチャーはこの映画に挑むに際し《市民ケーン》の構造を利用した。チャールズ・フォスター・ケーンは莫大な財産と権力を手にするが、友人や恋人に去られ、ひとり寂しく死んでいく。《ソーシャル・ネットワーク》のザッカーバーグもIT企業の頂点まで昇り詰めるが、友人や胸中の女性は彼の元を去っていき、孤独のうちに映画は幕を閉じる。

これを古典への敬意だとか優れた本歌取りと見做せば高評価に繋がるのだろう。実際そう見る向きは多い。しかし《ソーシャル・ネットワーク》をフェイスブックという新しいメディアに対する映画界からの返答と考えると、名作とはいえ50年以上前の作品を参照して結論とするのはあまりにもカビ臭くないだろうか。フィンチャーが古典に敬意を抱いているのは分かるが、それがかえって作品の足を引っ張ってはいないだろうか。

《マンク》も同じ弱点を抱えている。観客はケーンの孤独な死を自業自得と感じるだろう。しかし同時に、大事な人に素直に向き合うことができなかった哀しい男だと同情もするはずだ。憎らしい権力者であっても、ひとりの人間として平等に見つめること。これも《市民ケーン》における、マンクの功績だったはずだ。

しかし《マンク》はどうだろう。ハーストやメイヤーたちの造形は「権力者」や「金持ち」というレッテルを貼り付けただけの薄っぺらい描写に終始している。マンクがキャリアをかけて挑んだ《市民ケーン》での仕事を、フィンチャーは継承できていない。

それよりもフィンチャーが優先させたのは何か。オールドハリウッドの再現と、リベラルなメッセージだ。これはスピルバーグの《ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書》(2017)やタランティーノの《ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド》(2019)にも通じる点で、これまでも批判的に取り上げてきた。入念に作り込まれた古き良きハリウッドのセットで目くばせのように交わされるリベラルなメッセージ。これらは耳障りこそいいが、映画が娯楽の中心にあった時分には通用しても、SNS時代には何処にも届きはしない。映画の中で声高に主張を唱えても、140文字しかないツイッターのつぶやきにすら敵わない。《マンク》もフィンチャーのメッセージも、オールドハリウッドの幻影の中に閉じ込められている。

以前はそう考えていた。しかし最近、考えを少し改めることにした。ネットやSNSに舞台を奪われた「孤独な」ハリウッドは、陽太やひなのように「傷付いている」のではないだろうか。フィンチャーたちが描くオールドハリウッドは、傷付いた彼らを慰撫する空間なのではないだろうか。《神様になった日》の自主映画のように。

それはSNSも同じだ。SNSで叫ばれる過激な主張も、実際は均質な共同体で響くのみの、エコーチェンバーに他ならない。ネトウヨやオルト・ライト、トランピアンもまた、SNSの中に閉じ込められている。《マンク》で本当に描かれるべきなのは、ハーストを貶めることではない。異なる価値観を持つ他者を、自分と同じ孤独で、殻に閉じこもった人間だと認めることではなかっただろうか。

(2021/1/15)

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