ルネサンスと鳩時計——東京人から見たスイス|一時帰国③ レジェ、オザンファン、ル・コルビュジエ|秋元陽平
一時帰国③ レジェ、オザンファン、ル・コルビュジエ
Temporary leave III —— Léger, Ozenfant, Le Corbusier
Text by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by Wikiart (public domain)
こうしたことを踏まえた上で(前稿)、上野の西洋美術館——言うまでもなく彼自身が建てたものだ——で開催されたコルビュジエ展で私の目を引いたのは、先輩格の画家アメデ・オザンファンとの差異であった。鉛筆のスティル・ライフにおいても、油彩画においても、ほとんど同じテーマとモチーフに向き合いながら、二人の作品はつねに、微妙だが確実な印象のずれをもたらす。ピカソとブラックのもとで段階的に深化しその都度美学的力点を微妙に変えていったキュビスムに比べやや素朴に思われるこの二人の芸術運動——ピュリスムの要諦はまず名前通りオブジェの幾何学的形態への純化purificationにあるが、オザンファンの作品、例えば『シストロンの城壁』に見られる簡略化されたマッスの描写においては、三次元的な対象の変形を通して、表象性があいまいになるほどの平板さがすでに現れ、それ自体が現実の城壁とは別種の対象性を絵画全体に張り巡らしている。反対に、コルビュジエが最初に出展した作品のひとつにあらわれる、薄もやのなかに自重で少し相好を崩してたたずむ豆腐のような立方体は、熱砂の中のぽつねんたるモノリスではなくて、視線を引くことでマントルピースの上に置かれたオブジェであることが分かるのだが、まったく抽象的なフラットネスが全面に押し出される形で構成されているにもかかわらず、古典的な絵画のミメーシス機能を疑うのは無粋と言わんばかりに、はっきりと、カンヴァスのなかに持ち込まれた三次元の「オブジェ」の「屹立」という印象を与えるものである。
この作風の差異は、瓶、皿、ギターのように複数のオブジェを配する、キュビスムともその趣向を共有する1920年に発表された一連のコンポジションにおいても拭いがたい——それはもしかすると偶然、今回架けられていたオザンファンの作品がもっぱら単に「静物」ないしオブジェ名をタイトルとしていたのに対して、コルビュジエのそれは「青い背景に」白い水差しのある静物、「積み重ねた」皿のあるブルターニュ風景の「前の」静物、そして「垂直の」ギターといったふうに、空間における位置関係の指示が明瞭なものばかりであったことも関係しているかもしれない。しかしそれを措くとしても、オザンファンは、立体物がもとになっていることをつねに示唆しつつも、それをパズル・ピースのように平面——ただしそれ自体がいびつな平面——に嵌め合わせていくのに対し、コルビュジェが平面化された対象を組み合わせることで、再び「高さ」「厚み」「図と地」そして「孤立-屹立」を指向していることは明らかだった。どうもコルビュジエのほうが、絵画というものに対して衒いがない。
教科書的には、複数の平面によるコンポジションを経由した空間性の構築という方向性は彼のそれ以降の歩み——その果てにサヴォワ邸があるのだろう——を予見させるものであるのかもしれないし、1921年のより透徹とした静物画においてその傾向は早くも姿をのぞかせていることも面白い。ただ、既に書いたとおり私がこの展覧会に来る前に考えていたのはむしろ機械のことだったので、初期の絵画を一通り見終えたのちは、むしろフェルナン・レジェのほうに関心が向かった。
レジェもまたコルビュジエと同じく「機械」に魅せられた芸術家の一人ではあるが、彼の考える機械は、切断と接続の二面性に支えられた幾何学的精神の、モダニズムの機械ではない。つまり、前回私が機械の隠喩をめぐって書いたことをもう一度蒸し返すならば、コルビュジエが機械「を前にした」、あるいは機械「を与える」ヒューマニスト・エンジニアの精神として振る舞うのに対し、レジェの絵画は、むしろマッスとしての機械=世界——画家自身も含め、既に至る所で互いに接続されて生き生きと動いている世界の中に向かう。レジェが好んでオブジェを配管状に描くものだからキュビスムならぬ「チュビスムtubisme」だと揶揄されたという話は有名だが、レジェのペインティングはまさに、オブジェからオブジェへ、図から地へ、地から図へと至るところに配管で接続され、画家と鑑賞者もまた繋がれてしまう明るい共謀性がある。
この展覧会では彼の撮影した映像作品『バレエ・メカニック(機械的バレエ)』も架かっていた。20年代の作品だが、万華鏡に投影されたインコ、四角形と三角形、エロティックな女性の唇の開閉がジョージ・アンタイルの無窮動的なパーカッションに乗って楽しげに明滅するこの「機械」は、その連想はまったく禁じられていないにもかかわらず、10年後の『モダン・タイムズ』においてチャップリンが挟まれる機械のそれとは少し異なる。レジェの機械的イメージは、文明への、過剰接続へのアイロニーではない。いわば、さまざまなオブジェが明滅の中で、観ているもののまばたきの作用と共振して、おのずから相互に接続、並列してゆく世界のありようそのものが、忍び笑いとともに映し出されただけなのだ。たとえばこの少し後に発表されたジャン・コクトーによる『詩人の血』は、むしろ映画というメディウムを銃撃のように時間を引きちぎるものに準えた。ジョルジュ・オーリックのより離散的な劇伴とともに、バン、と撃てば、場面が切り替わり、その間にあったはずの情景は吹き飛ばされてしまう。だがレジェは、カットによって情景を切り刻みながらも、反復し、出しては消し、消しては出ししながら、ひとつの接続による持続を作り出す。そこには囲い込まれて孤立し、外側を希求するエンジニアの機械の静けさと情熱はなく、むしろ、あちらこちらから絶えず目配せをされるような愉快さがある。
チャップリンは機械に挟まれ、自らもまた機械のようにおどけてみせた。だがそれはすでに、自らが機械ではないと確信しているから成り立つジョークだろう。彼は晩年をレマン湖のほとり、ヴヴェイで過ごしたが、同じこの街の少し離れたところにはコルビュジエが両親のために建てた小さな、うららかな、秘密基地のような親しさを感じさせる家がある。ヒューマニズムの機械は、権利上いたるところでそうできるのだから、輝く湖の岸辺であれば、それはもう当然のごとく安住の地を作り出すことができる。だが、その余裕、飛翔する精神ならでは余裕がこの家に愛らしさを与えていると思う。どこでも、だれでも、普遍の機械は機能する。だがそれが、両親のためであってみれば!“By the waters of Leman I sat down and wept”と、T.S.エリオットは『詩篇』をもじってみせたが、冷たいレマン湖は誰の故郷としても機能する、だから亡命者の故郷になりうる。レーニンも、ナボコフも、バックハウスも。分封された国の、時計のメカニスムの煌めき——切り離すことによってはじめて繋がれるような冷たさということは、あるのだろうか。
(2020/12/15)
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秋元陽平(Yohei Akimoto)
東京大学仏文科卒、同大学院修士課程修了。在学中に東大総長賞(学業)、柴田南雄音楽評論本賞などを受賞。研究対象は19世紀初頭のフランス語圏における文学・哲学・医学。現在ジュネーヴ大学博士課程在学中。