「新しい耳」第27回テッセラ音楽祭第1夜 松平敬×中川賢一~冬の旅~|戸ノ下達也
「新しい耳」 第27回テッセラ音楽祭第1夜
松平敬×中川賢一 ~冬の旅~
Atarasii-Mimi 27th Tessera Music Festival first night
Takashi Matsudaira x Ken’ichi Nakagawa -Winterreise-
2020年11月1日 サロン・テッセラ
2020/11/1 Salon Tessera
Reviewed by 戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
Photos by 平井洋/写真提供:テッセラ音楽祭
<演奏> →foreign language
バリトン:松平 敬
ピアノ:中川賢一
<曲目>
シューベルト:
『白鳥の歌』Ⅾ957より
《漁師の娘》《街》《アトラス》《影法師》
『冬の旅』Ⅾ911 全曲
《お休み》《風見の旗》《凍った涙》《かじかみ》《菩提樹》《あふれる涙》《川の上で》《回想》《鬼火》《憩い》《春の夢》《孤独》
―休憩―
《郵便馬車》《霜おく頭》《からす》《最後の希望》《村で》《嵐の朝》《幻覚》《道しるべ》《宿屋》《勇気》《幻の太陽》《辻音楽師》
この演奏会は、現代音楽の旗手として果敢な活動を展開している松平と中川が、コロナ禍に生きる私たちに、「新しい耳」をキーワードに、シューベルトの名作の意味を問いかけるもの。
何より、構成自体が斬新だ。コロナ禍の演奏会という事情を逆手にとり、まずシューベルトの生涯の集大成となった歌曲集『白鳥の歌』から、ハイネの詩による4曲を演奏し、2分程の間を取った後に、『冬の旅』の《孤独》まで演奏し、聴衆全員が別室のバルコニーで休憩をとる。そして後半で、《郵便馬車》から終曲《辻音楽師》まで演奏という三部構成のもの。『冬の旅』を二分割する構成は、まさにシューベルトの創作姿勢そのもので、作曲者の思いを再考させられる。
この二回の間が、松平と中川の主張するシューベルトの音楽を、じっくり見つめ、考える絶妙な間であることに、気づかされる。そこには、松平と中川の緻密な仕掛けによる音楽があった。
『白鳥の歌』の抜粋は、曲集順ではなく、《漁師の娘》で始まるも、《街》と《アトラス》で絶望、凄惨が暗示され、《影法師》で、不安と慄きが描かれる。この日は、《漁師の娘》でさえ、その明るさや軽快さは後景に退き、まるで過去への憧れのように、どことなく自らを客観視するような音に聴こえる。そこには、『白鳥の歌』のこの4曲を序奏とすることで、『冬の旅』の描く、心象風景をさまよう人間の強さと弱さを暗示する、という演奏者の意識が感じられる。
そして、ひと時の間合いの後に、『冬の旅』の前半。
《お休み》の寂寥感漂う音楽は、《風見の旗》のはかなさ、《凍った涙》の悲しさ、《かじかみ》の絶望と続く中で、増幅されながら、冷静沈着な松平のバリトンと、中川の打ち砕くような迫力のピアノがせめぎ合う。しかし、《かじかみ》に至るまでの寂寥感は、《菩提樹》の、ほのかな希望と祈りの音楽で途切れ、聴くものに安息をもたらす。だがこの安息も束の間で、すぐに、揺れ動く愛が表現される《あふれる涙》と、感情の起伏が歌われる《川の上で》で、再びさまよい始め、思い通りにならない苛立ちの《回想》、諦めの表出のような《鬼火》、疲労と苦しみに打ちひしがれる《憩い》に継続する。
ここでは、松平も中川も、感情のおもむくままに、その懊悩をぶつけ合う。しかし《春の夢》で、それまでの懊悩が一旦、傍らに置かれ、静かな長調ですがるような希望が語られた後に、《孤独》で再び懊悩が繰り返される。
この、《菩提樹》と《春の夢》の2曲を軸にした明晰な転換が、理想と現実を往き来する心象風景を見事に描くもので、そのさまよいが《孤独》に収斂して前半が幕を閉じる。
後半は、《郵便馬車》で軽快なリズムが強調されて高揚感をほのめかすものの、《霜おく頭》、《からす》、《最後の希望》で、人生の悲哀と現実が、じっくりと語られる。松平は、声の深みを存分に生かして、楽曲の描く人間の内面を抉るように表現する。その人生への慄きは、更に、どことなく晴れやかな《村で》、確固たる自覚の宣言たる《嵐の朝》、幻想であっても慰めへの素直な宣言たる《幻覚》で、同様に表現される。そして、《道しるべ》で、迫りくる人生の終焉への迷いのない歩みが、《宿屋》で、生と死を見つめる命ある者の不思議な抒情と温もり、《勇気》で、決然たる思いが、《幻の太陽》で、歩んだ足跡を噛みしめる祈りが、《辻音楽師》で、命の輪廻の願いが、心情を吐露する松平のバリトンと中川のピアノで協奏され、静寂の彼方に音楽を閉じる。
人生の歩み、命の輪廻を暗示する《道しるべ》から《辻音楽師》に至る、松平と中川の心情の音楽は、まさに、さまよいの後の「悟り」のように聴こえる。それは演奏者の、朗誦や転調、ユニゾンを意識した豊かな表現力による音楽である。
前半は、中川の、饒舌かつ打ちのめされるピアノの音に、松平の、言葉に没入することを回避するリアリストのような冷静な音作りに、少々違和感を覚えた。特に、《川の上で》《孤独》など、もっと弱音が弱音として囁かれれば、楽曲のダイナミズムが際立つように聴こえるのではないか。
しかし、これは松平と中川の、緻密な仕掛けだったようだ。《宿屋》と《幻の太陽》の、遅めのテンポで、丁寧に音を紡いでいく演奏は、それまでの、人生の懊悩や戸惑い、苦しみ、嘆きなどの、さまよう心象風景を中川の強烈なピアノ、松平の冷徹なまでの落ち着いたバリトンのそれぞれがぶつかり、反目し、あるいは共振する音楽として表現し続けていた。それが一転、松平と中川が寄り添うユニゾンの演奏で結合し、敬虔な人生の讃歌と、迫りくる終焉への祈りとなって見事に昇華する。《宿屋》と《幻の太陽》のバリトンとピアノのユニゾンが、この日の『冬の旅』の主張の全てを物語っている。
中川のピアノは、強振する音に圧倒されるが、濁りの無い澄んだ音で、そのペダリングが絶妙。松平は、奏者と客席がビニールシートで隔てられていることを感じさせず、高音でも上振れすることなく、また低音では豊かな響きで、声の奥行きを堪能させてくれる。
『冬の旅』の序奏のように配された『白鳥の歌』4曲、『冬の旅』を創作過程通りに二分して全体を聴かせる構成が、シューベルトにも、このような聴き方があるのではという「新しい耳」を提示する。
突き刺さるように迫りくる中川のピアノ、前半の冷静さから、後半の心情の吐露に変化していく松平の演奏からは、『冬の旅』が、様々な困難があっても、それぞれの心象風景の中で、人間の生と死、命の輪廻を俯瞰していこう、という願いと祈りの音楽であることを実感させるもので、さらに分断や格差が露わとなっている「現代社会」のあり様をも問う演奏会であった。
(2020/12/15)
—————————————
<players>
Baroitone: Takashi Matsudaira
Piano: Ken’ichi Nakagawa
<pieces>
F.schubert
aus “Shuwanengesang”
Das Fischermadchen, Die Stadt, Der Atlas, Der Doppelgänger
“Winterreise”