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特別寄稿|私のフランス、私の音|(9) コダーイシステム、東欧の響きと風味|金子陽子

(9)コダーイシステム、東欧の響きと風味
Méthode Kodàly et les saveurs de l’Est

Text by 金子陽子( Yoko Kaneko )

1, 桐朋学園のコダーイシステム

1970年、音楽好きな母の計らいで私は桐朋学園子供のための音楽教室『3歳児クラス』に入室した。とはいえ5月生まれの私は4月の段階でほとんど4歳、しかも3歳の誕生日の日から母の手ほどきでピアノを始めていたので初心者という訳ではなかった。「当校ではハンガリーの優れたコダーイシステムで、楽器に触れさせずにまず『音感教育』から手ほどきを致します。ピアノをもう弾いているなどとんでもない!即辞めさせてください!」と母は室長先生に面接で叱られたという。
ピアノを「一時休業」した私は、桐朋学園3歳児クラスの生徒として、楽器不在ながら和やかで楽しい雰囲気の中で音楽の教えを受けた。当初から使われた唯一の「音楽教育的」教材は、先生が授業の始めや唄の始めに『ラ』(440ヘルツ)の音を知らせる音叉(仏語でディアパゾン)のみ、他には輪になって唄を唄いながらお友達に投げる「ボール」などを使用していたので、3歳児達にとっては正しく「お遊戯」という感覚だった。先生がハミングしてくれる『ラ』の音を基に順番にわらべ歌を歌い、手で拍子を取り、リトミックで歩き、グループ別に「カノン」、そして唄と手で「1人カノン」、更に足も加えて「3声の1人カノン」まで実現した記憶があり、何気なく高レヴェルだったことに感嘆せずにはいられない。先生のハミングと音叉の『ラ』のお陰で3歳児達はほぼ『絶対音感』をマスターし、音符を型どった黒(4分音符)や白(2分音符)の、太ったり痩せたりした可愛らしい「オジサン」のイラストカードが登場すると、トランプのようにカードで遊びながらリズムを習得、自分の身体の上下の位置に右手を合わせて「ドレミファソラシド」の音と「上下の音程感覚」も身につけるという、自然、創造的、かつ考え抜かれた優れたメソードだったと思う。「オジサン達の音符」のカードは、後に私がフランスに持参して、生まれてきた2人の娘達の手ほどきにも使って大いに役立った。

「オジサン達の音符」のカード

一年後、3歳児達が4歳となり、五線譜を学習して ピアノに触れるようになった際には、ハンガリーの民族音楽を取り入れたバルトークの子供の為の小曲集なども勉強し、私自身遠い国に住む人々の生活に思いを馳せたものだ。
日本の音楽家とハンガリーの接点はこのように意外なところで早期から始まっていた。ハンガリーの民族は外見的にもアジア的要素があるようだし、言語学的にも日本語とハンガリー語は類似点が多いとも言われるから不思議なものだ。

2, パリ − 東欧の寝台車旅行

1987年、パリに留学したての私の初めてのクリスマス休みは、同じく桐朋から留学した楽友を訪ねてドイツのデトモルトとハンガリーのブタペストへの一人旅と決めた。トーマスクックのヨーロッパ時刻表を調べ、パリ東駅の窓口で乗車券を予約して寝台車に乗る。一晩寝るだけで違う国に行く事ができるのは大陸ならではの面白さ。今思い返してもかなり大胆な一人旅で、私はドイツとハンガリーのそれぞれ違う文化とお国柄を垣間見ることができた。ドイツのデトモルトは当時著名なピアノやチェロの教授が教鞭を取っていらしたが、録音技師の世界最高峰の学校があることでも有名だった。ちなみに、2005年にインマゼール氏と録音したモーツアルトの2台フォルテピアノのためのコンチェルトのレコーディングを担当した素晴らしいドイツ人の録音技師達は皆デトモルトの学校で研鑽を積んだ顔ぶれだった。
一人旅が大胆と書いたが、「有料」の寝台車両を選ぶ限り、それ相応に裕福なカップルや家族連れと一緒の個室になり、意外と安心で孤独感を味わう事もない。むしろ彼らと英語で会話をして話題が広がることに私は密かな興奮を覚えていた。デトモルトからブタペストに向かうベルグラード(現セルビア、旧ユーゴスラヴィアの首都)行きの列車では、これからお国に帰省、という子連れの一家4人と同じ個室となり、朝目覚めるとセルビア名物というチーズの入った塩味のケーキをご馳走になった。母親が焼いたという香ばしい朝ご飯をセルビア人家族の一員のようにして分けていただき、私の身体は芯から暖かくなった。

