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池辺晋一郎歌曲コンサート|西村紗知

『池辺晋一郎歌曲集』出版記念 池辺晋一郎歌曲コンサート
Shin-ichiro Ikebe Song Album Concert

2020年11月25日 トーキョーコンサーツ・ラボ
2020/11/25  Tokyo Concerts Lab.
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:東京コンサーツ

<演奏>        →foreign language
小林沙羅(ソプラノ)
谷 篤(バリトン)
河野紘子 (ピアノ)
正住真智子(ピアノ)

<プログラム>
池辺晋一郎:
春のビューグル (小林、河野)
風の子守歌 (小林、河野)
眠っちゃいけない子守歌 (小林、河野)
古廟─山西省太原近郊にて(谷、正住)
片恋 (谷、正住)
ガリバー (谷、正住)
ロシアンセンチメント (小林、河野)
恋する猫のセレナーデ (小林、河野)
バラ泥棒 (小林、河野)
名はアクアマリンのアクア(谷、正住)
あの夏のまま (谷、正住)
マザーズ・デイ (谷、正住)
歌[詩:谷川俊太郎] (小林、河野)
歌[詩:新川和江] (小林、河野)
天国が落ちる (谷、正住)
ふるさとは (谷、正住)
ちょっといい朝 (谷、小林、正住)
※アンコール さんごじゅの花

 

池辺晋一郎歌曲コンサート。その名の通り、池辺が今まで制作してきた歌曲がいくつかピックアップされ演奏されるという、またとない機会である。
池辺の歌曲制作の遍歴については、プログラムノートに歌曲集出版に至るまでの経緯が記されているので、それが参考になる。経緯ごとに分けると、合唱作品制作となにかしら関係のある歌曲、演劇の劇中歌としてつくった歌曲、「世田谷うたの広場『詩と作曲の会』」や鎌倉芸術館など、公共の文化事業から生まれた歌曲――この三つのどれかに当てはまるものが多いようだ。
『池辺晋一郎歌曲集』も後日購入してみた。ぱらぱらさらってみる。
ふと、作曲家にとって日本歌曲をつくるとはどういうことなのだろうかと、考えるようでもあった。

演奏会は、小林沙羅と谷篤が交互におよそ3曲ずつ披露し、その間に池辺がトークをするというようにして進行した。
全体を通じて演奏、歌唱は健全で、崩したり解釈したりというような音はよく聞こえてこず、それもそのはず、作曲家本人がそばにいるのだから、思えば当然のことだったかもしれない。
健全な演奏と軽快なトークとで、会場に居ながらにして、どこかブラウン管の中の出来事をぼんやり見つめているような心地であった。
そうして聞こえる歌は、どんなだったか。
はじめの3曲「春のビューグル」「風の子守歌」「眠っちゃいけない子守歌」には合唱曲の形式感が強い。はつらつとして、はっきりと発音して、メリハリをつけて歌う。
「古廟─山西省太原近郊にて」は伴奏の三十二分音符のざわめくような音響に、語るような歌唱が乗る。
「ガリバー」は乾いた曲調の変拍子が特徴的なソング。これは演劇のスキルが必要そうだ。
「恋する猫のセレナーデ」「バラ泥棒」という、なかにし礼が詩を書いたものは、ほんのりアンニュイな仕上がりに。
あとは、戦争未亡人の思いを、節制した表現であっても切々と歌い上げた「あの夏のまま」。

池辺の場合でもそうか、やはり日本歌曲というのはどこかおぼつかない表現に帰着するものなのかと、あらためてその難しさを会場で実感していた。

日本歌曲という領域が存在する。日本語詞に基づいて作曲された有節歌曲ないし通作歌曲。定義を与えようとすればさしずめそんなところだが、これは定義というよりも共通項といった程度で、もう少し踏み込めばその実態は実に多様。合唱曲をソロ曲にしたようなものもあれば、フランス歌曲を翻案したようなのも、もっと歌謡曲に寄せた曲調のものもある。
だから、ジャンルとして日本歌曲というものが存在するわけではない。個別具体的な日本歌曲が存在するだけだ。別々の作曲家が手掛けた作品相互が、なんらかの布置関係で結ばれるとき、そこにはジャンルが存在すると言えるだろう。つまり、時代・作曲家・地域を越えて共有され、克服すべき課題をもつような――しかしながら日本歌曲はそういうものではない。
日本歌曲というのは商業形態だ、と言った方がまだ適切かもしれない。大正期に刊行されていた『赤い鳥』や『セノオ楽譜』にしばしば日本歌曲(この場合童謡というジャンルと重複するが)が掲載されることがあったことを想起する。あざやかな挿絵とのコラボレーション。最初からメディア横断的契機があったとするなら、それはそのまま日本歌曲というジャンル、あるいは表現上のおぼつかなさの原因の一端のように思える。
となると、ジャンルの普遍性であるとか、克服すべき課題で連関し合うだとか、日本歌曲にとってそういうのは本質的ではないのかもしれない。子供の歌を自らの源流にもつ日本歌曲は、そのまま何の気苦労もなく、子供であり、幸福という事柄に関わっている。音楽上の「進歩」にまつわる諸々の契機の埒外に、日本歌曲はてんでばらばらになって、安住しているようだ。

克服すべき課題を共有するでもなく、他の歌曲と競作の関係にあるのでもない。それらひとつひとつの日本歌曲は、閉じていて、お互いのことも世間のことも知らず、一回限りの存在でもあるから(散逸して今回の歌曲集に残らなかったものもたくさんあるだろう)、一つずつ順に聞いていくとどこか不思議な感がある。しかも、商業音楽の歌と違って、大衆の耳に残ってやろうという欲望も、時代精神の反映というのも、やる理由がないときたものだ。
はて、私はこの日、何を聞いていたのだろう。

日本歌曲は、この日の池辺のそれは特に、真空地帯、いや聖域にある。インターネット上には絶対に存在しえない領域。かといって、象牙の塔というのでもない。
それは子供の領分だ。歌曲ひとつひとつが、幸福の香気で満たされていて、心が純粋でないとその音を聞くことはできない。

幸福しか知らない音楽というのもあるのだな、と、会場を後にしつつ、同時に戦後日本の現代音楽の幸福な時期というのも、ぼんやり想像するのであった。

(2020/12/15)

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<Artists>
Sara Kobayashi, soprano
Atsushi Tani, baritono
Hiroko Kono, piano
Machiko Syoju, piano

<Program>
Shin-ichiro IKEBE:
春のビューグル(Kobayashi, Kono)
風の子守歌(Kobayashi, Kono)
眠っちゃいけない子守歌(Kobayashi, Kono)
古廟─山西省太原近郊にて(Tani, Syoju)
片恋(Tani, Syoju)
ガリバー(Tani, Syoju)
ロシアンセンチメント(Kobayashi, Kono)
恋する猫のセレナーデ(Kobayashi, Kono)
バラ泥棒(Kobayashi, Kono)
名はアクアマリンのアクア(Tani, Syoju)
あの夏のまま(Tani, Syoju)
マザーズ・デイ(Tani, Syoju)
歌[words:Shuntaro Tanikawa](Kobayashi, Kono)
歌[words:Kazue Shinkawa](Kobayashi, Kono)
天国が落ちる(Tani, Syoju)
ふるさとは(Tani, Syoju)
ちょっといい朝(Tani, Kobayashi, Syoju)
※Encore さんごじゅの花