パリ・東京雑感|「遊び」の衰退がもたらした民主主義の危機|松浦茂長
「遊び」の衰退がもたらした民主主義の危機
Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
トランプ大統領のように、選挙で負けても権力を手放そうとしないリーダーは珍しくない。たとえばジンバブエのムガベ大統領、コート・ディボワールのバグボ大統領、セルビアのミロシェビッチ大統領。選挙がインチキと見なされたのにトップの椅子にしがみついているのが、ベラルーシのルカシェンコ大統領と、ベネズエラのマドゥーロ大統領。(トランプ大統領はこの二人に早く引っ込めと圧力をかけた)。選挙に負けても権力を握り続けるお手本は1946年までさかのぼる。ドイツのソ連占領地区で選挙が行われ、共産党の隠れ蓑、社会主義統一党(SED)は敗北したが、新聞は「SED大勝利」の大見出しを掲げ、以後45年間東ドイツはSEDの支配下に置かれた。
でも、選挙で負けてからジタバタするのはドジな独裁者で、プーチンを筆頭にスマートなリーダーたちは、手強いライバルを殺すか投獄し、魅力のない男女を立候補させ、手堅く合法的に当選する。世界を見渡せば、公正な選挙が行われ、すんなり権力者が退場する国は幸運な例外と言っても良いほどだ。強権を振るった権力者は、辞めれば裁判にかけられ投獄されるリスクが大きい。権力にしがみつく理由の第一は裁かれる恐怖で、トランプもそれは同じだろう。アメリカのような民主主義の先進国でさえ、法律や慣例が次々無視され、大統領の意思が貫徹されるのを4年間見せつけられ、最後にアフリカの独裁国家の大統領並みに居座りを宣言し、私たちは民主主義とはこんなにもろいものだったのかと思い知らされた。
いったい民主主義を支えるものは何なのだろう?法律も制度も、トランプ政権の4年を振り返れば明らかなように、無力だ。日本でも法律・規範が骨抜きになって行くのを止めることが出来ない。何が壊れてしまったのだろう?
もしかしたら、それは「遊び」の精神では?ルールを守るフェアプレー(play=遊び)、政敵の主張に耳を傾ける心の余裕……民主主義を根底で支えるのは遊びの精神だったのかも知れない、と思いつき、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を読み直した。
『中世の秋』を読んで、ヨーロッパの魅力に取り憑かれた人も多いと思うが、極彩色の中世生活絵巻を描いてくれたあのホイジンガが、『ホモ・ルーデンス』を世に出したのは1938年。ドイツ国民はヒトラーに熱狂し、翌年には第2次世界大戦が勃発する。絢爛たるヨーロッパ文明が奈落の底へ落ちてゆくのを見つめ、ホイジンガは文明の病のもとを省察した。その答えが「遊びの精神の喪失」なのだから、今読み直すと、若い頃読んだときとまるで違う切迫したものを感じるのは不思議ではない。
ホイジンガの定義する「遊び」は壮大だ。(英語のplayフランス語のjouerは「演奏する」「上演する」などの意味もある)
「人類が共同生活を始めるようになった時、その偉大な原型的行動には、すべて最初から遊びが織り交ぜられていたのである。例えば言語をとってみよう。……言語によって物に名を与え、その名で物を呼んでいる。物を精神の領域へ引き上げているのである。このように言語を創り出す精神は、素材的なものから形而上的なものへと、限りなく移行を繰り返しているのであるが、この行為はいつも遊戯しながらおこなわれるのである。どんな抽象の表現でも、その後ろに立っているのは比喩であり、いかなる比喩の中にも言葉の遊びが隠れている。……あるいはまた、神話を取り上げるがよい。いにしえの人は神話によって地上的なもの、存在というものを解き明かそうとした。神話が世界に存在するものに被せる、どんな気まぐれな空想の中でも、想像力豊かな魂は、冗談と真面目の境界の上を戯れているのである。最後に、祭祀というものを考察してみよう。原始共同社会はこの世の幸福の保証をつかむのに役立てようとして、さまざまの神聖な行事、奉献とか、供犠とか、密儀とかを行っているが、これらは言葉の最も真実な意味で、純粋な遊びとして行われている。
しかも、文化を動かす大きな原動力の起源はこの神話と祭祀の中にあるのだ。法律と秩序、取引と産業、工芸と美術、詩、哲学、そして科学、みなそうである。それらはすべて、遊戯的に行動するということを土壌として、その中に根をおろしている。」