後の1991年に、ユーゴスラビア分裂に至る嘆かわしい戦争勃発のニュースを知った時にまず思い浮かんだのはこの一家の笑顔とあの朝のチーズパンケーキの香りだった。

3, オーストリアでのハンガリー体験その1

1986年から90年にかけて、恩師の故ムニエ女史がパリから教えに来られるオーストリアのザルツブルグ夏期音楽講習会に毎夏のように参加した。モーツアルトの生誕地として有名なザルツブルグは、その名(ザルツ=塩)のとおり岩塩の産地でもある。知り合いがモーツアルテウム音楽院の掲示板に貼られていた『アプライドピアノ付きアパルトマンの貸部屋』のアノンスを見つけてくれたお陰で、私は自宅で翻訳の仕事をしている音楽好きのオーストリア人女性宅に毎夏下宿するようになった。さっぱりと化粧っ気のない40代前後の彼女は猫と暮らしていた。
とはいえ、仕事の電話は頻繁に鳴り響くし、週末に恋人が泊りに来るかと思えば、事務的な用事で調律師の前夫が呼び鈴を鳴らしたりと、平凡ではなさそうな彼女の私生活をも私は聞かずとも知る様になった。恋人がいる週末は私も寝室に籠って読書をする。ヨーロッパ人にまだ慣れていなかった私の眼には、恋人の風貌が野生的に見え、グラス片手にスパニッシュギターを夜な夜な奏でて彼女と酔いしれる様は正に『古いフランス映画』のように映ったものだ。
ある時、恋人は可愛らしい小さな女の子と一緒だった。「前妻との間の子供よ」と女性はサバサバと私に少女を紹介してくれた。人懐っこい青い眼で『パパの恋人宅に下宿中のピアニスト』にドイツ語で挨拶すると、少女はパパのギターに合わせて大好きなフラメンコを踊って見せてくれた。この親子がスペイン人だったのか今になって知るすべもないが、まだ幼い肢体から漲る喜びとラテン的なエネルギーの強さに私は眼を見張った。モーツアルトの生地にて、ピアノをさらいたかったために間借りをしたご縁での、思わぬ、つかの間の少女との出会いだった。

私のこの下宿体験は、日本で想像するような、「カツラを冠ったお上品なモーツアルト」の顔が印刷されたチョコレートや、初々しい民族衣装と笑顔で絵はがきを彩る「オーストリアの美女達」とは全く違った、現実に生きる、自由で独立したヨーロッパの女性の生き方を私自身の眼で見た貴重な機会だった、と今理解している。

滞在最終日に、女性は初めて手料理を振る舞ってくれた。オーストリアの隣国ハンガリー名物というパプリカ云々、という煮込み料理で、赤いピーマンの中にひき肉、たまねぎ、固目にさっとゆでたお米を混ぜて詰め、人参やじゃがいもと共にトマトソースでコトコトと煮込む。暖かいパプリカとスープの香りに家中が包み込まれた感覚と、そのとろりとした舌触りは抜群だった。教わったレシピを大切に暗唱しながら私は女性に別れを告げ、パリ行きの寝台特急に乗り込んだ。

