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ルネサンスと鳩時計——東京人から見たスイス|一時帰国②隠喩としての機械|秋元陽平

一時帰国②隠喩としての機械
Temporary leave from Switzerland II — Machine as a metaphor

Text by 秋元 陽平 (Yohei AKIMOTO)
Photos from Wikimedia commons

気後れがしたのは、端的にいってル・コルビュジエに対する自身の無理解ゆえである。最初に有名な「建築は住むための機械」というマニフェストを知ったときにも、それは例えばダダ、シュルあるいは未来主義のように、「宣言」にパフォーマティヴな重層性をもたせた同じ20世紀前半の芸術運動や、あるいは自己と「方法」、自己とある種の合理的精神のあいだの極めて錯綜した関係に執着したポール・ヴァレリーに比べるといささか純朴な、一世紀も、いや数世紀も前の主知主義的言説のように感じられ、さほど関心が持てなかった(それはある意味ではそうなのだが!西欧モダニズム全般に漠然とした関心はあったくせにコーリン・ロウの名もずっと後になるまで知らなかった)。
それでも、西洋文化研究に曲がりなりも入門した20歳の時分にパリからTGVで南下して南仏を旅行する機会があったときには、ごくスノッブな関心からマルセイユで降りてユニテ・ダビタシオンを見に行くことにしたものだ。わたしは律儀にも前もって彼の写真集やマニフェストのたぐいを改めてながめ、美しいサヴォワ邸や、意表を突くコンクリートの修道院に人並みに目を奪われたのだが、ひっかかったのはむしろ、彼がシュルや未来主義と共有する機械のメタファーのもつ含みであった。

そもそも、彼のいうように、建築が住むための機械で、水差しが水を差す機械だと言ったところで、機械という語や隠喩のもつ射程にはひとかたならぬ複層性がある。コルビュジエの明示的レフェランスのひとつであるデカルトの機械論を「メカニスム」と訳すと、すでに日本語の持つ「機械」のもつ具体性からは少しずれてくる。スイスでメカニスムといえば、時計のなかに埋め込まれた極めて小さな歯車の織りなす精緻な複合体としての「機構」のことである。仮に機械を、複数のユニットの組み合わせからなり、一定の形態をもち、力学的法則に従い機能的連関を成して与えられた目的を果たすものだとしよう。デカルト哲学は身体=物体 le corps を機械と考える。ところで、デカルトによれば、魂は「わたしたちの思考のように」分割不可能なユニットとして数えられる、というよりもむしろ、単一といえるものがあるとすればそれは魂以外にはない。そしてこの魂があってこそ身体=機械はひとつの連関として統一される。すると魂の支配をうけない存在者たち、黙せる機械一般というのは、本質的に力学法則に従うものどもの寄せ集めを漠然と指すこととなり、そしてあらゆる物体は力学法則に従うのだから、物質的世界のどこからどこまでが機械であるということができなくなる危険を孕んでいる。あるいはむしろ、これが一つの機械だ、と名指すとき、そこにフェノメナルなまとまりを見て、トップダウンで目的を割り付けていくのは、むしろわれわれの魂、すなわち分画する精神だということになりはしないか。そうであるならば、「機械」という語は、「あの」機械または「この」機械、きれいに磨き抜かれたピンセットで時計職人によって拾われる美しい小さな歯車や、それが織りなす完結した機構などではなく、潜在的に物質の世界まるごとすべて、巨大なビリヤード台としての世界の、無数の球の力学的ぶつかり合いの、莫大な交通全体を指すことになる。そこに目的と機能を割り付け、線を引くのはわれわれなのだ。なにかを機械として捉えようとすることは、その意味で、不定形のマッスを囲ってユニットを設計してやり、対象の領域を確定し、その閉域を取り巻く未定義部分への働きかけを定義することを通じて、その未知の領土へとさらに精神を伸張する行為にほかならない。そう考えてみると「機械」礼賛とは、進歩主義、機能主義を含意する以前に、われわれが切れ目をいれて繋ぎ直してやらない限り、漠然と一体化した、怠惰でちぐはぐな、不定形の機械としての世界に対する宣戦布告でもある。

ことほどさように、機械礼賛は込み入っている。それはしばしば、機械が人間性をよく反映しているという主張を含んでいるが、この主張は、実のところ人間精神は決して機械ではない、という揺るぎない——そして根拠のない——確信がなくてはなかなか出てこない。「芸術家Xはモダニスト的な機械の礼賛者である『にもかかわらず』あるいは『一方で』、Xの芸術は総合的ヒューマニズムの産物なのだ」という、方法論を強く打ち出した芸術家に対して言っておけばまず無難なクリシェにみられる逆接ないし並列は、したがって不正確である。世界の中にオブジェクトとしての機械を見るのであれば、それを機械として切り離す、恣意的な、そして機械から存在論的に切り離された精神の働きを信じざるを得ず、その意味でヒューマニストたらざるを得ない。屋上屋を架すつもりで付け加えるならば、したがってたとえば建築物を機械とみなすならば、建築家は潜在的に、囲い込んで孤立した内部を作ろうとすること、まさにそのことによって、境界線のあちらとこちらの交通を設計することになるだろう。機械は法則によって継ぎ目なく接続された物理世界の一部を切り離し、再設計し、滞留させたのちに再び外部へと接続する。機械には機能主義以前にそれだけの含意があり、モダニズムが一般に機械に——多分に好ましい——多義性を見出したことは不思議ではない。構想されたそのような閉域が本当は生命そのものとそう違うものではないとしても、そこでむしろ物質化されるのは、切って繋ぐこと、コンポジションへの意志、「上空飛翔的な」精神なのだ。

当時20歳のわたしがGooglemapの印刷物(!)を握りしめて、麻薬中毒者と思しきうつろな目の男が立ち小便をしている路地をそそくさと走り抜けた先に見た、蒼く透けるマルセイユの空の下ではかえって褪せて見える平板な赤や黄色がちりばめられたコンクリートの長方形、そのピロティを支えるコンクリートのずんぐりとした足の、ややくたびれた灰色のつらなりは不気味だった。都市の中に、人間の解放区を作り出そうとするまさにそのことによって、地面を縛り付けて規定しようとする意志の展開物としての足。マルセイユの青色をくすませる病気の象のような灰色の足だ。そのユニットの機能的連接はむしろ、孤立したマッスとしての一体性を際立たせているように見える。いまや切って繋ぐという意志だけが、孤塁を守っているのだ。(続)

(2020/11/15)

 

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秋元陽平(Yohei Akimoto)
東京大学仏文科卒、同大学院修士課程修了。在学中に東大総長賞(学業)、柴田南雄音楽評論本賞などを受賞。研究対象は19世紀初頭のフランス語圏における文学・哲学・医学。現在ジュネーヴ大学博士課程在学中。