テレビもなく、娯楽の少なかった僕らの子供時代、八幡さまのお祭りほど興奮させられる行事はなかった。何ヶ月も前から指折り数えて待ったものだ。祭りには、文化創造の根である遊びのエッセンスがこめられているに違いない。
蓼科高原でひとけのない山道を散歩していたら、大きなショベルカーが3台うなりをあげて道を広げていた。「新しい別荘地でも開発するのですか?」と聞くと、ショベルカーのおじさん「こんな怖いところに住む人いないよ。御柱の道を修復するのさ。去年の台風でいたんだからね。」と言う。御柱とは諏訪大社の祭りに運び込まれる巨木。大型トラックが楽々通れるほどの道を整備するのは、ただ7年に1回御柱を通すためなのだ。こんな素敵な森をドライブできたら楽しいだろうが、車は通行禁止。観光道路に開放しようなどと言う俗っぽい思考とは次元が違う。「遊び」は、ホイジンガによれば、利害を度外視した性格を持つのだから。
「<日常生活>とは別のあるものとして、遊びは必要や欲望の直接的満足という過程の外にある。いや、それはこの欲望の過程を一時的に中断する。それはそういう過程の合間に、一時的行為としてさし挿まれる。遊びはそれだけで完結している行為であり、その行為そのものの中で満足を得ようとして行われる。」
茅野や諏訪の人たちには日常の次元の他に、御柱をめぐる非日常=遊びの次元が重く存在し、文化創造の根につながっているのではないか?この土地の人々と付き合うと、都会人にはない落ち着きと威厳を感じるのは、きっとそのせいだ。蓼科を愛した母は、最後の数年、諏訪湖のほとりの老人ホームで過ごし、「長野の人は自然がきれいだから心もきれいなのね」と口癖のように言っていた。御柱まつりについては、「酔っ払って高いところに上るから死者が出る」と冷たかったが、母を感動させた諏訪の医者や看護師さんの気品と人間を見る目の確かさは、祭り=遊びに根を置く共同体のかもし出す香気なのかもしれない。
パリ在住のライター羽生のり子さんは、夏になると必ず故郷の岐阜県郡上市に帰る。爽やかなパリからむし暑い日本に行く気持は僕には理解できないが、彼女の町ではお盆の4日間20万人が徹夜で踊るのだそうだ。羽生さんは「盆踊りのおかげで、私たちの町には犯罪がない。」と言う。彼女は憲法カフェの司会をしたり、エコロジーの活動をしたり、個と自由を大切にする活動的革新派。岐阜の盆踊りとミスマッチに見えるが、盆踊り=遊びの中に共同体再生の根源的パワーを見ているに違いない。
ホイジンガはプラトンを何度も引用する。良いか悪いか、損か得かの日常と別次元の「遊び」という生の意味をこの対話以上に簡潔に比喩表現するのは不可能だからだろう。
「真面目にすべきことは真面目にやり、真面目でなくてもよいことはそうしないでもよいのです。ところで、最高の真面目さをもって事を行うだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。これに対して、人間は、ただ神の遊戯の玩具になるように、というので創られたのです。これこそが、人間の最良の部分ですね。だから人はみな、男も女もそういうあり方に従って、最も美しい遊戯を遊びながら、生きて行かなければいけません。」
さて、民主主義と「遊び」に取り掛かろう。議会制民主政治は遊びの要素に満たされていたとして、ホイジンガはイギリス議会を例に挙げる。
「英国の議会生活の気分、慣習はあくまでスポーツ的なものだった。友誼の精神は、たとえいかに激しい討論の応酬の後でも、論敵と親しく冗談歓語を交わすことをゆるすものである。ヒュー・セシル卿はユーモラスな調子で、司教たちは上院では望ましくない存在であると説いた後で、いかにも楽しげにカンタベリー大僧正と談話していた。」
政敵同士いったん闘いが終われば、あっぱれな戦いぶりに敬意と友情を示す<スポーツ精神>は、いまも失われたわけではない。オバマ氏はブッシュ大統領からの引き継ぎがいかに徹底し隙のない見事なものだったかを誉め称えている。オバマ大統領の安全保障担当補佐官だったスーザン・ライスはクリントン→ブッシュ→オバマ→トランプと3回の大統領引き継ぎに関わった。彼女によると、オバマ大統領はトランプ氏への引き継ぎの際、彼自身がブッシュ大統領から受け取ったのに匹敵する、あるいはそれ以上の質の高い準備をするよう厳命したので、国家安全保障会議は100以上のペーパーを作成したという。書類が読めないトランプにとって大迷惑だったろうが、政敵がスムーズに仕事を始められるよう最上の引き継ぎをしてやるのは、オバマの美意識=「遊び」の価値だったに違いない。(トランプはもちろんバイデンへの引き継ぎを力の及ぶ限り妨害した。)