4, オーストリアでのハンガリー体験その2

2017年のウィーン、思いがけず音楽家、しかもヴァイオリニストを目指すようになった16歳の次女と私は音楽巡礼旅行をしていた。3日目には遠出に挑戦、ハイドンが宮廷楽長として永年勤めたエステルハージ (Esterházy) 宮殿を一日かけてゆっくりと訪ねるべく、アイゼンシュタット (Eisenstadt) 方面に向かう朝の電車にウイーン中央駅から乗車した。どこの国でも見かけるような、最新型の車両である。しかし、2月のオフシーズンの車内はガラガラで観光客は私達だけ。スマホのナビシステムが充実していなかったため、途中でふと気がついた時には、大きな湖を迂回していたはずの電車の車両が知らないうちに前後2つに切り話離され、私達が乗っていた車両は湖の反対側、つまりアイゼンシュタットと正反対のハンガリー国境近くまで来てしまっていた。大慌てて停車駅で降りたものの、その駅は、この眼を疑うような田舎の真っただ中、バスやタクシーどころか、氷雨が降る短いホームに屋根もあるかないかという具合、しかもホームに貼られた時刻表の表示はドイツ語とハンガリー語のみ。苦労しながら時刻表の詳細を見ているうちに、この駅から電車が分離された駅まで戻れる電車は、週日の日中だったこともあってなんと1時間半後、エステルハージ宮の閉館時間を気につつ、駅の横に唯一あった商店兼カフェで、雨宿りをしながら辛抱強く待ち続けた。

乗り越して途方に暮れていたハンガリー国境近くの草むらの中の田舎駅の掲示板

後で知ったのだが、実はこの乗り越した駅で降りずに道中を続けていれば、ハンガリー領に入り、ベルサイユ宮殿を真似て建てられた、Fertödのエステルハージ宮殿の近くまで行かれたのだ。ほんの10キロちょっとの距離であった。エステルハージが2カ所、しかも切り離された車両が両方とも2つのエステルハージまで行くとは、なんとも可笑しい発見だった。

念願のアイゼンシュタット駅に降り立ち、一分も無駄にできないことからタクシーでエステルハージ宮に無事飛びこんだのは、閉館30分前!どんよりとした冬の空はすでに薄暗くなりかけていた。しかし苦労してきた甲斐があった。数々の楽器は勿論、響きが素晴らしい大きな「Haydn-Saal =ハイドンザール」の「空間」を娘と2人だけで、ほんの短い間ではあったが独占して堪能、ハイドンの息づかいや親密さに思いを馳せた。一日かけてたどりついたハイドンザールでの「数分間」は一生に残る思い出として脳裏に刻まれた。

アイゼンシュタット、エステルハージ宮のハイドンザール, Haydn-Saal, Palais d’Esterházy, Eisenstadt

そしてこの地でも解説はドイツ語とハンガリー語が主だったのには正直驚いたと共に、恩師インマゼールがことあるごとに強調していた「ハイドン(とシューベルト)の音楽においてのハンガリー的要素」が、こんな些細な事からも改めて理解できた。エステルハージ宮内の閉店間際のギフトショップでアイゼンシュタット製の上等な「貴腐ワインTrockenbeerenauslese」をご褒美として一本購入し、クリスマスに次女と一緒に味わった。貴腐ぶどうの芳香と蜂蜜のような甘味が上手く混ざった絶品だった。

貴腐ワインTrockenbeerenauslese

5, パリのロシア正教会での音楽と味談義

サン・セルジュ・ロシア正教会 (Paroisse Saint-Serge Paris)