政治家から遊びの美学が失われたとき、社会から遊び心が枯渇したとき、民主主義は破綻する――極端な貧富の差や社会の分断が民主主義の危機をもたらすのではない。僕たちの若い頃、分断ははるかに鋭かった。ソ連に人間社会のユートピアを見ようとする人たちと(僕もその1人だった)アメリカとの同盟を信じる人たちとは不倶戴天の敵。だからといって民主主義を疑いはしなかった。(共産党のトップだった不破哲三は、田中角栄が彼の国会質問にいかに真摯に対処したかを、懐かしんでいた。)
遊びの美学が初めから存在しない国もある。ロシアの報道をしながら、この国ではなぜ民主主義がうまく行かないのか考え続け、気づいたのは、フェアプレーとか「恥を知る」のような美意識が欠落していることだった。議会でエリツィン大統領が保守勢力に追い詰められたとき、ちょっと妥協の姿勢を見せたら、敵は勇気百倍、エリツィンを再起不能になるところまで叩きのめそうとした。ルールを守らなくては議会という遊戯は成り立たない。やがて保守勢力は議会を占拠し、武器弾薬を運び込み、一触即発の緊張と不安。その緊張を解いたのはエリツィン側からの戦車砲撃だった。議会に戦車砲が撃ち込まれたとき、僕は、「モスクワに、ほっと安堵の空気が広がりました」とレポートしたのを覚えている。こんなときは、エリツィンの強権を民主主義否定として批判しなければいけないのだが、それは嘘の報道だ。力しか信じない相手に対し、話し合いによる解決を求めるのがいかに危険かを、モスクワ市民は良く知っている。だからエリツィンの砲撃を心から喜んだのだ。
それにしても、ロシアに「恥を知る」美意識がないのはなぜだろう?僕らが恥とか、忠誠とか、名誉と言う言葉を聞くと真っ先に連想するのは中世の侍の生き様だ。封建制のなかで「恥を知る」価値が磨き上げられた。武士や騎士が命がけで忠誠と名誉を競った時代に、フェアプレーのスポーツ精神が完成し、それがやがて民主主義のバックボーンになったのではないか?しかしロシアの歴史に、皇帝→官僚貴族→農奴の強権支配はあっても、主君と侍が倫理的に固く結ばれた封建時代はなかった。「恥を知る」環境が欠落しているのだ。
他方、ヨーロッパと日本で民主主義が成功したのは過去に充実した封建制を経験しているからではないか?封建制によって、政治と戦いにおける「遊び」の美学が磨かれ、それが民主主義に受け継がれたのだ。
「日本の武士が身につけている思想に、世俗の凡夫には真面目なことであっても、勇士には単なる遊びにすぎぬ、というのがある。……そういう封建的英雄主義のうちに数えられるものに、高貴な心情の持ち主が、あらゆる物質に対して示す完全な軽蔑、無視がある。日本の大名、上杉謙信は、山国を治める武田信玄と戦いを構えていた。その時、彼は、第三者のある大名が信玄に対する塩の供給を断ったということを知った。謙信はさっそく家臣に命じて敵方に有り余るほどの塩を送らせ、『私は塩をもって戦うのでなく剣で戦う』と言った。これもまた明らかに遊びの規律への忠誠を示したものである。」
ところが、武士道・騎士道を生む封建制は、世界史の中でむしろ例外的にしか成立しないらしい。ロシアや中国にはその条件がなかった。戦前にイェール大学で教えた朝河貫一は、ロシアに封建制が存在しなかったことを強調し、ロシアはローマ文明も封建制も経験しなかったがゆえに、近代民主主義の市民道徳を持たないと言い切っている。
朝河によると、ナチズムを生んだドイツは封建制が未成熟だった。しかし、歴史の発展としては、その方がノーマルであり、フランスのような典型的封建制はアブノーマルなのだそうだ。すると、封建制の血を引く民主主義もアブノーマルと言うことになる。朝河は、これを幸福なアブノーマルと呼んだ。ホイジンガも騎士道が花咲くためには特殊な社会土壌がなくてはならないことを指摘している。
「生活理想でありまた生活形式でもある高貴な戦いの体系は、特にある社会構造と自然に結びついていた。それはどんな社会かと言えば、大きくも小さくもない程よい土地をもった多くの武士貴族たちが、聖君として崇める君主に従属し、その君主に対する忠誠心が生きることの意味であるような社会だ。こうした、働く必要のない自由人の社会においてのみ、騎士道が花咲き、前代未聞の手柄を誓う遊戯が大真面目に行われたのだ。」
日本、西欧、米国はアブノーマルと言えるほど稀な幸運に恵まれてきた。しかし、民主主義は僕らの想像以上に特殊でもろいものなのだろう。国民が努力を怠れば、たちまちノーマルの政治体制=強権支配に落ち込んでしまうことが、トランプ大統領の4年間によって学習できたのである。
(2020/12/15)