住んで20年目になるパリの我が家のバルコニー、向かいの林の奥に薄暗く佇む古いレンガの建物は知る人ぞ知るサン・セルジュ・ロシア正教会 (Paroisse Saint-Serge Paris)だ。信者からの寄付という年代物のグランドピアノが置かれていることから催された教会チャリティーコンサートのお陰で、昨年以来少しずつ教会関係者と知り合うようになった。
初めて知ったことであるが、伝統的にロシア正教会にはオルガン等の楽器は一切無く、司祭とアカペラ(無伴奏)の男声(を主体とした)合唱が、なんと2時間にも渡る(椅子もほとんどないため、ほぼ立ちっぱなしの)礼拝で重要な役割を果たす。その飾り気の無い暖かく深いハーモニーを聴く為に、私は日曜朝の礼拝に顔を出す様になった。
表情豊かな、いわゆるクラシック音楽で言う『合唱』や、作曲家の個人的感興を投入して祈りの精神からはかけ離れた「豪華な」レクイエム(ブルックナー、ベルリオーズ)等の作品とは全く違う「祈りにメロディと和声を添えて神と対話する」ことを目的とした「音楽の一つのあり方」がこの祈り(合唱)を通じて提示されている。私が内容を理解できる日など決して来ないだろう「古スラブ語」の祈りが、翻訳されずとも直接「魂」に浸透してくるようでもある。補祭と共に神学や哲学、古代ギリシャ語やスラブ言を学んでこの礼拝で唄う資格を持つ信者はごく限られているが、その中に、パリ音楽院作曲科を卒業し近郊の音楽院で教鞭を取るセルビア出身のアレクサンダーとハンガリー出身のジョゼフがいた。同じくパリ音楽院卒である(ニホンジンの)私と3人での礼拝後の音楽談義に自然と花が咲くようになった。
朝晩冷えて煮込み料理が恋しくなってきた9月のある日曜日、私はふと、30年ぶりに、あのハンガリー料理を思い出し、ザルツグルグ仕込みの例のレシピをジョゼフに話してみた。「固めのお米をひき肉に混ぜる」詳細までもが正に故郷ハンガリーで「おふくろの味」として食べ続けてきたものと全く同じだ!と、ジョゼフは眼を丸くして驚き、皆で大笑いした。

ママの赤パプリカの肉詰め、ドイツ語でGefülte Paprika、ハンガリー語で Töltött paprika

タイムマシンにでも乗った気分で私はこのハンガリー料理を30年ぶりに作った。『ママの赤パプリカの肉詰め、ドイツ語でGefülte Paprika、ハンガリー語で Töltött paprika』はもう成人した2人の娘達から絶賛され、撮った写真を見せたジョゼフからも「合格」をもらった。私はまるで女王様になったような気分だった。

それにしても、こんなに簡単で素敵な料理をどうして私は30年間も作らなかったのだろう? ピーマン嫌いが身内にいたのだろうか? それとも、私にご馳走してくれたザルツブルグのあの女性の強さと自由さが、若かった私にはずっと眩しすぎると感じていたためろうか、とも考えた。

友人の脳科学者から聞いた話だが、音楽家にはアルツハイマー病になる人が少ないという。何故なら、音楽は脳の中の「感情」を司る部分と深く関わるからだそう。
「味と香り」もきっと同じなのではないだろうか? 心のこもった料理の味と香りは人生の大切な場面の「証人」となって、喜び、悲しみや慰めと共に記憶の中に大切にしまわれ、折にふれて万華鏡のように溢れ出し人々との絆を紡ぎ直してくれる。

遂に我が家にやってきた、香ばしいセルビアの塩味チーズパイ『ギバニツァ/ Гибаница』

今私に残された最後の「謎」は、1987年クリスマスの寝台車旅行の朝、セルビア人一家からご馳走になったあのチーズ風味のパンケーキだ。この秘話をセルビア出身のアレクサンダーに披露したところ、「それはギバニツァ Gibanica (Гибаница) だよ! そんなら僕に任せて!」自ら作って今度教会に持って来てくれると約束してくれた。

私はその暁には近所の中国人が製造販売する「お豆腐」を(ダイエット中の)彼らにプレゼントしようと思っている。世界的に注目されている優れた食材「豆腐」が、パリのロシア正教徒達の間にもこの先広まり、私のお陰で世界史(宗教史と料理史?)の新しい1ページが書き加えられるかもしれない。
私達の『音•食•宗•談義』はこれからも続いていきそうだ。

 

(2020/11/15)

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金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
https://yokokaneko.wordpress.com/